第八話 病院
「……んぅ」
目を覚ました和花は、暫くの間、ぼんやりと白い天井を眺めていた。
身体中が怠く、まるで力が入らない。
起き上がるどころか、首を回すのも億劫だった。
思考力にも霞がかかったかのようで、考えがまとまらない。
時間をかけて少し気力が戻ってきた和花が周囲を見渡してみれば、周囲を囲む真っ白な壁が目に入った。
モニターや手すりなどが備え付けられており、窓からは柔らかな日差しが差し込んできている。
そのまま自分自身へと視線を動かすと、それと同じくらい白いベッドに寝かされ、清潔なシーツが身体を覆っている。着ているのも、いつもの桜色のパジャマではなく、どうやら淡い水色をした薄い服のようだ。
甘い香りに誘われて窓際に目をやれば、ベッドの脇には、立派な花瓶に入った花が生けてあった。
誰が贈ってくれたのかはわからないが、ピンク色のスイートピーの花束である。
(ここは……どこ?)
和花には、全く心当たりのない場所だった。
少なくとも自分の部屋は、こんなに殺風景ではない。
(なんか……病院っぽい……。それに、私の格好……)
だけど……なぜ、私は病院に?
なんだかすごく大切なことを忘れている気がする。
確か、学校が終わって、琴音と一緒に遊んで、それで――。
「――琴音!!」
和花は思わず、全身の倦怠感も忘れて叫んだ。
そうだ、確か……私たちは、暗く人気のない路地を帰っていたんだった。
そこで何があったのかは、記憶がぼんやりとして朧げではある。
だが、暗闇の中で光る一対の光と、琴音を跳ね飛ばした黒くて巨大な影のことは、和花の頭のどこかに断片的に残っていた。
――そうだ。
親友が、目の前で「何か」に撥ねられたんだ。
そして、咄嗟に前に出た琴音が、私を庇ってくれた。
そのまま溢れ出す血や全身を走る痛みに、私も意識を失ったのだ。
……あの影は本当に「車」だったのだろうか。
なんとなく違和感もあるが……それは、上手く当時のことが思い出せていないからだろう。
だが、今は――。
(――行かなきゃ。琴音のところに……!)
和花は力を振り絞って、ベッドから這い出した。
しかし、歩くどころか自分の身体を支えることもできず、床に倒れ込んでしまう。
それでも和花は、諦めようとはしなかった。
手すりに体重をかけ、壁に寄りかかりながら、ふらふらと病室の外に出ていく。
そして5分後。
無理をしすぎて目を回した和花は、看護師に見つかって、即座に病室へと連れ戻されることになるのだった。
***
「――じゃあ、あの子は……琴音は無事なんですね!?」
「だから、そう言ってるでしょう」
何度目かの和花の問いかけに、医師はやや面倒そうに言った。
最初は忙しい中、誠実に対応してくれていたが、流石に繰り返し問い詰められれば、誰でもこうなる。
「……とは言え、重体ですよ。あちこちヒビが入っている上、右足は骨折。意識も、まだ戻っていませんので……」
「そんな……治りますよね!?」
「もちろん、意識が戻れば、日常生活に支障が出ないレベルまでは持ち直すでしょう。とは言え、今は絶対安静ですからね。お見舞いも禁止です」
それを聞いた和花は、唇を噛み締めて、肩を落とした。
自分のせいで親友が意識不明……というのは、まだ14歳である彼女にとって、あまりに残酷な現実だった。
しょんぼりとした顔の和花を流石に見かねたのか、医師は慰めるように言った。
「検査の結果では、脳にダメージは行っていないようです。まあ、数日以内に目を覚ますでしょう」
「――本当ですか!?」
途端に顔を輝かせる和花を見て、医師は僅かに微笑んでみせた。
「ええ、お約束します。ただし、まずは貴女自身のことに専念するべきでしょうね。琴音さんに、元気な顔を見せてあげないと」
「はいっ! 頑張りますっ!」
とっても素直な和花なのであった。
