西暦1941年5月27日『戦艦ビスマルクの最期』
戦艦『ビスマルク』がどのような軍艦であるか、それをことさら述べ立てる必要はない。
それは帝政の灰の中で生まれた巨大な鋼鉄の化け物であり、積年の怨嗟を背に受け育まれたナチス海軍の象徴だった。
先行する『ドイッチュラント級ポケット戦艦』や、ましてや『シャルンホルスト級巡洋戦艦』とはまったく別物の船だ。
戦艦『ビスマルク』は明確に英国海軍の戦艦を撃破するために建造された艦であり、それはすでに巡洋戦艦『フッド』の喪失により達成されていた。
巨大かつ堅牢なドイツの戦艦は、強力な三八〇ミリ砲を以てして処女を切り、これより大洋の同胞としてなお英国に盾突くことになんら疑念の余地はない。
明確に脅威である敵に対する行動は、特に時間に猶予がない場合、単純明快であるべきだ。
これを徹底的に叩きのめし、二度と水上艦による攻撃など思いつかないようにしてやる。
ヴィルヘルム二世とティルピッツが夢描いた大艦隊に泥を塗りつけ、海軍大国とはいかなるものかというものを思い知らせてやったように。
あのユトランドと同じく、すでに血は存分に流されたのだ。
そしてその血は敵の血をもってして贖ってもらう。
戦艦『ロドネイ』『キング・ジョージ五世』そして『エジンコート』を主力とした艦隊は、渾身の力を込めて海原を駆けていく。
英国海軍はすでに戦艦『ビスマルク』を破滅させんとして、大西洋上に展開する戦力を集結し、何度も立ち向かっていた。
空母『ヴィクトリアス』艦載機の攻撃、忌々しい天候による失探、そしてカタリナ飛行艇による再捕捉、風速二〇メートルという極限状態の中行われた、空母『アーク・ロイヤル』艦載機による雷撃。
船団護衛任務中に駆り出された、勇ましい第4駆逐隊による夜間攻撃。
それらがあってようやく、戦艦『ビスマルク』の足並みは崩れ、初陣で疲れ果て自信を叩きのめされた新米の騎士は、我々の前に現れた。
5月27日の朝、時計を確認しながら艦長であるマリア・ヴィクス大佐は艦橋で砲撃を命令した。
「諸君、我々の義務を果たそう」
「「「アイ・マム」」」
いつものように、マリア・ヴィクスは戦闘艦橋には下りずに艦長席にしっかりと腰を据えていた。
エドモント・K・ヒューム准将は司令艦橋に籠ったままで、時折思い出したかのように伝声管で状況報告をするようにがなっている。
戦艦『ロドネー』と戦艦『キング・ジョージ五世』と足並みを合わせるはずが、第11戦隊は戦艦『ビスマルク』の艦首軸線上に乗るような軌道を取っている。
本国艦隊司令長官であるジョン・トーヴィー大将と無為な衝突を繰り返し、自分の我を通したのだ。
装甲に問題のある戦艦『エジンコート』が恐るべき『ビスマルク』の前で、その長大な横っ腹を曝け出すことをトーヴィー大将は危惧したが、復讐に燃えるヒュームには些末な問題だったのだ。
この戦いが無事に終わったとして、いったい誰の首が飛ぶのかは明らかだとヴィクスは苦虫を噛み潰したような思いをしたものだ。
そんな苦い思い出を泥水のような冷めた珈琲で流し込み、ヴィクスはすべきことをするべきだと覚悟を決めた。
