同年 イギリス連合王国 スカパフロー 『休日の戦い III』
マリア・ヴィクス大佐は司令部付下士官の運転する車で戦艦『エジンコート』まで送迎され、海兵隊の歩哨に答礼し、ラッタルを上り終え、疲れ果てた体を仮眠室のベッドの上に寝かせたあと、肺の中に溜まった空気をゆっくりと吐き出した。
ヴィンセント中将はノルウェーに行く前と比べて、やつれていた。煙草を吸う暇すらないのか、頻りに右手がニコチンを求めて震えており、目元はまるで黒いインクでも塗りたくったような有様になり、アリスン大佐に言わせれば〝まるでスコットランドの幽霊みたい〟だった。ヴィンセント中将は英国海軍の出世街道を自分から降りて臣民海軍に来た変り種で、そのもったいぶった言い様や官僚然とした伝え方も相俟って、アリスン大佐のような人間からは尽く嫌われていたが、能力的にはまったくもってこれ以上を求めることができないほど有能で、ただ椅子に座って机と向かい合っている老害ではなかった。ただし、ヴィクス同様張り切りすぎると抑えがつかない悪癖があるようだ。
「……私と妙に馬があうと思ったのは、それか」
たしかに、あの官僚然とした物言いは時にヴィクスですら怒りを覚えることがあるものの、非難されて当然のことを戦艦『エジンコート』の水兵たちは行ってきたわけである。
軍人は、軍人でなけらばならない。それを忘れ、女として振舞ったのは水兵たちが最初だった。そんなことでは駄目なのだと教え諭そうにも、艦長という役職は尻軽には務まらない。威厳を持ち、重々しく椅子から立ち上がり、その重たげな振る舞いからは想像もできないような労いの言葉を持ち、苦労を共有しなければならない。そのせいであの命令不服従問題が反乱と呼ばれるまでに至り、臣民海軍本部に知れ渡り、ロンドンの海軍省にまで噂は響き渡った。
ため息を吐く。北海での航海中、艦上構造物のほとんどが着氷し、空気の循環が不十分になった時に比べれば、戦艦『エジンコート』内の空気は美味かった。胃が、体の節々が痛いなと、ヴィクスはまるで他人事のように思いながら、コートのポケットから潮風にあてられくしゃくしゃになった手紙を取り出し、封を破って読む。
手紙の差出人は夫だ。特に秀でたところもなく、どちらかといえば退屈な、ただの優男。だが、ヴィクスにとって彼はかけがえのない存在だった。士官や水兵たちはいずれ私を忘れてしまうだろうが、彼だけは私が没しても覚え続けていてくれるだろうという核心が彼女にはあった。だから、長い航海を終えてベッドの上で固まった筋肉を解して貰っている最中に、家に連れ込んだ女が落としていった髪の毛を見ても、知らん振りをした。感情は一部を残して潮風と波浪に運ばれ、今やヴィクスは軍人という肩書きがなければ、抜け殻のような女でしかない。そんな女と共に未だ籍を置いていてくれる、それだけでヴィクスは満足していた。
「ここにも、良き航海を祈る、とはな。気持ちは嬉しいが、皮肉にしか聞こえないのが悲しいことだ」
手紙を読み終え、それを枕元に放り、ヴィクスは艦長帽を脱いで目を閉じる。
ヴィンセント中将からの指令はごく簡潔なもので、水兵たちの反感を買いそうな任務だということも承知している。これを伝達するには、体力がいるとヴィクスは思っていた。上陸し、酒を飲みたいという気持ちを抑えて、ヴィクスは眠る。
戦艦『エジンコート』は、機関修理のためドッグ入りした巡洋戦艦『フッド』の後釜として、船団護衛やドイツ仮装巡洋艦、封鎖突破船の阻止を目的とするハンター・キラー・グループに所属することが決定していた。それは、極寒のてアイスランドやフェロー諸島近海での哨戒活動が主であり、これまで二度の戦闘を乗り越え、あの不手際の汚名を拭い去りたい一身で訓練に励んできた者たちからすれば、退屈でしかない任務となるだろう。
たとえそれが、英国の興廃を決するかもしれぬと言われたところで、骨まで凍りつくような寒さと人間の存在を拒絶するかのような海原にぽつねんと取り残されたようにされれば、誰であっても士気は下がるだろう。だが、その士気をあげねばならないのがヴィクスの仕事だった。艦長の仕事だ。
そのために今は、眠ろうと、彼女は眠りにつく。巨大な鉄の塊の中の、小さな一室で、今にも消え入りそうな寝息をたてながら。