そこから先は、和花にとっては慌ただしい日々が続いた。
彼女が目覚めるまでに、病院に搬送されてから、なんと三日が経っていた。
まず、家族や友人のお見舞いがひっきりなしに訪れた。
ベッドに上体を起こした和花を見た母・ほのかは、思わず彼女を強く抱きしめた。
この事故が起こったのは、元はと言えば和花の帰りが遅くなったからだ。
心配をかけさせてしまった母に怒鳴られるのではと身構えていた和花は、暖かな母の抱擁に、思わず少しだけ涙ぐんでしまった。聞けば和花が搬送された後、多忙な母だけでなく、管理職の父までも駆けつけて、一晩中付きっきりでいてくれたようだ。和花が目を覚ました時は、たまたま二人とも席を外していたらしい。
自分の家族愛を再確認できた和花だったが、しばらく話した後、それはそれとして遅くまで遊んでいたことは、ほのかにしっかり怒られることになった。
それから、学校の友人たち。
クラスメートや同じ園芸部の子たちが、和花の回復を聞いて、邪魔にならない程度にお見舞いに訪れた。
学級からは、なんと有志によって作成された寄せ書きと千羽鶴が届けられ、友人の前で、またもやホロリとしてしまった和花である。元気で明るい彼女は、琴音と四六時中一緒にいたものの、人間関係そのものは良好で、周囲からも好かれていたのだった。
次に、自分自身のリハビリ。
そもそも医師の話によれば、和花自身は「事故」の際に大きな怪我を負ったというわけではないらしい。
それでも、発見当時は意識不明であり、かつ、全身を包んでいる謎の倦怠感についても原因がわからないということで、検査入院が続いたのであった。
精神性のショックによるものか、頭を強く打って気を失ってしまったのか。
当初はこれまでのように身体を動かすことができるのかという不安もあったが、幸運にも、リハビリで身体を動かすことによって、和花の状態は快方へと向かっていった。徐々に普段の調子を取り戻していったので、今後も定期的に検査は実施するものの、取り敢えずは一週間後には退院できる、というところまでは漕ぎ着けた。
これには、本人の努力によるところが大きい。懸命にリハビリに取り組む姿に、看護師のお姉様方もすっかり絆され、忙しいのにも関わらず声をかけてもらえるほど仲良くなったのは、彼女の人徳か。
そして……最後に待っていたのは、警察の事情聴取だった。
本人の記憶が曖昧だということや、まだ入院中であることを考慮し、かなり控えめなものではあった。
しかし、警察としてはこの「事故」の発生を、かなり重く見ているようだった。
それも当然である。
和花は知らないことだったが、ここ最近、日本全国で謎の失踪者や、変死体の発見が相次いでいたからだ。
被害者は思春期の少女に多く、もしこれが人為的なものであるなら、過去にも例を見ない、大規模な誘拐・殺人事件が行われているということになる。
加えて、僅かな生存者の証言が曖昧であることも、事態の混乱に拍車をかけていた。
精神的なショックからか、「怪物」に襲われたと譫言のように繰り返す子も多く、警察は未だ事件の消息を掴めないでいた。仮に今回のケースも一連の事件に関連しているなら、被害者が出なかった初のケースである上に、もしかすると被害者の少女が犯人の顔を見ている可能性もあった。
そうでなくても(本人の言葉を信じるなら)二人の少女を轢き逃げした悪辣な事件であることに変わりはない。
警察としての対応が慎重になるのも頷けるというものだ。
和花の病室を訪れたふたりの刑事は、まずは友人トラブルや通り魔、性犯罪などの事案でないことを確認した後、「事故」当時の詳細を和花に聞いた。
和花としても記憶が曖昧であったが、一生懸命に記憶を探って話そうとする彼女の様子を見て、刑事たちも取り敢えずは嘘ではないと判断したようだった。