こうしている間にも、戦艦『エジンコート』の七基十四門の全砲門に砲弾が装填され、装薬が押し込まれ尾栓が閉鎖され、砲塔が目標目掛けて旋回する。
単縦陣を組む軽巡洋艦『エンフォーサー』と防空巡洋艦『クーロン』もまた、気が気ではない思いをしながら戦闘に備えている。
海上を航行する巨大な要塞が身震いをするかのように動作し、それが完璧に目標を捉えたのだ。
同じように戦艦『ロドネイ』と『キング・ジョージ五世』、重巡洋艦『ノーフォーク』『ドーセットシャー』が、波を乗り越え砲門を巡らす。
この世の初めに神の命を受け碧海の中より産まれ出でたブリタニアに、「これこそ証、国の証ぞ」と守護天使らは斯く歌えり。
統べよ、ブリタニア! 大海原を統治せよ。
ブリトンの民は断じて、断じて、断じて、奴隷とはならじ、と。
我らブリトンの王立海軍、故にここで帝国海軍の鉄血宰相に、碧海の鉄槌下すのだ。
『こちら砲術長、目標までの距離20,500ヤード(18,700m)。装填よし。砲撃用意よし』
「よろしい。戦艦『ロドネイ』及び『キング・ジョージ五世』の発砲を待って斉射せよ」
『了解』
マーガレット・ボラン少佐の応答を聞き、ヴィクスは艦内で部署に付く乗員たちのことを頭に思い浮かべた。
厚いバーベットの中の揚弾器で働く者たちや、砲塔で主砲発射に備える者たち、そして測距儀の側でしゃがみ込んでいる砲員たち。
応急処置班にはあらゆる部署から人員が結集され、魚雷や砲弾による損傷を一秒でも早く応急処置するためにあらゆる準備を行っている。
開戦からこの老女と共に戦い続けてきた水兵、士官たち。
この老いぼれはたしかに真新しい戦艦と比べて非力だが、だがたしかに我々と共に海原で戦ってきた。
赤錆と誇りにまみれた過去から生まれ変わり、ユトランドを経てこの老女はここにいるのだ。
もはや、誰にも迷いなどなかった。
―――
無愛想な塔型艦橋の上には、装甲に囲まれた方位盤射撃指揮所がある。
砲術長であるマーガレット・ボラン少佐は、元より迷いや不安など抱かずにいた数少ない士官の一人だった。
広いとは言えない方位盤射撃指揮所では人員が忙しなく動き回っているが、それでも誰かと誰かが激突するようなヘマはなくなっている。
戦艦『エジンコート』がマリア・ヴィクスの王国であるならば、方位盤射撃指揮所はボランの領地だ。
長らく素人集団であったこの連中も、ようやくまともになったのだとボランは珍しく口元に笑みを浮かべ、領民らを眺めた。
電話手、砲員、弾着観測士、測的士、方位盤照準手、旋回手、旋回手補佐、どいつもこいつも今では愛しいとさえ思えた。
彼女は戦艦『ビスマルク』についてよく知っていた。
英独海軍協定でドイツに許可した上限は条約排水量とも言える三万五千トンだが、あの化け物がその程度で収まっているわけがない。
歴史的にドイツ戦艦は極めてタフだ。それでいて奴らが理想とする海軍戦略を成し遂げるためには、高速でなくてはならない。
どう考えても四万トンは下らんだろうと、ボラン少佐は常々思っていた。
英国海軍の比率で三十五%までの保有を許可する? 潜水艦は英国比六〇%? 商船攻撃には使用しないこと、だと?
