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変わる男




 久しぶりにまともな服を着せてもらった。

 あやめは鏡に映る自分をじっと見詰めた。

 模様も何もついていない質素な水色のワンピース。

 それでも、布切れよりは全然いい。

 どこにでもいるような少女の格好をした鏡の中の自分をずっと見ていると、部屋に誰かが入ってきた。

 姫花が愉しそうに鼻唄を歌いながらあやめを眺める。


「あんたみたいなのでもちゃんと綺麗な服着せておかないとキャンセルされるかもしれないでしょ」

「……うん」

「いつまでも鏡見てないで早く来なさいよ。あんたの世話係もう来てんだから」


 姫花に促されて玄関まで向かう。

 この家を出ていくのに荷物は一つもない。

 正確に言えば、あやめの私物なんて沢島家にはないのだ。

 薄いワンピースの裾をはためかせて歩く。


 玄関では母が世話係らしき男に茶封筒を渡していた。

 きっと金だろう。

 姫花に「ママ」と呼ばれて母が振り返る。

 あやめの視線は母を通り過ぎて、自分を買いに来た人間に注がれていた。


 長身の男だ。

 サングラスを掛けているので顔が分かりにくいが、髭だらけで若いのかさえ分からない。

 皺だらけの白いスーツに緩めのジーンズ。

 ろくでもない人間という事だけは分かる。

 食い入るように男を見詰めていると、姫花が笑う声が聞こえた。


「あやめ、今日からこの人と一緒に暮らすんですよ」


 首を横に振りたくても振れなかった。

 ここで男を拒絶しても、どうせ連れて行かれる。

 それにこの家に留まる理由すら見付からない。

 幸せに生きられないのはどこでも同じだ。


「よろしくお願い、します」


 男に頭を下げると、手を差し伸べられた。

 爪が切り揃えられた綺麗な手だった。

 それを握り締め、靴を履く。

 その時、バランスを崩して前によろけそうになる体を男が支える。


「あやめ、あまりその人を困らせては駄目よ」

「その内会いに行ってあげるからね」

 二人が思ってもいないような事を言って手を振る。

 あやめは無言で男の手に引かれて家を出た。


 最近は家から出る事も出来なかった。

 一ヶ月の外の世界は空気が澄んだ場所だった。

 周囲を見回すあやめに男が話し掛ける。


「どうしてそんなに物珍しそうな顔してるの」


 思ったよりずっと若い声だ。

 男、というよりも少年に近いそれにあやめは我に返って謝りの言葉を口に出した。

 挙動不審に見えて周りに怪しまれる。

 そうすれば男にとっても都合が悪いとあやめは知っていた。


「ごめんなさい」

「謝らないで」


 男は首を横に振った。

 あやめを宥めるためなのか、単に謝られるのが嫌いなだけか、どちらか判断に迷う静かな声だった。


 男が空を仰ぎ見たのであやめも見上げてみる。

 炎色に空が染まった夕暮れ時。

 もう少しで葡萄色に変色して月が出て、星も姿を現すだろう。

 これから同居する事になる見知らぬ男と初めて見る空は、激しく苛烈な色彩で描かれていた。

 太陽の光の眩しさにあやめは目を逸らしたが、男はずっと見上げていた。


「太陽は巨大な炎の塊」


 男が突然そんな事を言った。


「地球が無事でいられるのは、二つの星が適度な距離を保っているから。その微妙で危うい均衡が少しでも崩れたら地球はあっという間に滅びる」

「……そうなの?」

「うん。この星の人達は気付かないだけで地球は少しずつ、少しずつ太陽に近付いてる。いつか、近付き過ぎて燃える」

「そうしたら、人がたくさん死ぬんだね」


 太陽は地球なんかよりずっと大きい。

 象と蟻ぐらい差がある。

 もし、人間がその事に気付いて必死に抵抗しても敵わない。

 あっという間にみんな焼き尽くされて死んでしまうのだろう。

 自分が凄い人間なんだって威張っている人も簡単に死ぬ。


「……そうなったらいいのに」

「何か言った?」

「言ってない、です」

「そう。じゃあ、行こう」


 ボサボサの黒髪に髭まみれでだらしない格好で不潔そうな男。

 あやめはまだその印象を拭い切れないのに、ずっと男の手を握っている。

 沢島家にいた時の自分と同じような臭いがすると思ったのに、何もしない。

 外見とは裏腹に透明で落ち着いた声。


 まるで、汚い人間の皮を被った『何か』のようだ。


「月が出てる」


 男がもう一度あやめに話し掛けたのは、沢島家から随分と離れた街中を歩いている時だった。

 空は深い青に染まっていた。

 あんなに鮮やかで眩しかった頭上が、今は穏やかな夜の景色に変わろうとしている。

 黒い川の中で揺らめく無数の星屑。

 そして、仄かに光を放つ白い月。


「月はいいよ。海はあまりないけど、兎もたくさんいてみんな穏やかに暮らしている」

「うさぎ、たくさんいるんだ」


 男の絵空事だと分かっていても、話に乗る。

 自分の事を誰も知らない世界に行って、一人ぼっちで過ごしたい。

 殴られる事もなく、汚いものを見る事をなく、ずっと独りで。


「…………………」

「どうしたの? 今、何か言おうとしてたけど」

「何でもない、です」

「そう」


 欲求を言葉に出したら、殴られる。

 そんな事がないかもしれないのに、その恐怖があやめの口を閉ざした。







 冷たい風が吹き始めた頃、辿り着いたのは古びたアパートだった。

 どこも明かりがついていない。

 今日がここで二人で住むのだと男が言った。

 あやめは頷いて、男の手を強く握った。


 カン、カンと金属音を立てて階段を昇る。

 これから毎日この階段を使う事になる。

 そう思うと不思議な感じがした。

 使うと言っても、外に出してくれればの話だが。


 男が202号室のドアのノブに鍵を差し込む。

 きい、と引き攣れた音と共に開いていくドア。

 暗闇が広がる室内に男が先に足を踏み入れて、「おいで」とあやめを手招きする。

 あやめは靴を脱いで後に続いた。


 何も見えない。

 男がどこにいるかも見えない。

 底知れない恐怖にあやめは青ざめた。


「やっ……」


 パチン、と音がした直後天井に取り付けられた照明が白く光った。

 明るくなる室内。

 必要最低限の家具しか置かれていない質素な部屋だった。


「ようこそ。僕の部屋へ」


 男があやめの頭を優しく撫でながら言う。

 男を見上げたあやめは目を丸くした。


「え」

「え、てどうしたの」

「だって、さっきまでいた人がいなくなってる」


 あやめの目の前にいたのは、あの髭男と同じ格好をしたたんぽぽ色の髪の若い青年だった。

 外されたサングラスの下に潜んでいた、紫色の宝石のような瞳が固まっている少女を見下ろす。


「さっきの姿の方が良かった?」


 青年の顔がぐにゃあ、と『歪む』。

 顔の肉と髪が溶け合って肌色の塊になる。

 それは数秒の内に別の『顔』へと変貌を遂げていった。

 あやめをここまで連れてきた髭の男だった。

 瞳の色だけが紫のままだった。


「あのね、僕エイリアンだから、何にでも変われるよ」


 そう告げた男の顔が再び変化して、またたんぽぽ色の髪の青年に戻った。

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