第十六話 朝食
「おっはよー! 今日もいい天気だね、ルーナ!」
「……朝っぱらからウルサイわね。そんな大声出さなくても聞こえてるわよ。……おはよう、ノドカ」
起きてすぐ元気いっぱいに挨拶する和花を見て、ルーナは顔を顰めながら句を言った。
とは言え、別に本気で嫌がっているわけではない。
その証拠に、いかにも面倒臭そうに対応しつつも、小声で「おはよう」と言った時のルーナの顔は、少し赤くなっている。
彼女にとって、和花は特別な存在だ。
これまでルーナの周りには、ルヴィを始めとして、歪んだ人格の持ち主しかいなかった。
そこで育まれるのは、利害でしか結びつきの無い、冷淡で殺伐とした関係性。
常にお互いの足を引っ張り合い、時には殺し合うことさえあった。
彼女たちと仲良くするなど、ルーナにとっては当然あり得ないことだったのである。
だが和花は違う。
確かに「世界を救う」ために一緒にいるけれど、それでも二人は対等な関係だと言える。
昨晩のように、人の温もりを感じながら、寝首を掻かれることを心配せずにぐっすりと眠ったのは、ルーナにとって生まれて初めての経験だった。
だからこそ、和花とは仲良くなりたい……と、ルーナも思っている。
彼女は口が悪いが、決して悪い子ではないのだ。
挨拶もきちんと返しているあたり、命の恩人である和花のことも、憎からず思っているのが分かる。
素直に好意を口に出すことは、未だできないけれど……。
彼女が成長すれば、あるいは出来る様になるのかもしれない。
だが、そんなルーナの複雑な心情になど、和花はこれっぽっちも気づいていなかった。
「さーて、今日の朝ごはんは何だろなー」
それどころか、このように朝食のことで頭がいっぱいなのだった。
実に呑気である。
和花は朝に強い。
と言うよりも寝起きに強いのだ。
具体的には、朝食からカツ丼をペロリといけるようなタイプである。
しかもお代わりする。
ちなみに、和花の親友である琴音は、朝は低血圧のため機嫌が悪く、せいぜいコーヒーくらいしか口にできない。
何とも対照的な二人である。
まぁそんなわけで、頑張って勇気を出して挨拶したルーナが当たり前のようにスルーされ、ちょっとだけ不機嫌そうな顔になっていることにも、彼女は全く気づいていなかった。
ふんふんっと調子っ外れな鼻歌を吹きながら、和花はルーナに話しかけた。
「ルーナは何か食べたいものある? やっぱりお魚?」
「もう! 私はネコじゃ無いって言ってるでしょ!」
「あ、そっか。妖精さんだもんね。……あれ? でも、妖精って何を食べるんだろ?」
「……何でもいいでしょ! それより、急がなくていいの? どっか出かけるんじゃないの?」
「――あっ! やっば! い、急いで朝ごはん食べてくる! ちょっと待っててね!」
ルーナに言われて、慌ててバタバタと一階へ降りていく和花。
その彼女の背中を、ルーナはため息をつきながら見送った。
「……はぁ。あの子ったら、本当に世界の衛り手なのかしら……。今更ながら自信がなくなってきたわ……」
***
「おはよー、お母さん! ……うわぁ、いい匂い!」
「あら? おはよう和花。今日は早いのねぇ」
慌ただしく階段を降りた和花は、キッチンにいた母――穂乃果に声をかけた。
穂乃果はテレビ局で働いている。
報道関係の部署ではないが、若くして広報課の主任を務めている彼女は、局内での評価も高い。
しかし、同時に多忙であるため、夜はかなり遅くまで職場に残って働いている。
そんな穂乃果であったが、娘である和花のために、朝食だけは一緒に摂るようにしていた。
平日だとなかなか和花と顔を合わせる機会もないため、彼女はこういう機会を大切にしていたのである。
和花もその辺りは心得ていて、彼女もまた、こういった母との時間を大切にしていた。
ちなみに、国家公務員である父親は、今は離れた場所にある社宅で暮らしているため、母親以上に和花と会う機会が少ない。しかし、和花の誕生日や、母との結婚記念日といった日にだけはしっかり定時で上がり、例え夜遅くになっても、お祝いに駆けつけてくれるのだった。
過ごす時間は少なくとも、和花は家族にたくさんの愛情を注いでもらっており、そのことは和花自身もしっかりと分かっていた。だからこそ、これほどまでに純粋に育ったのかもしれない。
