第六話 闇夜
その後も二人は、終始わちゃわちゃしながら「デート」を楽しんだ。
時間は既に19時を回ってしまっていたが、二人は薄暗い道を帰っているところだった。
隣駅まで徒歩で20分ほどなので、空模様は悪いものの、歩いて帰れないほどではない。
朝から降り続いていた雨は、夜に差し掛かってもしぶとくパラパラとコンクリートを叩いていたが、流石にその勢いは弱まってきているようだった。
「……今日はありがとね!」
「こちらこそ、どーいたしまして。……また、こうやってお出かけしようね」
「もちろんだよ! 楽しかったぁ!」
「ばーか、はしゃがないの、もう。……それより、帰りの電車賃くらい残しときなよ」
「うっ! 楽しくて、つい……」
「貸してあげるって言ってんのにさ」
「だめっ! お金の貸し借りはしないって決めてるの!」
「和花って、そう言うトコ律儀だよね。奢るのはOKなのに、変なの。……ま、だから私も気が楽なんだけどさ」
「ん? なんか言った?」
「何でもないよー。それより、早く帰ろ。暗くなってきたし」
季節も6月になり、夏に差し掛かっているところとは言え、この時間ともなれば流石に陽は落ちている。
二人が歩いているのが人気のない路地ということもあって、中学生の女の子だけで歩くには、かなり心もとない。電灯のうっすらとした光はあるが、それが陰影を色濃く浮かび上がらせており、逆に不気味な雰囲気を醸し出していた。
「確かに。うう……何だか、オバケでも出そうな雰囲気だよー」
「あのねえ、オバケなんて、非科学的――」
突然、琴音が立ち止まった。
慌てて和花も立ち止まろうとするが、いきなりのことで体制が崩れ、たたらを踏む。
「……琴音? どう――?」
「――シッ!」
焦ったように言う琴音の剣幕に押されて、和花も思わず口を閉じた。
そして、琴音と同じ方向へと視線をやり――同じように硬直する。
そこには、見た事もないモノがいた。
薄暗い路地の向こう側から現れたのは、人間のような「何か」だった。
和花は、最初はそれを、電灯に照らされた何かの影だと思った。
だが、それが近づいてくるにつれ、しっかりとした四肢を持つ輪郭と生々しい息遣いの音とが、それが影などではなく、もっと現実的な何かであることを、和花にはっきりと伝えてきていた。
向こうから、のしのしと近づいてくるそれを見てしまった二人は硬直した。
まるで極度の恐怖と緊張とで、その場に足を縫い止められてしまったかのように。
二人は息を潜めながら、ゆっくりと近づいてくるそれを見ていることしかできなかった。
やがて、無限にも等しい時間の後(実際には数秒のことだろうが)街灯に照らされ、それの姿が明らかになった。
それは巨大な怪物だった。
筋肉質な手足に、ぶくぶくに膨れた胴体。
胴体に頭や四肢がついている、と言う点は人間と同じである。
だが、カエルのように大きく膨れた頭部には、巨大な口と、小さな突起のような2本のツノ。
加えて、これまた巨大な掌を備えた長大な腕を猿のように引きずっていると言う異様な外見が、それが人間であることを明確に否定していた。
しかも、かなりデカい。並んでいる電柱との比率から考えれば、3mほどもある。
極め付けに、その全身が、黒くのっぺりとした硬質な皮膚に覆われていた。
明らかに自然物の黒ではない。もっと不自然で、非生物的で、そして怖気を振るうような、不気味な黒色だった。敢えて例えるなら、抜け落ちた毛髪のような、不吉でおぞましい、濁った黒色である。
そして目だけが、暗黒の中で、鈍く、緑色に光っていた。
それが、匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせ、涎を垂らしながら、暗闇の中から近寄ってくるのだ。
(――え!? 何!? 何なの!?)
