勘違いで俺に惚れた幼馴染みが一途すぎる
「あなたのことが大好きです。私と付き合ってください!」
目の前で、女の子にそんなことを言われた。
その女の子のことはよく知っている。同じ高校に通っている同級生であり、名前は朝日朱莉。クラスは2年2組、出席番号21番。
宝石のように輝く碧色の瞳。白雪のように柔らかく真っ白な肌。絹のように滑らかで光沢のある栗色の長い髪。誰もが圧倒されるほど整った容姿は、学年でもトップクラスと謳われる。さらに性格は明るく社交的と周囲に絶賛されているという。
もし、このような完璧美少女に告白されたとしたらどう返事するだろうか?
俺? 俺はもちろん……。
「断る」
当たり前だ。OKするとでも思ったか?
彼女と付き合うつもりは毛頭ないし、付き合いたいと思ってもいない女子からの告白を受けてOKするほど俺は恋愛に飢えていない。
「そう…………」
返事を聞いた彼女は、綺麗な目を伏せて悲しそうにそう呟いた。
まあ容姿端麗な彼女のことだ。言い寄ってくる男などたくさんいるだろう。その中には、平々凡々な俺なんかよりマシな人間が山ほどいるはずだ。
だから俺のことなど気にせず、気分さっぱり諦め、もっと良い男と付き合って幸せになって欲しい。
程なくして、彼女は顔を上げる。そして、口を開いて放った言葉はこうだった。
「やっぱり今日もダメだったかあ……。次はどうアプローチしようかなあ」
……やはり今回も諦めない、か。
そう。こいつからの告白はこれが初めてではないのだ。
「全く。何回振られたら諦めてくれるんだ」
「真也こそ! 何回告白したら振り向いてくれるのよ~……」
しかも2度目、3度目とかでもない。正確に数えているわけではないが、何百回目とかの次元だ。
「いつも言ってるだろ。何回告白されようが、俺はお前と付き合うつもりはない」
「そ、そこまではっきり言わなくても……。でもこっちだって何回振られても諦めるつもりないもんね!」
「正気かお前?」
「うん! だって真也のこと大好きだもん!」
「はあ」
思わずため息がでる。
こうやって強く突き放してもこの反応。つまりこいつは俺が何を言おうが、何回振ろうが構わず猛アタックを仕掛け、告白し続けてくるのだ。
もう少し詳しく説明しよう。俺こと夜月真也にとって、朝日朱莉は昔からの知り合いである。いわゆる幼馴染みというヤツだ。
かつて何を血迷ったのか朱莉は、小学生の頃初めて俺に告白してきた。
俺はそれを受け入れなかった。冷たいようだが、理由は今と変わらない。彼女と付き合う気はなかったからだ。
しかし、ここからが問題だった。なんと彼女は『真也くんが振り向いてくれるまで諦めないから!』と言って翌日、再度告白してきたのだ。
そのときは本当に度肝を抜かれた。振られた次の日にもう1度告白してくる人間が目の前にいるだなんて、信じられなかった。
当然俺は再度振った。1日で心変わりなんてするはずもないからな。
だが彼女はそれでも折れなかった。めげずに何度もアタックしてきては、告白してきた。そして俺もしょげずに何度も振ってきた。それが何日も、何カ月も、そして何年も続いていった。
こうして現在。高校2年生になってもそれが続いているというわけだ。
どうだこの話、くだらないだろう?