ともあれ、穂乃果に普段ギリギリであることを遠回しに指摘された和花は、思わずぎくりとしながら返事をした。
「ま、まぁね! いつまでも遅刻ギリギリじゃいられないし!」
……和花は、今朝は早起きしたわけではない。
実のところ、昨日ルーナの話を聞いてからうまく寝付けなくて、ほとんど徹夜みたいな状態なのだった。
彼女は呑気ではあるが、流石に「異世界から魔族が攻めてくる」だとか「世界を救えるのは自分だけ」と言った話を聞いて健やかに眠れるほど肝が太いわけではない。
緊張の糸が切れたように眠るルーナのことを撫でながら、ひとり悶々としていたら朝日が昇っていたのだ。
結局、朝方になって少しだけ眠ることが出来たものの、今の彼女は徹夜明けテンションなのだった。
「……あらそう? 最近、元気がなかったから、心配してたのよ。……あっと、いけない。今フレンチトースト焼けたから、ちょっと待っててね!」
「はーい!」
和花は、朝食はしっかり食べるタイプだ。
寝不足とはいえ、彼女の食欲が減退すると言うことはない。
それも、今日の朝食は和花の好物であるフレンチトーストである。
決して食べ逃すわけには行かないのだった。
待っている間に、先に母が準備してくれていた牛乳をコップに注ぎ、ごくごくと飲み干す和花。
しかし、直後にキッチンから現れた母の姿を見て、和花は思い切り牛乳を吹き出した。
「ぶふぅーーっ!」
「やだ、和花ったら! いつまで経っても子どもねぇ」
「な、な、な……!」
目を見開いたまま口からポタポタと牛乳を垂らしている和花。
そんな彼女のことを呆れたように嗜める母であったが、和花の視線は穂乃果の少し上を向いていた。
具体的には、穂乃果の頭上。
そこには……。
『……全くもう、ノドカったら。本当にアンタは落ち着きないわね』
「なんでルーナがいるのぉ!?」
そう、母親の頭の上では、さっきまで和花の部屋にいたはずのルーナが寛いでいたのだ。
「……ルーナ? ……って誰? 和花ったら、いつまで寝ぼけてるの? 早く食べちゃいなさい」
「えぇー……?」
ルーナは小柄ではあるが、一般的なイエネコくらいのサイズはある。
そこそこ大きいし、それに重量だって少なく見積もっても2〜3キロはあるはずだ。
少なくとも、頭の上に乗っけたまま平気でいられるほど軽くはない。
それどころか、穂乃果はルーナという存在を認識すらしていないようだった。
さっきもルーナが和花に話しかけていると言うのに、反応ひとつ見せなかったのである。
至急、現状説明を求めた和花が目線で抗議すると、ルーナはぴょんと穂乃果の頭上からとび降り、テーブルの上で丸くなった。
『今の私は、ノドカにしか認識できないようになっているの。誰も私の存在に気付かないし、声も聞こえない。だから心配いらないわ』
「何それ!?」
「こらっ! 和花、朝ご飯は座って食べなさい。それから、大声で騒がないの」
「……うぅ……。 は、はい……」
思わず和花は大声を出して立ち上がってしまい、再び母に嗜められることになってしまった。
しょんぼりと自分の椅子に座り直す和花のことを、ルーナは残念なものを見るような目で見た。
『常識ないのね、ノドカって』
「――ルー……ッ!? る、るんるんる〜♪」
思わず「ルーナが言うな!」と叫びかけていた和花は、穂乃果が厳しい目線を向けてきているのを察知して、慌てて鼻歌で誤魔化した。いや、全く誤魔化せてはいないのだが、少なくとも穂乃果はそれ以上追求する気を無くしたようで、キッチンに戻って自分の分のフレンチトーストを焼き始める。
キッチンの奥に母親の姿が隠れるのを見届けた和花は、話をしているのを見られないように顔をルーナに近づけ、小声で彼女を問い詰めた。
「……なんなの、これ! どうなってるの!」
『もう、だからさっき言ったじゃない』
「ぜんぜん分からないよ! 説明して!」
いきなり至近距離から和花に顔を覗き込まれたルーナは、ルーナがたじろいだように視線を彷徨わせる。
彼女は、少しだけ顔を赤くしながら和花に説明した。