結局、和花の証言した「一対の光」に「黒くて大きな影」という言葉から、捜査の方向性を単なる事故ではなく「轢き逃げ事件」へとシフトしていったようだ。後日、実際に地方の新聞にもそのように掲載された。
和花の名前は伏せて報道されたので、取材陣が病院に押しかけてくるなどという展開にはならなかったが、代わって事情を知るクラスメートには、根掘り葉掘り質問されることになった。
ただ、この間、琴音は一向に目を覚さなかった。
医師の話では数日中に目覚めるはず、とのことだったのだが、当初の見込みに反して、琴音の瞼が開かれることはなかった。和花は齧り付くような勢いで担当医に確認したのだが、どうやら原因はわからないらしい。
今のところは、安静にして、様子を見るしかないとのことだった。
そんな中、琴音の両親は、全く顔を見せなかった。
どうやら病院には一度顔を出したきりらしく、お見舞いにもきていないようだ。
琴音の家庭環境については、和花は彼女から聞いて知っていた。
そもそもが、現在別居中の両親ともに放任主義の上、かなり多忙で、琴音自身も顔を合わせる日はそれほど多くはないらしい。
しかし、一人娘が意識不明なのに、いくら何でも冷たすぎるのではないだろうか。
和花はそのことに、こっそりと腹を立てていたが、それよりも親友への心配が勝っていたので、顔を見せない親友の両親のことは、すぐに忘れてしまった。
バタバタとした入院生活が終わると、和花は再び、彼女の日常へと戻っていった。
まあ、病院の出口で待っていた両親から抱きしめられて、恥ずかしさのあまり暴れたり、口の軽いクラスメートのせいで学校の有名人になってしまい、誰彼構わずに話しかけられたりと、色々あったのだが。
特に、他のクラスだけでなく、他学年の学生たちまで教室に押しかけてきたのには、流石の和花も閉口した。
やがて一週間も経つと周囲の興味も薄れたのか、彼女の周辺の騒がしい雰囲気も下火になっていき、和花はいつも通りの日々を送るようになった。ただし、その隣には、いつものようにいた琴音はいない。
傍目には「事故」の前と同じように見えただろう。
和花はいつも通りよく笑い、明るく振る舞っていたから。
ただ、彼女をよく知る者から見れば、和花の現在の明るさや笑顔の中に、ほんの僅かな陰りが存在していることは一目瞭然だった。もちろん、そんな彼女を心配し、励まそうと思ったクラスメートも中にはいたが、琴音の容体については気休めも無責任なことも言えず、そっと和花の寂しげな笑顔を見守ってあげることしかできなかった。
そんな和花には、新しい日課が増えた。
もちろん、琴音のお見舞いである。
病院側としては、面会謝絶である琴音の病室に関係者以外を入れることはできない。本来なら和花を追い返さなくてはならないわけだが、彼女は部外者とは言い難い上に、連日泣きそうな顔で来られては堪らない。
病院側が完全に根負けした形だった。
それに、和花の入院中に仲良くなった看護師さんや病院のスタッフ側が、彼女の味方についていたということも大きい。時間をかけて勝利をもぎ取った和花は、学校が終わると毎日、琴音の病室に通った。
目を覚さない琴音の凛々しくも弱々しい横顔を眺めながら、その日に学校で起こった出来事などを逐一報告するのが、和花の日課だった。もちろん、彼女が聞いていないことなど百も承知であったが、和花にとっては些細なことだった。それになんだか、普段通りに接していたら、琴音の方も何事もなかったように目覚めてくれるのではないかという、淡い期待もどこかにあったのだ。
時には親友の手を握ったまま、思わず心細くなって泣いてしまう日もあった。
それでも、彼女は毎日、お見舞いのために琴音の病室に通い続けた。
そんな、ある日のこと。
薄暗くなってきた病院からの帰り道を歩いていた和花は、家の近くの路地で、一匹の動物を見つけた。