「ったく。何故そこまでして俺を振り向かせようとするんだ」
「もう、さっきも言ったでしょ? 真也を愛しているからよ♪」
彼女はここぞとばかりにドヤ顔をする。恥ずかしげもなく、堂々とそんなことを言われてもな。
だいたい、何百回と告白されても冷たく突き放すような男のどこが好きなんだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
翌日の朝。俺は登校しようと玄関で靴を履き、扉を開ける。
ガチャリ……。
「おはようダーリン♪」
するとその先には、待ってましたと言わんばかりに俺を迎える朱莉の姿があった。
このように、玄関先に朱莉がいることは日常茶飯事だ。ちなみにアポなし。言わば絶対避けることのできない待ち伏せだった。
いつか不法侵入で通報しようかな。玄関前とはいえ一応敷地内だし。
しかも普段は俺のことを『真也』と名前で呼ぶくせに、何故か今日は『ダーリン』になっている。誰がダーリンだ。
「はいはい、さっさと学校に行くぞ」
相手にすると確実に面倒なことになるので、早歩きで学校に向かう。
「待ってダーリン! 私、いつもと違うところがあるんだけど分かる?」
シュバッと俺の前に立ちふさがり、両腕を広げて通せんぼする朱莉。くそ、結局面倒なことになりそうだな……。
「ダーリンって呼んでるところか」
何を意図してそう呼ぶのかは知らんが、断言しよう。バカとしか思えないぞ。
「それも確かに違うけど! もっと見た目的な部分で変わったところあるでしょ!?」
「分からん。俺、前髪1センチ切ったとか言われても気付かないタイプだから」
あとシャンプー変えたとかも分からん。だいたい人の頭の匂いをいちいち覚えてる方がおかしいだろ。
「も~、そんな些細な変化じゃないもん! もっと大々的に変わってるもん!」
「はいはい」
駄々をこね出したので、仕方なく見て見ぬふりをしていたところに目を向ける。これ以上うるさくされると近所迷惑になりそうだからな。
「巻き髪してるところか」
「せいかーい! えへへ、やっと気付いてくれたわね!」
そう言って朱莉は、オシャレに巻いた長い髪をファサっと靡かせた。
「そりゃ、そんな露骨な変化誰でも気付くだろ」
普段のこいつは真っすぐ伸ばしたロングヘアーだ。嫌でも分かる。
「むーっ、そういう割にはすぐリアクションしなかったじゃない!」
「そんなしょーもないこと、気付いてもわざわざ言うかよ」
「し、しょーもないこと!? 折角イメチェンしたのに、ひどいわダーリン……」
よよよ、と泣いたふりをして悲しむ素振りをする朱莉。すぐ髪型について触れたら喜びそうだったからな。そんなヘマは犯さない。
「んじゃ、正解したことだし行くぞ」
「待ちなさいダーリン! 何か感想はないの?」
「……何のだよ」
通せんぼされている感想なら『超うざい。早くどいて欲しい』だが。
「もちろん、髪型の感想に決まってるじゃない!」
「ない。ほら、早く行かないと遅刻するぞ」
「もう、いじわるなんだから~。……それでも大好きだけど♪」
いじいじと拗ねながらも、朱莉はすぐに立ち直ってどいてくれた。さすがのこいつも遅刻の危険を冒してまで引き留めるようなことはしないらしい。
俺は学校へ向かって歩き出し、朱莉の前を通り過ぎた。
「……今回は結構自信あったんだけどな」
すれ違う瞬間に何やら朱莉が悲しそうにボソッと呟いていたが、聞こえないフリをした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
午前の授業が終わり、昼休みになる。朝だけでなく、昼も朱莉のアプローチは止まらない。
キーンコーンカーンコーン。
ガラララッ
「真也~! 一緒にご飯食べよ!」
我らが2年1組の教室の扉を勢い良く開けて、朱莉が入ってくる。
彼女は2組なのでクラスが違うのだが、毎回こっちの教室に来る。しかも昼休み開始のチャイムとほぼ同時くらいの早さで。
直前まで授業を受けているはずなのに、どうしてそんな芸当ができるのかいつも疑問に思う。
「隣座っていい?」
「勝手にしろ」
「へへ、ありがと! 優しいのねダーリン♪」
「…………(無視)」
機嫌良さそうに空いていた隣の席に座る朱莉。素直に隣の席を渡す理由は、どうせ断っても座ってくるからだ。
ちなみに隣の席の主である生徒も忙しないヤツで、昼休みになると同時に食堂へと走っていった。
聞いたところによると、何やら食堂では数量限定のおにぎり争奪戦が繰り広げられており、そいつは毎日参戦しているらしい。おにぎりなんか争奪してないで自分で作ってくればいいのに。
「今日はなんと、サプライズがありまーす!」
「ふーん」
「うわ、興味なさそうね……。でもそうやって澄まし顔でいられるのも今のうちよ、ジャーン!」
そう言って彼女は、布に包まれた四角い物体を机の上に置いた。ビックリ箱でも用意したのだろうか。
「テッテレー、真也のために作ったお弁当~! もちろん私の手作り。愛情たっぷりよ!」
「へえ」
四角い物体を包んでいた布を朱莉が取りほどくと、そこにはピンク色の弁当箱があった。
自作弁当か。そういえば今まで、こいつが手料理を作ってきたことはなかったな。
「どう? 食べたいでしょ?」
「別に(もぐもぐ)」
「ちょっと!? 何勝手に自分のお弁当食べ始めてるのよ!」
箸を持っていた右腕を朱莉に掴まれ、食を妨害される。自分で用意した弁当を食って何が悪いと言うんだ。
「手を離せ。弁当は自分のを食べるしそれで十分だから」
「やだね! ほら、あーんしてあげるから私のも食べてよ! はい、あーん」
そう言って、空いている方の腕であーんしてくる。公衆の面前であーんなんて恥ずかしい真似よくできるなこいつ。
「させるか!」
ガシッ!
