4話
武蔵御殿が武蔵要塞と化す時!!
私の46㎝砲が火を噴くとそれと同時にソビエッキー・ソユーズとその護衛を担当する40㎝砲9門搭載のスターリングラード級戦艦オデッサ、レニングラードやソ連の誇る25㎝砲搭載のチタ級巡洋戦艦チタ、ウラン・ウデ、イルクーツクも負けじと砲撃を開始する。
ソ連艦隊の周囲に巨大な水柱が上がった次の瞬間、我が艦隊の周囲にも水柱が上がり、水柱が崩れると敵艦隊が肉薄して見えた。
「ふっ、敵も中々やるな・・・・・・」
私はそう言うと再びリボルバーに弾を込め、射撃に備える。
日本側もビッグ7の一角たる長門型戦艦である長門、陸奥に加え、投射量ではこの2隻に引け劣らない山城加え戦艦霧島、重巡高雄、愛宕、妙高、羽黒に軽巡洋艦矢矧と阿賀野と駆逐艦以下水雷戦隊が武蔵を援護する。
「武蔵にスターリングラード級戦艦を近づけるな!!山城、陸奥行くぞ!」
長門がそう言うと長門は握っていたリボルバーを敵に向け、それに続く様に戦艦として装備している41㎝砲が火を噴いた。
「上等だ!!武蔵に近づけるな!」
陸奥がそう言いつつリボルバーを構え、山城もリボルバーを構える。
「金剛姉さんや扶桑達の仇だ!!」
山城がそう言うとリボルバーのトリガーを引いた。
「おぉー凄いな・・・・・・負けてられるか!!撃て」
霧島がそう言いつつリボルバーのトリガーを引く。
長門級が放つ砲弾の総量は約8tに対し、山城は約7.5tであり、霧島は約5tで前述の3隻に比べて3t劣るものの、この4隻の砲弾投射は合わせて15tになり、武蔵単艦の火力に匹敵する。
燃え盛る軽巡名取、那珂等の惨状を横目に最新鋭の軽巡矢矧と阿賀野が駆逐艦雪風、磯風、時雨、最上の護衛を終えた初霜と軽巡夕張に匹敵するサイズを誇る最新鋭の大型駆逐艦島風や対空能力と雷撃能力を両立した秋月級駆逐艦秋月、冬月、春月、夏月を率いてソ連艦隊へ迫っていた。
「先輩方の仇は私がとります・・・・・・」
矢矧がそう言いいながら軍刀を空へ掲げると僚艦川内と駆逐艦達も一斉に15㎝、12㎝、10㎝、76㎜の各口径砲と610㎜もしくは533㎜の5連装魚雷発射管をソ連艦隊へ向け指向する。
「各艦砲雷撃準備完了しました!!」
第2水雷戦隊の参謀がそう言うと司令がすぐに発射命令を下した。
「そうか・・・・・・各艦一斉斉射!!」
「撃てぇえええー!!」
矢矧がそう言うと長門らの前に出て敵艦に向けて砲雷撃を開始する。
私に迫っていたソ連軍の駆逐艦は矢矧らの砲撃の前に次々に撃破されたが、川内は集中砲雷撃の末、撃沈されてしまった。
そう考えてみたら川内は私の身代わりになったのだろう。
苫小牧市内に対する艦砲射撃の最大の障害であったソビエッキー・ソユーズは私の砲撃と愛宕以下重巡の砲雷撃で大きく傷つき、既に船体の内部隔壁を魚雷によって撃ち竦められ、大量に浸水していた為、津軽海峡を抜ける前に力尽きるだろうと連合艦隊の司令部は予想していた。
残っていた3隻のソ連戦艦は長門以下4隻との撃ち合いで霧島を大破、陸奥と山城を中破、長門を小破させる損害を負わすも、オデッサが撃沈され、ウラン・ウデも大きな損傷を蒙り、チタとイルクーツクも航行不能に陥った。
1944年10月24日、ソ連海軍は苫小牧沖海戦で敗退し、ソ連は北海道東部占領を断念したが、未だに西部ではソ連軍との死闘が続いていた。
1944年11月4日、英国の仲介で我が国とソ連の停戦が決定した。
私はそれから60年以上、2007年まで帝国海軍から名を変えた日本国防軍の中核として現役にあり、1950年の朝鮮戦争、1972年のプノンペン事変におけるタイランド湾での示威行動など日本の国益を護る必要があった際に私は常に大和と共に出撃した。
1990年の環太平洋合同演習では空母琉球とかつての仮想敵だったモンタナ級戦艦を空母化したニューハンプシャーと共に航行する米戦艦ニュージャージー、ミズーリ、大和に私が並んで航行する写真が全世界に公表された。
2006年、私は羽田沖の国際観艦式で最後の勇姿を見せ、翌年の3月、桜の咲く横須賀で退役式典を実施し、現役を退いた。
そして、今は私は江田島海軍兵学校で記念艦として見学者を出迎えている。