奴らが守れたのは精々のところ、自らの自惚れによって満足な海軍も整備出来ぬまま開戦に至ったせいで、三十五%以下の軍艦しかない程度ではないか。
忌々しい宥和主義者どもめ、とマーガレット・ボランは舌打ちする。奴らのせいでストレーザ戦線は使い物にならなくなったのだ。
せめてオーストリア=ハンガリー二重帝国の末路のように、そしてナポレオンのように、我らでドイツを分割してしまえばよかったのだ。
神聖でもローマでも帝国ですらない有象無象の集まりの時代に、奴らを追い詰めれば、二度と勝ち目のない戦争など思いつかずに死ねただろうに。
「やるぞ、お前たち。『フッド』の仇討だ」
まるで吐き捨てるかのように、ボラン少佐は言った。
あの肥え太ったドイツの鉄屑一隻では、あの『フッド』に対する手向けとしてはあまりにも価値がないが、今ここで手向けられるのはあの船以外にない。
十五インチ連装砲四基八門、強固な装甲防御と巡洋戦艦なみの高速を誇る、あの船だ。
そんな船の前に戦艦『エジンコート』は横っ腹を曝そうとしている。
エドモント・K・ヒューム准将とマリア・ヴィクス大佐の重い空気に関しては、士官の中で知らない者はいないだろう。
あの古い時代の予備役准将が、理性を失っていなければいいのだがと誰もが思っている。
「……トーヴィーもお冠だろうさ」
本国艦隊司令長官の名前を口の中で弄び、マーガレット・ボランは照準器を覗き込む。
そこには、霧の中より現れた黒鉄の猛獣が映っていた。
―――
本国艦隊の戦艦『キング・ジョージ五世』及び『ロドネー』を中核とする戦隊と、戦艦『エジンコート』率いる第11戦隊は完全に戦艦『ビスマルク』を捉えていた。
数は少ないものの英国海軍はすでに艦載レーダーを搭載し、これを利用する術を対Uボート用に日夜研究しており、臣民海軍においても軽巡洋艦『エンフォーサー』に271型レーダーが搭載されている。
戦艦『ビスマルク』の正面左側より、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将座乗艦である戦艦『キング・ジョージ五世』と戦艦『ロドネイ』がやや斜陣形気味にやってきた。
そしてより先行する形となって、戦艦『ビスマルク』の前に現れた艦があった。
全長210.7メートルの細長い船体にありったけの砲塔を載せた奇妙な艦形は、不思議と血祭りにあげた巡洋戦艦『フッド』の優美な船体を思い起こさせる。
英国の近代化された戦艦にありがちな塔型艦橋に、変に傾斜した煙突から小さなマストが伸びていて、不細工なデリックがあり、単脚マストを有する後部艦橋がある。
奇妙なシルエットをしたその艦は、連装七基十四門の十三.五インチ砲の砲門を向け、黒煙を棚引かせながら戦艦『ビスマルク』の舳先に陣取っている。
それこそが赤錆と埃に塗れた鬼子、そしてこの場において唯一ユトランド沖海戦の記憶を持つ歴戦の老女であり、海原に浮かぶ弾薬庫である『臣民のエジンコート』だった。
5月27日、8時47分、戦艦『ロドネイ』が発砲し、それに続いて戦艦『キング・ジョージ五世』が主砲を放った。
8時49分、戦艦『エジンコート』もそれに続く。
8時50分、戦艦『ビスマルク』のA砲塔の応射が戦艦『エジンコート』を捉えた。
―――
最初に感じたのは足元から突き上げるような衝撃だった。
マリア・ヴィクスがその衝撃に身体を屈めて姿勢を低くした瞬間、今度は左舷側で猛烈な閃光と衝撃が発し世界が崩壊した。
次に彼女が認識できたのは、血の匂いと硝煙の匂いが交じり合った空間と、自分がどうやら艦長席から投げ出されたということだけだった。
鼓膜が破れたのか、衝撃で聴覚がおかしくなったのか、立ち上がってなお彼女にはなにも聞こえなかった。
しかし右目だけはしっかりと動いていることが分かったので、彼女はまっさきに艦橋を見渡し、そらに倒れている士官の肩を掴んで立ち上がらせた。
節々の痛みをいつものように無視して、彼女が左舷側を確認すると、そこに立っていた士官候補生たちが破片まみれになって血反吐を吐いているのが見えた。
破砕された艦橋の窓ごしに左舷側の張り出しを確認するが、拉げて黒ずんだ鉄屑が付着しているだけだった。
見張り員は蒸発したのかと酷く冷えた感想が彼女の中に訪れたが、ヴィクスはよたよたと艦長席に戻る。
