西暦1940年7月3日午前 メルセルケビール『三十斉射』
磁気機雷に触れるのも覚悟で進む敵戦艦『ストラスブール』が水道の外へと出て行くのに対して、他の三隻は見るも無残な有様になっていた。
戦艦『エジンコート』の主目標はH部隊にもっとも近い位置に停泊していた戦艦『ダンケルク』であり、主砲十四門の全門をあげてこの新鋭戦艦を砲撃していた。僚艦『レゾリューション』『ヴァリアント』の砲撃もありはしたが、確実なるのは直撃弾二、至近弾三である。敵の損害の如何に関しては分からず仕舞いである。
空母『アークロイヤル』のソードフィッシュ攻撃機が戦艦『ダンケルク』に接舷していた火薬運搬船を攻撃し、それが爆沈したため、いったい敵艦が砲弾で航行不能になったのか、それとも火薬運搬船の爆発で航行不能になったのか、判断ができなかったのだ。
ともあれ、敵戦艦『ダンケルク』は行き足が止まり座礁したようだった。
おまけに戦艦『ダンケルク』に航路を塞がれる格好になった戦艦『プロヴァンス』は身動きがとれずにおり、戦艦『エジンコート』は次にそちらへと砲撃を続けることになった。
轟音と黒煙があがり華奢な淑女たる戦艦『エジンコート』が身を震わせ、片舷を発砲炎で覆い隠す。塗り替えられたばかりの塗料に煤がこびりつき、歴戦の味を磨いていく中、その艦内にいる者たちの多くはひたすら無心であることに務めていた。
艦橋のマリア・ヴィクス大佐は、自分らがいったいなにをしているのかと自問自答しながらこの公開処刑の経過をじっと見つめている。
戦艦『プロヴァンス』は命中弾を受けて艦尾が大火災に見舞われていた。そのうち、ゆっくりと厳かに針路を変えたフランスの老女は浅瀬に座礁して新鋭戦艦『ダンケルク』と同じように動きを止めた。
ほっとしたのも束の間で、今度は戦艦『エジンコート』の構造物を引き裂くような音と轟音がヴィクスの耳に届く。副官のナイトウォーカーにすばやく「損害報告」と叫べば、彼女はすぐに艦内からの報告を聞き、数発の砲弾が直撃した旨、そして死傷者が少なからず発生したこと、火災や浸水はないということをヴィクスに伝えた。
「どこからの砲撃だ? 沿岸砲台の射程に入ってしまったのか?」
「どうやら戦艦『ダンケルク』のようです。A砲塔が健在らしく」
艦橋の張り出しの監視員から報告を受け、ヴィクスはナイトウォーカーに言った。
「砲術長に再び戦艦『ダンケルク』に砲撃するように命じろ」
ナイトウォーカーがそれに頷いて砲術長と連絡をとるのを尻目に、ヴィクスはメルセルケビール要塞などは気が気ではないだろうと思った。自分たちは蚊帳の外で自軍の艦隊が袋叩きにされているのをただ黙って見ていることしかできないのである。できるのは燃え上がる艦艇に消火支援をしてやることくらいしかないのではないだろうか。
瞬間、再び轟音が響き渡った。砲撃のものではない。ヴィクスが艦橋の外を見れば、大きな黒煙がメルセルケビール軍港からあがっているのが確認できた。それは戦艦『ダンケルク』のものよりも、そして戦艦『プロヴァンス』のものよりも巨大なものである。
「戦艦『ブルターニュ』、大破!」
おお、と艦橋からどよめきの声があがった。同時に、もう戻ってはこれないのだという実感がヴィクスの中に湧き上がり、無視するには大きすぎる痛みが頭蓋に突き刺さる。悟られないように艦長席に座り込み、彼女は黙って海戦の動向を見送ることにした。
旗艦『フッド』を中心としたH部隊は主砲を順次斉射し、次々にフランス海軍へ打撃を与えていく。十五インチ砲の発砲は衝撃波が大気をたわませ、海面を白ませ、轟音が全身を震わせる。そんな中にあって戦艦『エジンコート』も負けじと十四門の主砲から火を噴かせ、猛射した。
船体と構造物がビリビリと震え上がり、体の奥底までもが振動によって掻き回されるような感覚が彼女たちを襲ったが、それも慣れてしまっていた。人間の体と言うのはつくづく便利に作られているものだとヴィクスは思い、そして遠方の戦艦のシルエットが揺らぐのを目撃した。
「戦艦『ブルターニュ』が、……転覆しました」
どよめきの声はあがらなかった。むしろ、ヴィクスの中ではやってしまったのだという鉛のように重い事実と実感があるだけであり、ヴィクス以外の者のなかにもそうした感情があったに違いない。このタールのように黒々とした、忌々しくも恐ろしい実感は、彼女たちの経験、人生の中に深く根付くことになる。
「敵艦『コマンダンテスト』は―――」
震えそうになる声を押し殺しながら言葉を発したヴィクスだったが、それも戦艦『エジンコート』の主砲斉射の轟音によって掻き消される。火球とともに砲弾を吐き出してすべての生物を威嚇し吠え立てる鋼鉄の城が、自分の軟弱さを叱咤したように思え、ヴィクスは一瞬怯んだが、それでも彼女は言葉を続けた。
「敵艦『コマンダンテスト』はどうなっている?」
「敵艦『コマンダンテスト』は煙で見えませんが……、おそらくは健在だと思われます。主目標は敵戦艦群でありますので」
「そうか」
ならば水兵らの救助は彼女が行うだろうとヴィクスは考え、それでも多くの人間はあの戦艦とともに没したと分かっている自分に嫌悪を覚える。いったい、どこまで善人を気取るつもりなのだろうかと自分自身に問い詰めたくなるが、しかし、ヴィクスは同時にこうも思っているのだ。その一線を踏み越えたら、もう二度とは戻って来れないであろうと。
自分や戦艦『エジンコート』、そしてその乗員たちはなるほど、たしかにクリケットなどをしているわけではない。これは戦争であって、勝たねばならない戦いである。暴力であって野蛮であり、敵を人間として認識することを止めれば良心の呵責などという些細な問題からも解放されるであろう。
しかし、ヴィクスは死の床で最後の一息を吐き出すその瞬間まで、人間でありたいと思うのだ。苦しみ、悩み、葛藤して、すべてを投げ出し、正しいから正しいというトートロジーを受け入れたくなる衝動に襲われながらも、それでも、その自分を保っていたいのだ。
「戦艦『ダンケルク』はまだ沈黙しないのか?」
「未だに副砲、A砲塔が健在。しかし、夾叉もしています。時間さえあれば―――」
「我々に時間はない」
ヴィクスが興奮した様子の艦橋要員にぴしゃりと言い返せば、十四門の十三.五インチ砲が炎を吹き上げ、もはや動くこともままならない戦艦『ダンケルク』に砲弾を送り出した。しかし、砲弾は至近弾を一つ、辛うじて命中したといえる微妙な直撃弾一つという成果をあげたに過ぎなかった。
当初の作戦指示通り、ヴィクスは三十斉射以上の攻撃をフランス海軍に加えることなく、H部隊の戦列に戦艦『エジンコート』を留め、必要最低限の責務を果たしてジブラルタルへの帰途へついた。