「父の遺した店など潰せ」と言われたので、あなたの婚礼衣装の注文もお断りします
「父の遺した店など潰せ」と言われたので、あなたの婚礼衣装の注文もお断りします
「父の遺した店など潰せ。せめて最後くらい、役に立ったらどうだ」
婚約者のヴィクトルは、私ではなく、隣に立つ令嬢を見ながら言った。
仕立屋ノルドの採寸室には、彼と、彼の幼馴染だというイザベル嬢が並んで座っている。彼女の指には、婚約の証である指輪が光っていた。私の指にも同じものがある。
「イザベルの婚礼衣装を作れ。お前の店なら、俺の注文を断れないだろう」
「ヴィクトル様は、私との婚約を解消するおつもりなのですね」
「そうだ。イザベルと結婚する。だが、式まで時間がない。お前なら、彼女に似合うドレスを仕立てられるだろう?」
彼は当然のように言った。
「父の店は古くさいが、お前の腕だけは使える。俺たちの結婚を最後の仕事にしろ」
私は、机の上の注文書を閉じた。
父の店は、古びた木の看板を掲げた小さな仕立屋だ。流行の華やかな衣装を次々に売る店ではない。体の癖や暮らし方を聞き、長く着られる一着を仕立てる。それが父の仕事で、私が受け継いだ仕事だった。
「ご注文はお受けできません」
ヴィクトルが、初めて私を見た。
「聞こえなかったのか?」
「聞こえています。イザベル様の婚礼衣装は、当店ではお仕立てしません」
「婚約を解消するから、注文も断るというのか」
「婚約のことと、注文のことは別です。店主として、お受けできない注文をお断りしています」
私は注文書を彼の前へ戻した。
「それから、婚約解消の書類は本日中にご実家へお送りします。指輪もお返しします」
「本気で言っているのか? その店は、俺の家からの注文でどうにか続いていたんだぞ」
「いいえ。父と職人たちと、お客様のおかげで続いてきました」
ヴィクトルは鼻で笑った。
「なら、好きに潰れればいい」
彼はイザベル嬢を連れて店を出た。扉が閉まると、奥の作業場から、針を動かす音がひとつずつ戻ってきた。
父の代から働く職人のヨハンが、手を止めて私を見た。
「本当に断ったのか」
「はい」
「大きな注文だった。今月の給金を払うには、助かる金額だったぞ」
胸の奥が痛んだ。ヴィクトルの注文を受ければ、職人たちの給金はしばらく安泰だったかもしれない。
「ごめんなさい。皆に相談する前に決めてしまって」
ヨハンは、皺の深い手で糸を切った。
「謝ることはない。だが、このままじゃ店が苦しいのも事実だ」
店には、父が亡くなってから残った注文が少しずつ減っていた。貴族の婚礼衣装は大きな収入になる一方、仕上げまでに時間がかかる。日常着の注文もあったが、既製服を売る店が増え、若い客はそちらへ流れていた。
「父さんは、どんな人の服でも仕立てていたわ」
「そうだな。だが、誰のための店なのかは、最後まで決めなかった」
ヨハンは責めるようには言わなかった。それでも、その言葉は胸に残った。
その夜、私は父の帳簿を読み返した。採寸表の端には、寸法だけでなく、客の言葉が書き留められている。
「右肩が少し下がる。長く机に向かう仕事」
「腕を上げると背中が突っ張る。子どもを抱く」
「喪が明けたあとも着られるよう、黒一色にはしない」
父は服の寸法だけでなく、その人がどう暮らすかを聞いていた。
翌朝、私は職人たちを集めた。
「この店の看板を、婚礼衣装専門のままにはしません」
仕立屋ノルドは、父の名を掲げてきた。けれど、父が遺したのは看板だけではない。
「体に合う服を、暮らしに合わせて仕立てる店にします。立ち仕事の人、長く座る人、体に合う既製服が見つからない人。そういう方のための服を、もっと作りたいの」
「注文が来るか?」
「来るようにします」
自信があったわけではない。ただ、店を続けたいと思った。
私は父の古い顧客に手紙を書いた。服の直しや採寸の相談を無料で受ける日を設けること。仕立ての途中で仮縫いをして、どこをどう直すのか説明すること。着なくなった服の生地を、別の品に仕立て直す相談も受けること。
店先には、職人たちが仕立てた服を飾った。派手なドレスではなく、腕を動かしやすい仕事着、座っていても腰が苦しくならないスカート、外套の下に重ねられる上着。
