同年 フェロー諸島近海 『巨人 翡翠 狂犬 II 』
L級潜水艦『L71』はそうして戦艦『エジンコート』とスループ『キングフィッシャー』、補助巡洋艦『ヘイリング』の前に浮上し、その艦長はなんの謝罪も釈明もなしに艦橋に姿を現した。見張り員よりも先に外に出てくるのが、さらにヴィクスの気に触った。ヴィクスは部下を信頼しているからこそ、彼女、彼らには敬意を持っており、その仕事の邪魔だけはしないようにと努めている。だが、潜水艦『L71』の艦長はどうやらそうではないようだった。
首から下げた双眼鏡を覗き込む防寒服で着膨れした大尉は、小さな艦橋で見張り員と一緒になって見分けがつきにくい。長身ではなくどちらかといえば小柄な方で、伸びすぎた黒髪に病的なまでの白い肌が薄気味悪い。ヴィクスはまだ彼女に会ったことがないので瞳の色は分からないが、きっと暗色に違いないと感じた。けれど、狂犬と言う割には華奢で小さいと、単眼鏡から眼を離してヴィクスは思う。防寒服を重ねているから小柄なだけだと錯覚しているだけで、その実、あの大尉は小柄でいて細い。伸びすぎた黒髪といい、まるで刑務所から出所してきた犯罪者が軍服を着ているようだった。
「……狂犬とはよく言ったものじゃないか。肝が冷えたよ」
口元に笑みを浮かべながらハワード少将が言うが、その目はまるで照準を定めた射手のようで、誰も彼に笑い返すことなどできはしない。
彼は、というよりも、艦橋にいた殆どの要員が、これほどまでに接近していながら沈黙を保ち、あまつさえ雷撃深度をとって友軍艦艇に艦首を向けたのは、確信犯でしかないと考えているのだ。
「潜水艦『L71』より信号。――コレヨリ貴船ノ指揮下ニ入ル。ゴ機嫌ハイカガカ?」
「最高だと伝えてくれたまえ。艦長、これより我が隊は予定よりもプラス十七分で行動を開始する。敵潜水艦に警戒しつつ、不審船を発見。これがドイツ補助巡洋艦であった場合、撃沈する」
「イエス・サー。速力戻せ」
「アイ・マム。速力、戻します」
大型艦である戦艦『エジンコート』は、速力を下げる。それは操作がなされてからすぐに適応されるものではなく、慣性により一定距離を滑り続けてから、操作をしてから数十秒たってやっと速力が下がり始めるのだ。舵も同様で、それ故に舵を握る当直の癖や腕前をヴィクスは覚えておくようにしている。ヴィクス自信が操艦をした際に、上手く艦が動かせなければ部下は不振がるものだ。
「……すまないが、少し休んでくるよ。後を頼んだ、艦長。君がいればこそ、私は安心して休むことが出来る」
「イエス・サー。引き受けました」
「うむ」
相槌を打ち、ハワード少将は席を離れ、艦橋から去っていった。
ヴィクスはそれを横目に各員に指示を送りながら、少将に感謝しなければならないなと思い、ふとボランにもそういった言葉を送った方が良いのだろうかと考えた。ボラン少佐は確かに強かに過ぎ好戦的ではあるものの、臣民海軍において五本の指に入る砲術家でもある。砲に関する有用なものならば、ドイツだろうがイタリアだろうが日本だろうが、等しく吸収し、実戦的な理論までそれらを高めようとし、できなければ細分化して再結合する。
使いにくいが、良い部下なのだと、ヴィクスはボランを評価していた。だからこそ、安っぽい言葉で褒め称えるべきではないと思った。彼女はそういった事柄には一際敏感だろうから。
「………」
一通り命令を出し終え、ヴィクスはポットからカップに珈琲を注ぎ、温くなったそれをゆっくりと飲み、味わおうとした。ほろ苦く香ばしい匂いは薄れていたが、今回のものは冷めてもうまいものらしく、ヴィクスは一人首を縦に振り、カップを傾ける。
きりきりと胃が、じくじくと体が痛んだが、それらはもう逃れられないものなのだと、ヴィクスは超然とし、受け入れるようになっていた。