幸福の在り方
「あら、つばき君! その可愛い子は妹さん?」
「親戚です。しばらく預かる事になりました」
「つばき君、これうちの実家から送られてきた野菜! その子に美味しい料理作ってやんな!」
「ありがとうございます」
「つばきさーん、今日はお肉屋さんで牛肉特売みたいよ。早く行かないと売り切れちゃう」
「後で行ってみます」
「つばきさん」
「何、あやめ」
「つばきさん人気者なんだね」
歩いているだけで向こうから話し掛けられる。
人参やら白菜やら葱やらが詰め込まれた袋を手に提げるつばきは、この街ではよく知られていた。
年齢不詳の狭くて古いアパートに住む美青年。
星の王子様と呼ばれている、そうで。
星という点では間違ってないかもしれないとあやめは思った。
顔が急にぐにゃぐにゃになって、別な顔になる所なんて誰も知らないのだろう。
人間ではない事も自分しか知らない。
ちょっとした優越感のようなものが心を満たす。
頬に冷たいものが当たる。
白に近い灰色の空から雪が降り始めていた。
つばきが舞い降りるそれをじぃ、と見詰めながら口を開けた。
食べる気だ。
「つばきさん雪食べたらお腹壊すよ」
「地球の物質で僕の体は壊れない。この星の氷とか雪がどんな味か気になるだけ」
「でも、駄目だよ。あんまり美味しくないと思う。ていうか味、しない」
星の王子様が雪を食べている様を見たら近所の人も引くだろう。
いや、あれほど溺愛しているのだ。
その姿すら素敵だと言いかねないが。
あやめの説得でつばきは雪を食べる事を断念したのか、口を閉ざす。
ただ、未練はあるようで首を上下にゆっくり動かして、地面へ落下して水に変わる様子を何度も繰り返し見ている。
「つばきさんの住んでた星には雪降ってなかったの?」
「降ってなかった。だから、どんな味がするのか気になる。映像では見た事あったけど、この目で見るのは初めてだから」
つばきの吐き出した息が一瞬だけ白くなって、消えて空気と溶け合う。
最初は疎らだった雪の量が次第に増えていく。
体はコートとマフラー、それに手袋で守られている。
だが、頭はどうにもならない。
つばきの薄い黄色の髪に雪の欠片がいくつもついている。
それを見て、あやめは自分の髪に触ってみた。
冷たい。
「この星には僕が知らない事たくさんあって、それが知りたくて半年前に来た。綺麗なものも汚いものもたくさんあって、美味しいものも不味いものもたくさんある。
心が綺麗な人間も汚い人間もたくさんいた、かな」
「そんな理由で来たの? 地球征服したり、滅ぼすためじゃなくて?」
「僕の星の者は皆、欲がないというか、ただ時間が流れるままに生きてる」
ゆっくり生きられるならそれでいい。
余計な事を考えないで、死ぬまで穏やかに緩やかに時を刻む。
そうするだけの技術がちゃんと存在する。
大きな喜びも絶望もなく幸せに生きられる。
その代わり、感情が希薄になってしまった。
特に悲しみや怒りや恐怖や憎しみなどの『負』の感情は生きるために切り捨てるものだとした。
星の住人は更なる幸福のために、『進化』を遂げた。
嫌な感情を全て奪い取る力を得た。
『心』を置き去りにして幸せを手に入れた星の住人。
そう語る青年に、あやめは羨望を含んだ笑みを浮かべた。
「いいなぁ。何も考えないで幸せになれるんでしょ?」
「うん」
「私、嫌な気持ちにたくさんなったから、そういう風になりたい」
「羨ましい?」
「うん」
純粋にそう思った。
そこに生まれていれば、痛い思いも怖い思いも悲しい思いもしたくて済んだかもしれない。
誰もあやめを殴らないで、蹴らないでいてくれる。
それはあやめにとっては幸せ以外の何でもない。
なのに、つばきは首を横に振った。
「あやめはそういう風にならなくていい」
「だって私、つばきさんと同じ星に生まれたかった」
「僕の星の人達、幸せだけど幸せじゃないから。あやめは地球に生まれてきて良かったと思う」
「何それ」
あやめが少し拗ねたような口調で聞けば、つばきは「何だろ」と答えになっていない答えを独り言のように言った。
「僕が地球に行きたいと思ったきっかけは、この星の人の映像を見たから。見た事がない食べ物がたくさんあって、皆笑ってた。僕達より苦労してるって聞いてたのに、とても幸せそうに見えたんだ」
「……みんな、幸せな人ばっかりじゃないもん」
つばきが立ち止まり、紫色の目を丸くした。
あやめは慌てて口を両手で覆った。
余計な事を言ってしまった。
心臓がバクバクと言い始め、心が冷たくなっていく。
つばきの手があやめへと降りていく。
殴られる。
「っ! ごめんなさい、つばきさ」
やって来るはずの痛みはなかった。
つばきの手はあやめの頭を宥めるように撫でるだけだった。
怖い、という気持ちが吸い取られていく。
掌の温かさに安心して見上げると、つばきは悲しんでいるような、困っているような表情をしていた。
「殴らないよ」
「……怒ってない?」
「怒ってもない。大丈夫。あやめは僕が幸せにしてあげる。たくさん幸せをあげて、たくさん愛するから」
「つばきさん」
「僕を拒絶しなかったあやめをどんな事をしても、幸せにしてあげる」
「つばきさん?」
怒りの赤と悲しみの青が混ざり合ったような紫色の瞳。
宝石のように美しいそれが一瞬だけ怖いと思った。
それは本当に一瞬で、つばきは何事も無かったように何故かかき氷の話を始めた。
雪は止んでしまっていた。
数分後、辿り着いた肉屋には人だかりが出来ていた。
この調子ではすぐに売り切れてしまうだろう。
「今日の夕飯はすき焼きにしよう。美味しそうだから作ってみたい」
「じゃあ、早く並ばないとお肉なくなっちゃうよ」
マイペースなつばきを待たずにあやめが列の最後尾へと走って行った。
その後ろ姿を数秒眺めてから、つばきも既に列に加わったあやめの元へ歩いて行った。
「君は、幸せになるべきだ」
その言葉は少女へ届く事なく、冬の風に掻き消された。