ヨハンは、長年使っていた裁ち台を磨き直し、窓際に置いた。
「これなら、通りから仕事が見えるな」
「見てもらうのも、店の仕事ね」
最初に訪れたのは、父が婚礼衣装を仕立てたことのある、年配の伯爵夫人だった。
「昔、ここで作ってもらったドレスがあるの。娘の結婚式に着たものよ。今度は、毎日着られる服をお願いしたいの」
彼女は、膝に手を置いて笑った。
「近頃は、椅子から立つたびに裾を踏んでしまうの。これからは、人に会うときにも、歩きやすい服がいいわ」
私は希望を聞き、採寸し、仮縫いの日を約束した。
次に来たのは、町の施療院で働くアルノーだった。父の古い顧客で、今は医師として忙しく働いている。
「往診のとき、腕を伸ばすと上着が引っ張られるんです。体に合う服を探しても、袖を動かしやすくすると肩が余る」
「診察のときは、どちらの腕をよく使いますか?」
「右です。患者の家では、床に膝をつくこともあります」
「では、裾が邪魔にならない丈にしましょう。内側に道具を入れるポケットも付けられます」
「そんなところまで考えてくれるんですか」
「服は、着る人の暮らしの中で使うものですから」
採寸のあいだ、アルノーは仕事の話をした。私は彼の動きを見て、肩を回しても布が突っ張らないよう型紙を引き直した。
数日後、仮縫いに来た彼は、腕を上げたり、椅子に腰かけたりして確かめた。
「違和感がない。これなら仕事に集中できそうだ」
「気になるところがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「仕立ての説明までしてくれる店は初めてです」
彼はそう言って、完成の日を楽しみにして帰っていった。
注文は一度に増えたわけではない。けれど、伯爵夫人は娘を連れてきてくれた。アルノーは施療院の職員を紹介してくれた。職人たちは、客の要望を聞くたびに、型紙の引き方や縫い方を工夫した。
店の帳簿に、久しぶりに新しい名前が増えていく。
開店からひと月後、店先の看板を掛け替える日が来た。
古い「仕立屋ノルド」の下に、私の名を刻んだ板を重ねる。父の名を消すのではなく、父から受け継いだ仕事を、私の手で続けていくための看板だった。
ヨハンが脚立を支え、職人たちが通りから見上げている。
そのとき、ヴィクトルが店の前に立ち止まった。隣にはイザベル嬢がいる。
「本当に看板を変えたのか」
彼の視線は、窓辺に飾った服と、店の中で採寸を待つ客へ向いた。
「ここは父の店です」
「俺の注文を受けていれば、こんなことをせずに済んだだろう」
「その注文はお断りしました」
「婚礼衣装を仕立てられる店は、ほかにもある」
「ええ。お二人に合う店が見つかるといいですね」
彼は、言い返す言葉を探したようだった。しかし、客たちの前で何を言っても、注文を取り消すことはできない。
イザベル嬢は店の窓に近づき、飾られた上着を見た。
「綺麗な仕立てね」
「ありがとうございます」
「……ヴィクトル、行きましょう」
二人は通りを歩いていった。私は後を追わなかった。
看板を掛け終えると、伯爵夫人が店の奥から呼んだ。
「新しい看板、おめでとう。次は、娘にも仕事着を作ってくださる?」
「もちろんです。どんな場面で着たいか、まずお話を聞かせてください」
客が笑い、職人たちも笑った。
アルノーは完成した上着を受け取りに来た。袖を通し、腕を上げてから、満足そうに頷く。
「診療所の皆も、ここで作りたいと言っています」
「紹介してくださった方には、手入れの相談も承ります」
「服の手入れまで?」
「長く着ていただきたいですから」
彼は、仕立てた服を褒めるだけではなく、作業台の脇に積まれた布を一緒に運んでくれた。
「お手伝いしてくださるんですか?」
「次の採寸まで時間があります。これくらいは」
私は、彼の手に渡した布の端を一緒に持った。
「では、店の外までお願いします」
「喜んで」
父の店は、父の時代と同じ形では続かないだろう。けれど、服を着る人の話を聞き、その人の暮らしに合わせて仕立てる仕事は、ここに残っている。
私は新しい看板を見上げた。
その下で、職人たちが次の一着に取りかかっている。
もう、誰かに店を使われるために針を持つのではない。誰にどんな服を届けるか、私たち自身で選んでいくのだ。