『わ、分かったわよ……。魔族は、それぞれ固有の能力を持ってるの。例えば、昨晩戦ったルヴィは、【炎】を自在に操るわ。そして、私の固有魔法は【幻想】。私の存在そのものをトリガーにして、相手の知覚や認識をある程度コントロールできるの。これに私の得意な結界術を組み合わせて、自身の存在を隠蔽する極小の繭のようなものを創り出しているってわけ。……分かった?』
「ふむ、なるほど。……なるほど?」
全然ピンときていない和花にジト目を向けたルーナは、小さくため息を吐きながら言った。
『まぁ、今の私は透明人間みたいなものだとでも思えばいいわ。今は和花にしか見えない状態ってこと』
「なーんだ! 透明人間ね! それなら分かったよ。最初からそう言ってくれれば良いのに!」
『…………まぁ良いわ。……ねぇ、これ貰っていい?』
さっきまでよりもジト目の湿度が上がっているルーナのことを不思議に思いながら、和花は要望通り彼女の分のフレンチトーストを切り分けてやった。もちろん、メープルシロップをたっぷりかけてあげることも忘れない。
ちょっと贅沢であるが、和花はこれが大好きなのだ。ちなみにカロリーのことは、今は考えないものとする。
フォークでフレンチトーストを一切れルーナの口元に運んでやると、ルーナは少しだけ顔を赤くした。
それを見た和花が首を傾げると、彼女はぎゅっと目を瞑って、はむっとトーストを頬張る。
「どう? ルーナ、美味しい?」
「――ッ!?」
突如として、ルーナの動きが止まった。
カッ! と目を見開いたまま、まるで痙攣でもしているかのように、プルプルと小刻みに震えている。
「る、ルーナ? 大丈夫?」
明らかに尋常ではないルーナの様子を見て、心配になった和花が声をかけるも、ルーナは反応しない。
魔族……妖精であるルーナは、本来この世界の住人ではない。
もしかして、フレンチトーストの成分の何かが、彼女にとって良くないものだったんじゃ……などという不安を和花が感じ始めた頃、ようやくルーナが口を開く。
『…………お』
「お?」
『――美味しいっ! なにこれ! なにこれっ!?』
これまで、どちらかといえば澄ました態度をとっていたルーナが、まるで子どものように目を輝かせている。
そんな彼女の姿を見て、和花は驚きつつも思わず笑顔になった。
和花は、ルーナがちょっとだけ素の姿を見せてくれたことが嬉しかったのだ。
「フレンチトーストって言うんだよ。もしかして、食べたことなかった?」
和花が微笑んでいることに気付いたルーナは、再び微かに顔を朱に染めつつ、大きくごほんと咳払いをした。
「――ええ、食べたことなかったわ。リ・ヴァースには、石みたいに硬いパンとか、臭くて筋張った動物の肉ぐらいしか無かったもの。まともに食べられるのは、ごくごくたまに下賜される干した果物ぐらいね」
「そう、なんだ……」
さっきまで微笑ましい気分だった和花のテンションは、ルーナの話を聞いて少しだけ落ち込んでしまった。
ルーナたち魔族は、和花たちのいる世界――ライト・ヴァースを侵略しようとしていると言う。
もちろん、それは許されることではない。
許されることでは無いけれど……それでも、魔族たちの境遇を考えると、和花は彼女たちのことを、一概に“敵”だと断ずることはできない気がした。
もし、立場が違ったら?
そう、仮に……自分がリ・ヴァースに生まれていたとしたら、どうなっていたのだろうか?
考えても仕方のないことではあるが、そんな取り止めもないことを、つい彼女は考えてしまったのだった。
そんな和花の様子を見たルーナは、ふん、と微かに鼻を鳴らしながら言った。
「そうやってアンタはすぐに落ち込む……。……要らないなら、私がいただくわね?」
「――あーっ! ちょっ、待……っ!」
直後、皿の上からフレンチトーストを掻っ攫おうとするルーナと、それを死守すべく奮闘する和花との間に、熾烈な攻防戦が勃発する。
一人と一匹の大人気ない争いは、自分の分のフレンチトーストを用意して食卓に戻ってきた穂乃果が、一人で大騒ぎしている(ように見える)和花にカミナリを落とすまで続いた。
……和花は、朝食を食べ損ねた。
ついでに、げっそりする彼女の近くで鼻歌を歌うルーナの顔は非常に満足げだった、とだけ言い添えておく。




