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臣民のエジンコート【完結】  作者: 狛犬えるす
第七章:1941 Chase of Bismarck AGI.UNI.
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西暦1941年5月末 スカパ・フロー『母なるマリア』

 戦艦『エジンコート』が整備に入ると同時に、本格的な武装の近代化改修が行われた。

 不評だったポンポン砲はそのほとんどがボフォースの40ミリ機関砲に取り替えられ、一部はエリコンの20ミリ機関砲へと更新された。

 これらはそのほとんどが臣民海軍が細々と整備していた沿岸警備用の砲艇や掃海艇に乗せられたものを、剥ぎ取ってきたものだった。


 裸になったそれらの砲艇や掃海艇には、戦艦『エジンコート』や他の艦艇からポンポン砲や50口径のヴィッカース機関銃が移植された。

 工員の不足を補うために行われた臣民海軍婦人工員の動員と、英国全土の造船所が束になって戦時造船計画に組み込まれ、駆逐艦を、補助艦艇たちを起工させていく。

 主力艦の数が足りないのは承知のことだが、海軍にとっての駆逐艦は、それら補助艦艇こそは、海軍が海軍であることを証明する艦たちなのである。


 そのため、戦艦『エジンコート』が港に戻ってきた時、彼女と彼女らを出迎えたのは玉石混合の労働者たちの姿だった。

 話を聞けば、疎開してきた婦人たちの中から志願者を募り、身辺調査を終えた者から次々と工廠に配置されているという。

 スカートを脱ぎズボン姿で工廠に入り、男たちでも苦労する仕事を自らやろうとする者たちもいるのだと、水兵だけでなく将校たちも感銘を受けた。


 だがその一方で、機関長のエディス・プリチャード中佐などはあの特徴的な声で「堪らんね」と言うのだ。

 一週間前まで赤子を抱いて乳をやっていた両手で、真っ赤に焼けたリベットや、火花飛び散る溶接をやるのだ。

 ただでさえジョン・ブラウン社のやっつけ仕事の後始末をやらされているプリチャード中佐としては、悪態の一つもつきたくなるというものだ。


 

「それで、どうだったんですか?」


「ああ、うん。引き取った。それと……いろいろ誤解があったことを謝罪された」


「誤解?」



 戦艦『エジンコート』が労働者たちを侍らせ休暇に入っている間、マリア・ヴィクスもまた一時の休暇を得ていた。

 その休暇も終末に入り、彼女は今、夜のパブのテーブル席で軍医長であるアガサ・ナオミ大尉と肩を並べていた。

 戦争によってパブもまた配給制度の奴隷となり、かつてのように浴びるように酒を飲むことは難しくなっている。


 しかし、そうであっても英国の伝統たるグロックの配給は止まらないのだから、伝統万歳とも言いたくもなるものだ。

 伝統万歳というならば、パブリックハウスから酒をしょっ引く戦争とやらには、正々堂々とロクデナシと罵ってやりたくもなる。

 そんな憂鬱な夜の最中にあって、マリア・ヴィクスは艦橋では絶対に見せぬ柔らかな表情を浮かべて、華奢な肩から力を抜く。



「家のベッドに他の女の髪の毛があったんだ。浮気だと思って、私も納得していたが、どうやら見当違いだったようなのだ」


「それはマリア、あなたが丸め込まれているわけではなく?」


「いや、違うよアガサ。夫の勤め先の出版社の女性職員が、少しばかり泊っていったそうなんだ。夫はその頃、ロンドンで仕事に掛かりきりだった。夫婦揃って家を留守にすることが多いから、度々そうしていたそうなんだ」


「……妻に黙って家を貸し出すだなんて、なんといえばいいか、いい言葉が見つからないですね」


「せめて貸し出しているなら掃除はきっちり、自分でやるか、キーパーでも雇ってやらせるかしてくれないか、と私は言ったよ」


「ベッドにほかの女の髪の毛が落ちてるようじゃ、自分でやらせるのはやめたほうがいいと思いますよ」


「ああ、私もそう思うよ」



 そう思っているなら、もう少し厳しい表情をすべきじゃないだろうかとナオミはあまりにも自然な惚気に煙草を燻らせる。

 マリア・ヴィクスは誰もがそう思うように、苦労人だ。苦労と辛苦が女性の体を借りて海軍の軍服を纏い、歩いているといっても過言ではない。

 彼女は昔、シアリーズ級巡洋艦の航海長として勤務中に赤痢に罹患して、生死の境を彷徨った。


 軍病院に入院し、長期のリハビリの後に陸上勤務の誘いを拒否し、古臭い重巡洋艦『ホーキンス』の艦長を務め、戦艦『エジンコート』の長となったのだ。

 赤痢に罹患する前の彼女を知っている人間は少なくはないが、その人の変わりようは相当なもので、だからこそ彼女を無下に扱うことはない。

 かつて強情で噛み付きたがりの気難しい女だったマリア・ヴィクスは、こてんぱんに打ちのめされ、それでも海軍を辞めなかった。船から降りなかった。


 年下のコラムニストである彼女の夫が、それを支えたのは間違いないとアガサは知っている。

 未だに二人の間に血のつながった子供はいないが、二人が二人で過ごす時間が少なかろうと、それを受け入れて恋愛結婚したのは間違いない。

 結婚は人生の墓場だと嘆く者もいるが、その言を借りるならば、マリア・ヴィクスは自分で自分の墓場を見つけ、そして選んだ女なのだ。



「……もう、私には子供は無理かもしれないと思っていた」



 マリアという名によく似合う微笑みを浮かべながら彼女が言えば、ナオミはその肩に手を置いて元気づけるように言った。

 手から感じる彼女の肩は華奢で、この身体のいったいどこにあれほどの活力があるのだろうかとアガサは思う。

 女の身体は神秘に満ちている。特に母親の身体は、我が子のためならば勇者の如き活力を発揮するものだ。



「義理の子でもマリア、あなたならしっかりと育てられる。それは間違いない」


「アガサ、私には子育ての経験がないのに、どうしてそんなことがわかるんだ?」


「おかしなことを言いますね。ジブラルタルで私は言ったじゃあないですか」



 煙草の灰を灰皿に落とし、悪戯っぽく笑みを浮かべ、アガサ・ナオミは我が身の神秘を知らぬ者に言ってやったのだ。



「マダム・マリア、あなたはもうすでに戦艦『エジンコート』の全乗員の、母のようなものじゃないか」



 その言葉を受けて、戦艦『エジンコート』の母は、照れくさそうに笑ったのだった。

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