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臣民のエジンコート【完結】  作者: 狛犬えるす
第五章:1940 Catapult M.V. L.23:34
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西暦1940年7月3日午前 メルセルケビール『戦艦ブルターニュ』

 戦艦『ブルターニュ』の艦橋はパニック状態の人間のように、あらゆるものが過剰に見えていた。

 実際、それらの大半は過剰に見えてしかるべきものであり、人間の命の灯火など一瞬で吹き飛ばしてしまうような悪夢そのものであったが、それらすべてを処理するには人間の持っている感覚では限界がある。


 長引く戦闘ならば次第にあらゆるものが呆れるほど普遍的でどうしようもない日常的なものだと思えるようになってくるのは前大戦の塹壕戦とその生活が如実に示していたが、この時の戦艦『ブルターニュ』と彼女に乗り込んだ彼らにそれだけの時間は与えられていなかった。

 周囲の状況は控えめに表現して、地獄のようだった。比喩ではなく、文字通りの地獄である。地獄という言葉以上にぴったりな言葉があるとすれば、この世の終わりだろうか。


 自動車並の重量のある三八センチの砲弾が秒速八百キロほどの速度で海面や港湾設備に直撃し海水や鉄片が吹き上がり、火の手があがるのはまだ良い方だった。それはあくまで英国艦隊が狙いを外したハズレ弾であって、気に止めるほどの脅威ではないと思うことが出来たのだ。



 だが、船体にそれが突き刺さったとき、いったいどのような表現を用いればよいのだろうか?



 少なくとも艦長のル・パパーン大佐には思いつかなかった。

 自分たちがあらん限りの信頼をもって共に海原を駆けてきた戦艦が、その装甲が食い破られる音など、月並みな表現を借りるのならば、心が砕かれるような音だとしか言いようがないであろう。戦艦『ブルターニュ』の砲塔直下、舷側水線中央部の張られた装甲は二七〇ミリもの厚さを誇り、艦首・艦尾部でさえ装甲厚は一八〇ミリである。旧い戦艦の旧い設計だが、それでも戦艦の装甲であることにかわりはないはずなのだ。


 現在、英国艦隊の戦艦部隊が投錨中の我がフランス艦隊に向け、あらん限りの火砲をもって北北西一万四千メートルから砲撃を掛けている。重量八八〇キロの砲弾が一門辺り毎分二発、一五インチ砲搭載戦艦三隻が連装四基であるから、毎分の砲弾投射重量は四万二千キロ、つまりは四十二トンを越える。これに十三.五インチ砲連装七基の戦艦『エジンコート』が加わっているのだ。正直に言って、もはやまともな戦いにすらならない。

 旗艦『ダンケルク』のジャンスール中将からの指令は、



「戦艦『ストラスブール』を先頭に、旗艦『ダンケルク』『プロヴァンス』『ブルターニュ』の順で出港せよ。大型駆逐艦の出港の順序は自由である。各自、外海で戦え」



 であったが、ル・パパーンにはそれができないであろうことが分かっていた。

 初めの砲火があがってから僚艦『プロヴァンス』が二分もしないうちに反撃を開始したのでさえ、焼け石に水である。旗艦『ダンケルク』と戦艦『ストラスブール』は艦首を前に向けたままであり、第二戦艦戦隊の『プロヴァンス』と『ブルターニュ』は年若な彼女らの離脱まで、老いぼれた身体一つで砲弾の雨の中を耐えなければならない。



「ええい、なんたることだ!」



 懸念の一つであった戦艦『ストラスブール』は、すでに動き始めているのが艦橋要員からの報告で分かっていたが、他の二隻に関しての情報はル・パパーンの耳に入ってこない。今聞こえてくるのは、他者の仕度準備の様子などではなく、己の命に関わる報告ばかりになっていた。


 英国海軍の三斉射目、その内の二発の一五インチ砲弾が戦艦『ブルターニュ』に直撃していた。装甲を食い破った一五インチ砲弾は非装甲区画を吹き飛ばし、戦艦『ブルターニュ』の主砲弾をいくつか誘爆させ、四番砲塔付近が大爆発を起こして黒煙と爆炎が船外に轟々と吹き上がる。


 今まで感じたことのない船体の異常な振動、今まで経験したことのない致命的な一撃にも関わらず、ル・パパーンは果敢に立ち向かおうとした。被害報告を副官に尋ね、旗艦『ダンケルク』と僚艦『プロヴァンス』はまだ動けないのかと怒鳴った。


