西暦1941年2月 ジブラルタル『心臓修理』
一先ず、ささやかな休暇があった。
ジブラルタルへ帰港した戦艦『エジンコート』は、予定よりも早く機関部の点検及び検査を行うことになり、上陸休暇が与えられたのである。
というのも、機関長であるエディス・プリチャード中佐がジョン・ブラウン社製のいくつかの部品が、基準未満の強度で製造されているか、機関部の設計に起因する過負荷がかかっている可能性があると指摘したためでもある。ただそれだけのことであれば良かったのだが、現状戦艦『エジンコート』の機関はビス止めされた老婆の心臓のような有様で、とても軍事用に向いているとは言いがたい状態であった。
送りつけられてきたジョン・ブラウン社の社員が、機関の運行状況を見たい、と言った。
マリア・ヴィクスはしかたなく戦艦『エジンコート』を試験航海として出港させ、実際にどのようになっているかを見せた。
そしてエディス・プリチャード中佐とその社員が、機関科要員の言曰く、
「口先で相手を殺そうとしているような具合」
の口論になった。
海兵隊が二人を引き離し、事情を聴取すると、プリチャード中佐の機関の扱いが気に食わなかった社員が発端だということが判明した。
プリチャード中佐はこの機関の扱いを誰よりもよく理解し、小さな異音にさえ鋭敏に察知することができるが、社員はそれを「勘によって精密機械を動かしている」と罵った。
彼が持ってきたのはもはや役にもたっていない分厚いマニュアルと危機管理対応表であり、プリチャード中佐はそのことを丁寧に説明した。
「その紙屑はチップスを包む紙にすらなりゃしないでさあな」
本人は冗談のつもりだったらしいが、社員にとっては冗談に聞こえなかったらしい。
結局、プリチャード中佐がなんとか宥めようとしたが、罵詈雑言を垂れ流す社員についに忍耐が限界に達し、掴み合いの口論となったのだという。
しかたのないことだったと、多くの士官達がプリチャード中佐側に同情した。
機関の不具合に関してのことは、士官食堂でもよく話され、周知されていたからである。
何よりもプリチャード中佐の苦痛と苦難を理解していた機関科たちが、よくその社員を私刑にしなかったものだとヴィクスはが驚いたほどだった。
どうしますか、とマクミランに問われたヴィクスは、
「会議にすることでもない。誠実な対応と精確な人選を会社に期待する」
とだけ言った。
元より、プリチャード中佐の性格を誰よりも知っていたのだから、彼女が本気で激昂したわけではないことに気付いていたのだ。
憤慨した一介の会社員はジブラルタルからも追い出され、代わりにプリチャード中佐と同じ蒸気火傷を負った者がやって来た。
代わりとなった彼はよく働き、話を聞き、丁寧に応対した。その物腰は会社員であると同時に、しっかりと機関員であることを周囲に示した。
迷信深い船乗りは、部外者を忌み嫌う傾向にある。その仲間になりたければ、自分もその職務の一員であることを示すのが、一番簡単な道なのだ。
プリチャード中佐が聴取を終えて機関室に戻ってくると、事態はさらに容易に進んでいった。
同じ痛みを知る二人はあっという間に打ち解けて、この「くる病」をなんとかしよう、ということで意見が一致した。
控えめに見ても、戦艦の―――いや、あらゆる艦船の機関の問題というのは、すぐになんとかできるわけではない。
機関は取り替えるにしても、一度その艦船の背中を開けてしまって内臓を取り出すように、総入れ替えしてしまうのだ。
それを、なんとかするのである。何日かかるか、何週間かかるか、分かったものではない。年単位の時間と試行錯誤が必要だった。
取り敢えずの処置として、機関科だけでなく他部署の水兵たちも動員してパイプの補修に勤め、ダメなものはすべて取り替えた。
初日の点検で、交換するパイプの桁が四桁を超え、頭の数字が何度か変わった具合に及ぶと報告があると、工員の数が増やされた。
交換用資材のリストアップがあり、それをジブラルタルの司令部に届けに行った士官が、資材の横領未遂を疑われ待ちぼうけを食らわされた。
ジブラルタルから派遣してもらった工員の三人が業務中に倒れ、軍病院に担ぎ込まれ、それとは別に二人が軽い怪我を負った。
汗まみれの機関科員に襲い掛かった一人の軍属の男が、肋骨二本と鼻の軟骨と顎を骨折し、憲兵に取り囲まれながら軍病院送りになった。
プリチャード中佐を筆頭とした機関科たちと、出向社員はその作業を終えると、送られてきた資材を使って機関の手術を始めた。
戦艦『エジンコート』はジブラルタルのドッグに一先ず入渠することになり、機関修理などといった諸々を消化することになった。
地中海での訓練は、それまで北海と大西洋で慣れた水兵たちにはやはり新鮮であったが、老女の心臓病の酷さは変わらなかった。
必要とされていた戦艦を不具合でドッグ入りさせることは、海軍本部にとっては悩みの種となっていた。