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臣民のエジンコート【完結】  作者: 狛犬えるす
第四章:1940 Hunt M.V.
25/59

同年 フェロー諸島近海 『巨人の灰色の細胞』


 ジョージ・ハワード予備役少将は椅子に腰を掛け無言でただただ、じっと回転窓越しに海原を見つめていた。大英帝国の船乗りの大半は、大昔よりこの海原を敵と感じたことはなかった。ジョージ・ハワードもそうであり、海との戦いとはつまるところ自分と船員の訓練度合いが試されているのだと感じ、度重なる困難を全て試練だと思い、自分自身に負けてなるものかと意固地になって対策を考え出し、試練が訪れるたびに船員たちと共にそれを乗り越えてきた。海原とは無限に広がる荒野であり、新天地であり、大いなる女性だった。愛人よりも愛おしく、妻よりも気難しく、恋人のように嫉妬深い。ジョージ・ハワードにとって、船乗りの友である海原も艦船も、等しく女性だった。そのため、今更周囲に女性が溢れていようが気にも留めずにいた。

 しかし、彼が気にも留めずにいたとしても、周囲がそれを実践するには彼の階級は高すぎた。提督が着任するのもまた、他艦隊から人員が異動してくる時と同じような変化が見られる。軍隊とは娑婆とは隔絶された絶対なるピラミッド構造組織であり、軍指揮官は要するに独裁者のようなものであると平和主義者はそれがどこかの聖典に書されていたのか、もごもごと呟きたがる節があるが、喜ばしいことにゴシップのネタは娑婆と同じように、一部ではそれ以上の速度を持って、文字通り電撃的に広がっていく。自分の指揮官が、あるいは分隊長がどんな人物であるかというのを、責任ある階級を持つ者たちが値踏みするからだ。水兵たちもまた同様に、しかし独自の情報収集網を用いて情報を仕入れては吹聴し、気付けば艦内にその噂を知る者はいなくなる。この悪質なウイルスの病巣を叩くべく歴史に記されない者たちは悉く規律を並び立て怒鳴り散らし営倉にぶち込みと、かなり精力的に活動はしたのだろうが、意味はなかった。伝統と言うものは廃れぬから伝統というのであり、伝統が伝統として受け継がれる限り、この伝統もまた廃れることはない。帆船が過ぎ去り、汽船が通り過ぎ、タービンを備えた最新の軍艦が就役しようとも、伝統は形を変えずに生き残る。海軍に数多く存在する、慣用句と同じように。


「マクミラン少佐」


 不意に、回転窓越しに海原を見つめながら、ジョージ・ハワードが当直士官のマクミラン少佐に言った。マクミラン少佐を呼んだだけだというのに、士官候補生の数名は直立不動の体勢をとって固まり、今から張り出しに出て哨戒に出ようとしていた者に到っては不意打ちを喰らった猫のようにその場で飛び上がった。

 しかし、ニーナ・マクミランは平静そのものの態度でハワードに答えた。


「はい。なんでしょうか、提督」

「ヴィクス艦長は、いつ休んでいるのだ?」

「はい。ヴィクス艦長はご自身が必要だと思った時にしか休みません」

「そうか。少なくとも私には、艦長はもっと休息が必要なように見えるのだが、……少佐はどう考えている? 意見を聞きたい」

「アイ・サー。ヴィクス艦長は必要とされる時に休み、それ以外の時間は艦を監督しています。過剰労働である、というのは本官も同感であります。しかし、ヴィクス艦長のように積極的に艦を監督する責務を負う方は、士官や水兵の正統な評価を受け易い方でもあります。でなければ、ここまでの統括は不可能だったと本官は考えております。また、そのことでヴィクス艦長の能力が損なわれたことは一度たりともありません」


 軍学校で模範解答を答えるかのような口調でマクミランがハワードに述べる。それを無愛想と見るか、任務に実直な態度と見るかは、ハワード次第だ。おべっか使いの蔓延る政治の場に慣れた提督たちは大抵、愛想のいいイエス・マンを傍らに集めてはパーティーを開きたがる。そして少しばかり反抗的な美人を軍服の威光でとっ捕まえ、胸元にぶら下げた勲章のようにあちこちに見せびらかす。数年後にやって来る停滞と倦怠の日々のことなど知らず、考えもせず、本分を忘れ享楽に浸るのだ。そしてハワードは、そのような馬鹿者の一人ではない、愚直な提督の一人だった。


「なるほど、了解した」


 回転窓からマクミランに視線を移し、ハワードは彼女を値踏みするようにじっと見つめた。まるで海原を見るかのように、胸の内に秘められた感情まで読み解き、微かな波浪の傾向まで知り尽くそうとするように、静寂が二人の間を過ぎ去る。


「ヴィクス艦長を信ずるか?」

「はい。信じております、提督」

「他の士官たちはどう思っている?」

「はい。それは本官からはお答えしかねます、提督」

「私に答えられないような状態なのか?」

「はい。いいえ、提督」


 他人の揚げ足を取ろうとするばかりの人間がいるならば、ここでマクミラン少佐を糾弾しようとしたかもしれないが、提督に対しての応答は絶対である。応答の後に、マクミランは自分の考えを告げた。


「お答えできるからこそ、提督自らがお尋ねになったほうが良いかと考えました」

「マクミラン少佐、君には自信があるようだ」

「はい。提督」


 マクミラン少佐はじっと見つめるハワードの瞳を、同じようにじっと見つめ返しながら、静かに言った。


「私は艦と乗員を艦長同様、信じておりますから」



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