 ル・パパーンは、同乗している第二戦艦戦隊司令官のボーザン少将と共に、彼らと彼女に与えられた任務がなんであるかを心得ていた。


 我らが栄えある戦艦『ブルターニュ』は、軍港にいるフランス海軍の殿なのだ。


 今、戦艦『ブルターニュ』が独断で動けば後方を通過する予定の戦艦『ダンケルク』と僚艦『プロヴァンス』が動けなくなる。

 そんなことは断じてあってはならない。

 であるならば、戦艦『ブルターニュ』は、ここで持ちこたえなければならない。

 なんとしてでも。



『直撃弾は船体後部に直撃! 爆発と炎上を確認しました!』

『―――四番砲塔、応答ありません!』

『こちら応急指導班! 隔壁と水密扉がさきの爆発でほとんど吹き飛びました。艦尾は現在も炎上中で損害の程度が把握できません! 人員が足りません、艦長!』

『―――……――……』



 悲鳴のような声があがるならまだ良いほうだったが、ル・パパーンは知りようもなかった。

 たしかに一五インチ砲弾の一発は四番砲塔の喫水線下に直撃していたが、直撃した砲弾は二発である。

 もう一発の一五インチ砲弾は、それよりも上部、後部機関室にいたすべての船員と器材を爆破し粉砕していた。これにより艦内の通信設備が大きな損傷を負っていたのである。



「副長! 一部戦闘部署を解散させ応急指導班に任せ、艦の保持に努めろ。ここで『ブルターニュ』が沈んではならんのだ!!」



 炎と黒煙をあげる戦艦『ブルターニュ』の艦内では未だに七百名以上の人間たちが彼女を海上に止め置くべく奮闘していた。四番砲塔の爆発によって生じた右舷側の大穴からは、推定毎分三百トンの海水が流れ込んできたが、それによって火災がそれ以上の範囲に拡散することを防いでいた。


 応急処置を施すために男たちは傷だらけ火傷まみれになりながら角材と工具を手に走り回り、指導班はありったけをもってして火災と浸水を止めるべく死に物狂いで駆けずり回って人員を投入し続けた。戦艦『ブルターニュ』が艦尾側に傾いていることを悟ると、彼らは死にかけた老女を救う為に喜んで火災と戦い、破壊された通路の中を掻き分けて進み、彼女を癒そうとした。


 しかし、完全に破壊された後部機関室はどうすることもできなかった。

 そこにいた船員たちはそのことごとくが死に絶えており、生きていたとしても祖国フランスの海軍工廠以外、彼女が負ったこの傷を癒せる者と場所はない。

 もはや言葉もなにもなく、そこにあるのは鋼鉄の残骸と人間だったものの残り滓だけであった。


 矢継ぎ早に指示を出し、ル・パパーンは額に流れる汗を拭い、振り返ってボーザン少将を見た。

 ボーザン少将もまた、ル・パパーンを見ていた。

 まだやれる、と彼らは意識を共にしていた。

 戦艦『ブルターニュ』はまだ持つと。

 だが、弾雨の中にあっても職務に忠実な、あるいは無謀な見張り員が張り出しから艦橋内へ怒鳴り声をあげた。



「敵艦隊さらに発砲ッ!!」

「―――総員衝撃に備えろ!!」



 英国艦隊の第三斉射より七分後、再び二発の一五インチ砲弾が戦艦『ブルターニュ』に直撃した。

 一発は対空火器の弾薬集結場にあった弾薬を誘爆させ、戦艦『ブルターニュ』の三脚マストの基部が吹き飛んだ。直下からの爆発と爆風で艦橋にいたル・パパーンやボーザンは鼓膜が破れるような思いと、吹き飛んだガラス片が肉に食い込む痛みに顔を顰める。

 そして次の一発は中央の一三八センチ副砲の厚い砲郭装甲を容易く突き破って艦内の最奥部で炸裂し、フランス海軍に勤め国家に奉仕し続けた健気な彼女の心臓に慈悲の一撃を下した。


 艦内ではあちこちで爆発と炎上が繰り返し生じ、海面は流出した油に火が燃え移り、またたくまに火の海となる。

 そのような状況にあってはもはやどのような努力も無意味であり、生き残った者たちは燃え盛る海の中へ、あるいは戦艦『ブルターニュ』の血である油の覆う海面へと飛び降りた。


 戦艦『ブルターニュ』はその灯火を失ってからたったの三十秒ほどで転覆し、艦長であるル・パパーン大佐、第二戦艦戦隊司令官ボーザン少将、ならびに将兵九七七名とともに海底に沈んだ。


 戦闘開始から、たった十三分後のことであった。


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