和花は混乱していた。
恐ろしいのに、逃げ出すことができない。
口が乾き、皮膚が泡立ち、心臓がばくばくと跳ね回る。
まぁ、無理もないだろう。親友と遊んだ帰り道に、見た事もないような怪物が現れるなど、誰が思うだろうか。
チラリと隣に目をやれば、いつも冷静な琴音も顔を強張らせていた。
そんなことに、不謹慎ながらちょっとだけ安心してしまう和花。
だが、そんな現実逃避じみた思考をしている余裕は、即座に消え失せた。
和花は、見てしまったのだ。
目の前の怪物が、立ち止まったままの二人を見つけた途端、嬉しそうに口を歪めたのを。
嗤っている――!
「――ッ! 走れ、和花ッ!」
琴音が和花の腕を引いて、焦ったように叫ぶ。
ニンマリと嗤った怪物が、長い四肢を使って、猛然と駆け出したからだ。
鈍重そうな見た目とは裏腹に、まるで獲物を見つけた猛犬のような動きだった。
この場合の獲物とは、もちろん、和花と琴音のことだ。
もちろん、走って逃げようと試みた和花だったが、上手くいかなかった。
怪物の鈍く光る目を見た途端、射竦められたように動けなくなってしまったのだ。
動かない和花の腕を焦れたように琴音が引っ張るが、身体が言うことを聞いてくれない。
怪物の巨大な口が、とうとう目の前に迫ってきた、その時である。
……――ドンッ!
和花の身体が、横合いから突き飛ばされる。
他ならぬ、親友の手によって。
一瞬だけ、和花は琴音と目があった。
いつものような、揶揄うような目。その口元は、こんな時だと言うのに、微かに苦笑している。
ばーか、と、小さく口が動いた。
そして、そのまま。
突進してきた怪物に跳ね飛ばされて。
琴音の身体が宙を舞った。
尻餅をついた和花の視線の先で、琴音の身体が地面に叩きつけられるのが見えた。
落ち着いた色合いの青い傘が持ち主を失って、冷たいコンクリートの上を滑って、転がっていく。
「――いやぁぁぁぁぁぁッ! 琴音ぇぇぇぇぇぇぇッ!」
和花は絶叫したが、彼女は返事をするどころか、身動きひとつしない。
ぐったりと力の抜けた彼女の身体の下から、じわりと血が広がっていくのが分かる。
急いで傘を放り捨てて駆け寄った和花だったが、下手に身体を動かすことも躊躇われた。
結局、和花は、雨に打たれ徐々に熱を失っていく親友の身体に、縋り付くことしかできなかった。
私のせいだ。
私が愚図だから。
私が無力だから。
私のせいで、琴音を、失ってしまう。
背後では、琴音を跳ね飛ばした化け物が戻ってきたのか、荒い息遣いが聞こえた。
地面にしゃがみ込んでいる和花の小さな身体が、すぐ後ろまで迫ってきている巨大な怪物の影に隠れる。
怖い。
口の中が干上がるような感覚。
恐怖に身体が竦み、何もかもを諦めてしまいたくなる。
視界が恐怖と涙に歪み、呼吸が乱れる。
だが――同時に。
すぐそばで倒れている、琴音の姿が目に入った。
大好きな、和花の親友。
最後の瞬間にも、身を挺して和花を守ってくれた。
琴音のことを想うと、彼女の萎縮しきった身体にも、わずかに勇気が湧いてくるのを感じる。
――そうだ。
琴音を、守るんだ。
自分にとっては、世界で一番大切な友達なんだ。
ぜったい、奪わせて、やるもんか――!