席に食い込んでいた焼けた鉄片やガラス片を右手で薙ぎ払い、いつもの席に座り込んだ彼女の右耳に、ようやく音が戻ってくる。
「―――艦長!」
いったい、誰の声だろうか。
「損害報告を頼む」
「艦橋の伝声管の一部が破損しています。伝令を出しましょう!」
「許可する。―――ヒューム准将は、どうだ。ローレンス?」
ようやく、ヴィクスはその声がシルヴィア・ローレンスのものだと認識することができた。
身体がいつもより重いとヴィクスは感じ、左側のあちこちが酷く痛むことにようやく気が付いた。
いやだな、と彼女はぼんやりと思う。
今ここで左腕を失くしたら、私は夫も子供も抱きしめられないじゃないか。
「回線不通です、艦長」
「後部艦橋に臨時指揮を……。君が行け、ローレンス少佐」
「了解」
シルヴィア・ローレンスの反応は素早かった。
彼女は乱れた髪も破れたコートにも構わずに艦橋を走り去っていった。
その瞬間にまた戦艦『エジンコート』の十三.五インチ砲が咆哮し、戻りかけた五感が再びおかしくなりそうになった。
マーガレット・ボラン少佐は、どうやら戦争を続けているらしいとそれで分かった。
まだ戦艦『エジンコート』は戦っている。
私やここで横たわっている死人や、怪我人たちの血を啜って、なおも。
「………」
ゆったりと艦長席から立ちあがり、マリア・ヴィクスは横たわっている士官候補生の肩を叩く。
死人であれば彼女はその開きっぱなしになっている瞳を静かに閉じてやり、生者で動けるようであれば医務室に行けと命令した。
動けないようであれば、マリア・ヴィクスは止血するようにと言い、そうやって艦橋の生き残りを統制した。
彼女は駆け付けたアガサ大尉の部下に止められるまで、艦橋の士気と統制を保った。
マリア・ヴィクスは負傷しており、左腕の複数のガラス片が食い込み出血し、右手にも裂傷を負っていた。
頭部にも外傷があり、そこから噴き出した血が固まって左瞼と左耳を塞いでいたのだ。
彼女は応急処置を受け、この戦いで再び指揮を執ることはなかった。
だがマリア・ヴィクスはいつもそう覚悟していたように、部下たちを優先させた。
彼女は、自分の負傷具合を何度も訴えられても搬送を拒み、最後に艦橋を降りた。
―――
それは戦艦『ビスマルク』の最初で最後の航海の、もっとも厳かで激しい一幕となった。
戦艦三隻からの砲撃を受けて彼女の武装は破壊され、艦橋に被弾した一撃で艦隊司令長官のギュンター・リュッチェンス中将は戦死し、次々に砲弾が命中し炸裂した。
徐々に接近する戦艦三隻の砲撃に巡洋艦も加わると、それは戦闘というよりは一方的な殺戮、あるいは屠殺の様相を呈し始めた。
恐るべき性能を誇る十五インチ砲、その四基ある砲塔はすべて破壊され、彼女には抵抗する術はない。
あちこちで炎が吹きあがり黒煙が立ち昇って曇天の空に消えていく中、それでも戦艦『ビスマルク』は浮いていた。
わずか距離三〇〇〇メートルにまで接近した戦艦『ロドネイ』が砲撃しても、彼女は廃墟のようになりながらもしぶとく浮かび続けた。
あらゆる砲火に曝され、戦艦『ビスマルク』は焼け爛れ、完膚なきまでに破壊された。
燃料と砲弾残量が心もとなくなった戦艦『ロドネイ』と『キング・ジョージ五世』が離脱をはじめた。
午前10時15分頃には戦艦『ビスマルク』の甲板から、彼女の乗員たちがようやく脱出を始めたようだった。
大きく左に傾斜し黒煙と炎を舞い上げながら、なおも微かに前へと進む彼女に置いていかれたように、海面には彼らが点々と散らばっていた。
そしてもはや存在することしかできなくなったこの悲しき巨艦に、重巡洋艦『ドーセットシャー』が魚雷を撃ち込み、それが彼女にとっての慈悲の一撃となった。
戦艦『ビスマルク』の艦尾が切断され、左舷に急速に傾いて、艦首を持ち上げた。
1941年5月27日午前10時40分、ドイツ帝国海軍の戦艦『ビスマルク』は、数百発の砲弾の雨を耐え忍んだ末に海底へ向かって沈んでいった。
5月27日に間に合わなかったので作者は「oh cock...」と呟きながら煙草に火をつけました。
デンマーク海峡沖海戦、ならびにビスマルク追撃戦での死傷者たちに敬意を払い、ここにこのエピソードを書き上げました。
彼ら、そして彼女らに安らかな眠りのあらんことを。