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幸せなんてただの非日常よ

翌朝、校庭に出ると霧が出ていた。

まるで世界が起きるのを忘れたみたいに。

 グラウンドの真ん中、ゆらぎが地面に何かを突き刺していた。


「おはよう、ちょっと待ってて。ここ、今整えてるところ」


ゆらぎの手には大きなスコップ。

彼女は円を描くように、丹念に地面をならしていた。

その円の中心には、まだ乾かない湿った土が盛られている。

ピッチャーマウンドだ。


「昨日の夜、ずっと考えてたの」

「うん」

「甲子園のマウンドって、赤土なんだって。色、違うでしょ?」

「だから混ぜてみた。校舎の裏の花壇の土とグラウンドの砂」

「天才か!?」

「えっへん!」

 グラウンドより僅かに高くなったその中心はこの敷地を越えて、今、僕たちの世界の中心になった気がした。


「ゆらぎ」

「ん?」

「どうして、そんなに甲子園に行きたいの?」


その問いは、風に紛れて消えてしまいそうなほど小さかった。

けれど、彼女はすぐに答えた。


「ヒミツ、」

彼女は手を止めて、唇の前に人差し指を突き立てそう言ったあと少しだけ空を見上げた。

「夢を見たの、ルールなんてわかんないけど私はモニターを見てて、誰かが野球しててさ、ボールを投げて、打って、喜んたり、泣いたり」

「それ、昔の記憶?」

「わかんない」


ゆらぎは笑う。その笑顔は、どこか遠いものを見ているようだった。


「でもね」

「うん」

「この世界に夢を残しておきたいの。誰もいなくなっても、風が吹けば思い出すような」


 僕は何も言えなかった。

ただ、彼女が作り上げたマウンドを見ていた。

その真ん中に立つゆらぎの姿はこの穏やかで何も無い世界では比喩ではなく神そのものだったように感じた。

 しばらくして、風が吹いた。

白い霧が少しずつ晴れていく。

空の色が戻り、遠くの街並みが姿を現した。

けれどその街は、いつもと少し違って見えた。

たぶんちょっとした違和感だろうと思いつつも彼女も同じ気持ちになるだろうと思い込み声をかけた。


「ゆらぎ、あれ」

僕が指さすと、彼女は一瞬だけ目を伏せた。


「見ちゃダメ」

彼女は僕の側へ駆け寄り、僕の視界を両手で塞いだ。

その瞬間、風が止まり、世界が静かになった。

彼女の手はあの豪速球を投げたとは思えないほど柔らかく、内心このまま抱きしめてはくれないだろうか、とそんな考えが僕の頭をかすめた。

ゆらぎは深呼吸をして、僕を見た。


「ほら。何も変わってないでしょ?」

「うん」


そう答えながらも、僕の胸の奥には小さな違和感が残っていた。

たぶん、気のせいだ。

いや、気のせいじゃないのかもしれない。

でも、それを言葉にすることが怖かった。


その夜。

部屋の窓から見える街灯が、一つ、また一つと消えていくのを見た。

音もなく、まるで電力が尽きていくように。


「ゆらぎ、、」

名前を呼んでも、返事はなかった。


机の上には、手書きのメモが置かれていた。


「明日!午前9時!試合開始!私が投げて君が打つ!!」


その文字の筆跡は、少し震えていて、お世辞にも上手とは言えないが女の子らしいかわいい文字だった。

そして、それは不安のような、寂しさのような、そんなものを纏っているように感じた。


ありがとうございます

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