和花はほとんど無意識的に立ち上がると、両手を広げ、怪物の前に立ち塞がった。
歯を食いしばり、キッ! と目の前のおぞましい怪物を睨みつける。
恐怖から息を最後まで吸えないのか、呼吸は浅く、荒い。
奥歯がカタカタと鳴らしながら立つ和花が、無理をしているのは明らかだ。
諦めたわけではない。
それに、戦って勝てると考えているほどバカでもない。
ただ、側から見れば愚かな行動だろう。
14の小娘に何ができるのかと、笑う者もいるだろう。
合理的に考えれば、ここは琴音を置いて逃げる方が正しい。
怪物が「食事」をしているうちに逃げれば、助かる可能性があるからだ。
しかし和花はそうしなかった。
否、そういった選択肢が、そもそも頭に浮かぶことすらなかった。
実際のところ、和花の行動は反射的なもので、そこに理屈や打算は存在しなかった。
彼女はただ、琴音を、自分の大切な人を、守りたいと思っただけだ。
「させないよ」
和花は言った。
例え目の前の化け物に伝わっていなくても構わない。
これは宣言だ。
「琴音は、私が守るから。……絶対に、ここは、通さないッ!」
だが、現実は非常である。
どんなに健気に立ち向かったとしても、助けなど来はしない。
怪物は、そんな和花のなけなしの勇気を嘲笑うかのように、彼女の華奢な身体を、その巨大な腕で薙ぎ払った。
直後、人気のない路地に、甲高い、苦痛に満ちた絶叫が響き渡った。
肉がひしゃげ、ぐしゃりと潰れる音がする。
傷口からは血が噴き出して、雨に濡れた地面を汚した。
痛みに悶え、苦しげにジタバタと悶える哀れな姿は、どこか叩き潰された昆虫を思わせる。
そんな、あまりに無残で、惨めな「怪物の」姿を、「和花は」驚きとともに見下ろしていた。
「…………ぇ?」
和花は何もしていない。
何もしていないと言うより何もできなかったのだが、怪物から目を逸らさなかったお陰で、何が起こったのかははっきりと見えていた。と言っても、和花自身にも理解はできていなかった。
何せ、殴りかかってきた怪物の腕が、和花に触れる直前で、勝手に弾け飛んだだけだったのだから。
しかし、その瞬間、自分の中から「何か」が噴き出したような、不思議な感覚があったことだけは覚えていた。
一方、怪物はというと、しばらく地面に倒れてもがいていた。
それから、ゆっくりと起き上がると、後脚をたわめ――和花目掛けて、一気に飛びかかった。
それは、およそ片腕を失った生き物の動き方ではなかった。
まるでプログラミングでもされているかのように、執拗に和花を殺すことにこだわっているかのようだ。
突然のことに戸惑ったままの和花は、今度も反応することはできなかった。
そして――直後に起こったこともまた、先ほどの再現となった。
和花の身体から噴き出した不可視の何かが、彼女を守ったのだ。
ただし、先ほどとは異なる点が一つだけ。それは、吹き飛んだのが怪物の頭だという点である。
制御を失った胴体は、ぐらりと揺れた。
そして、そのまま鈍い音を立てて、コンクリートの上にどうと倒れる。
(死んじゃったのかな……)
下手に近寄ることもできず、おっかなびっくり様子を見ていると、目の前で不可思議な現象が起きた。
驚くべきことに、異臭を放ちながら、怪物の死体がドロドロと溶け始めたのだ。
見る見るうちに死体は雨に押し流され、数秒ののちには、周囲に怪物の痕跡は一切無くなっていた。
「……なに、今の……? ――ッ! え!? い、痛い!!」
呆然としている暇はなかった。
自分の腕が燦然と桜色に輝き出すや否や、猛烈に痛み出したのである。
腕というよりも、手。
より詳細に言うなら、右手の甲だ。
その痛みたるや、昔ジャングルジムから落ちて足にヒビが入った時の痛みや、うっかり転んで頭を切って三針縫った時の痛みなどとは、比べ物にならないほどの、激しい苦痛だった。
まるで、手の甲にナイフで何かを刻み付けられているようだ。
腕が発光するなどというあり得ない光景が、思わず些事に感じるほどの激痛に、和花は思わず自分の手を抱えて、その場に倒れ伏した。
短時間のうちに極度の恐怖と緊張に襲われ、そして解放されるというイベントは、中学2年生にはあまりにも重すぎる経験だった。加えて、次から次へと起こる非現実的な事象の連続に、和花の心のキャパシティは、既に限界を超えていた。
だが、混乱の極みにありながらも、自分の親友のことだけは忘れていなかった。
痛みと疲労とに漂白されつつある意識の中で、わずかな感覚だけを頼りに琴音のそばまで這っていった和花は、そっと親友の手を握ったまま、意識を失った。
すぐそばで、誰かの声が聞こえたような、そんな気がした。




