西暦1941年5月末 スカパ・フロー『ジン・パレス』
戦艦『エジンコート』の数あるあだ名の中でも、それが揶揄なのか称賛なのか判断に困る名がある。
ジン・パレスというのがその名であるが、―――ジンの宮廷という名前由来のものだ―――その名称の由来は士官食堂にある。
最初の発注者であるブラジル人たちは、忌々しい水密隔壁のせいで居住性が害されるということに耐えられなかった。
そこで彼らは海軍国家たるイギリスの設計者に、乗員の快適さを害するような水密隔壁を排除してほしい、と言ったのだ。
第二次世界大戦が勃発してしまう以前から、戦艦『エジンコート』に乗り込み、このことを知った連中は同じことを口走ったに違いない。
苦々しい表情で、大西洋を遥かに超えた先の南米の大国に向かって、ただの一言「なんてことを」と呟くのだ。
しかし、実際に士官食堂に入って席に座り、ピンク・ジンやネックホースを片手に過ごせば、次には「ううむ」と唸るはめになる。
戦艦『エジンコート』の士官食堂は、あの大艦隊の中でも、もっとも広かったのだ。それは今でも変わることはない。
25.9m×18.3mという広さは、他の士官食堂とは比べるまでもない。広々とした士官食堂を見れば、ブラジル人たちの気持ちも少しは分かるというものだ。
「クレタ島もかなり苦戦しているようです。ドイツ軍はやはり手ごわい」
手に新聞を持ち、煙草を咥えながらそう言うのはニーナ・マクミラン中佐だった。
ギリシャの諸島領土においてもっとも巨大なクレタ島は、ギリシャ最後抵抗の地となると考えることもあった。
だがその予想は、精強なドイツ空軍が空に現れたことで夢物語に変わってしまったのだ。
従卒にジン・フィズを持ってくるようにと告げながら、ニーナ・マクミランは広々とした士官食堂を見渡す。
これだけ広いのだから話をするにも苦労する。だから人間というのは机にそれぞれ島のように集まるが、マクミランの座る机には一人だけしかいない。
それもそうか、とマクミランはそのただ一人の隣席者に視線を投げる。不機嫌そうなボラン少佐だった。
「戦艦『ウォースパイト』も『ヴァリアント』も被害を受け、軽巡洋艦『グロスター』『フィジー』は沈没……駆逐艦に至ってはさらに数が多い」
マクミランが新聞を差し出せば、小さく礼をしてそれを受け取り、やはり不機嫌そうにそれを読み始める。
腰からクレイモアをぶら下げているハイランダーの砲術長が、常になにをしても不機嫌そうにしているのだから、マクミランの隣席者になる者はいない。
士官食堂ではたとえどんなに先任だっても、後任であっても、基本的には誰にでも好きな場所に座る権利がある。
皆、その権利を行使しているというわけだ。
ここにシルヴィア・ローレンスでもいればいいのだが、とマクミランは心の中でぼやき、従卒が持ってきたジン・フィズを受け取った。
一方でボラン少佐はぶっきらぼうにグロックを従卒に頼み、眉間に皺を寄せながら新聞を読み始める。
マクミランはジン・フィズを口に軽く入れ、その舌触りと味を楽しみながら溜息混じりに呟いた。
「イタリア空軍を侮るわけではないですが、ドイツ空軍の強さは異常だ。より強力な艦砲よりも、対空兵装の増強が求められる時代ですか」
「戦艦が航空機を前にして、逃げ惑う時代か。主義者ではないが、苦笑の一つも浮かべたくなるものだな」
「戦艦と航空機……、賭けていたわけじゃありませんがね。求められればオーダーに応じますよ、砲術長」
「グロックをもう一杯くれるだろうか。丘にあがっても、どこもかしこも配給制で、まともに飲めやしなかったのだ」
「ええ、どうぞ。英国に奉仕する海軍施設であれば、酒は最優先で補充されますから」
「ありがたい」
早速、初めに従卒に頼んだグロックが到着すると、ボラン少佐は新聞を折りたたんでグラスを軽く掲げた。
「伝統に幸あれ」
素っ気ない言葉ではあったが、そこにあるのは英国が英国たる海軍の伝統だった。
あのネルソン提督でさえ死してなおも酒に漬けられていたし、水兵に配給されるグロックの量はしっかりと現在においてさえ規定されている。
酒と海と船とは切っても切れない縁があり、英国の海軍はその縁を伝統として受け継いできたのである。
「伝統に幸あれ」
ジン・フィズとグロックで乾杯して、彼女らは暗雲の立ち込める時代の中にあって、アルコールで体を温めた。
戦艦『エジンコート』は機関を修理し、武装の一部を改訂し、また戦艦『エジンコート』用のレーダーも製造されていると聞く。
それらが完成してこの艦に取り付けられれば、きっと今よりもこの老いぼれは働いてくれるに違いないと、誰もがそう確信していた。
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