当然あーんなんて何が何でも避けなければならないので、対抗して差し出される朱莉の腕の手首辺りを左手で掴む。よって取っ組み合いのような状態になった。
よく考えたらこの状況も十分醜態と言えるが、あーんより100倍ましだ。
「おいコラさっさと右腕から手を離しやがれ……! そうしたらお前の左腕を離してやる……!」
「嫌よ! 私の弁当を食べてくれるまで離さないんだから……!」
「くっ……!」
いくら振りほどこうとしても、朱莉の手は一向に離れない。なんて怪力なんだ……!
あ、待てよ。腕が使えないんだったら、使わずに食べればいいじゃないか。
「ふっふっふ。この勝負、もらったぞ朱莉!」
「な、何をする気なの!?」
驚くがいい。俺が思い付いた素晴らしい作戦を見てな!
「うおおおお!! 秘技、ドック・スタイル!!」
そう叫んだ俺は自分の弁当箱に向かって顔を埋めるように近づけ、入っているおかずに直接かぶりついた。
どうだ、これならノーハンドでも食べられる。画期的で素晴らしい作戦だ。
「ドック・スタイル……! なんて汚くて、行儀の悪い食べ方なの……」
何だか驚くを通り越して若干引かれている気もするが、気にしないことにしよう。俺はかまわず、むしゃむしゃと食べ続けた。
「そこまでして自分の弁当を食べたいのね……。分かった、私の負けよ」
「モグモグ……ん?」
いつの間にか右腕は解放されていた。俺も掴んでいた方の手を離す。
やれやれ、やっと諦めてくれたか。これでゆっくりと食にありつける。
朱莉はぶつくさと文句をたれていたが俺は無視して食事を再開した。
「……む~。ずっと前から練習して、やっと美味しくできたから持ってきたのに。食べてくれたっていいじゃん。真也のバカ……」
が、その時。朱莉の文句の一部であるこの言葉が耳に入ってくる。
ずっと前から練習してた、か。……俺にとってはどうでもいいことのはずなのに、何故か耳に残った。
半ば無意識に、隣でいじけている朱莉の手を横目でチラッと見る。
するとその指には、ところどころに絆創膏が貼ってあった。
……なるほど。少なくとも一生懸命料理の練習をしたことは確かなようだ。手が絆創膏だらけになるぐらいには。
何でそこまで俺のために頑張れるんだよ。どんだけ一途なんだ。
「朱莉。やっぱその弁当食べたくなったからくれ」
気が付くとそう口走っていた。何故こんなことを言ったのかは自分でもよく分からなかった。
「え? でもさっき自分の食べるからいらないって」
「よく考えたら自分のだけじゃ足りないと思ってな。育ち盛りだから」
適当すぎる言い訳をする。俺は大食いではないので弁当2つは正直キツイが、もう食べると言ってしまったので今さら引くわけにもいかない。
「それじゃあホントに食べてくれるの?」
「そう言ってるだろ」
しかし我ながらなんて傲慢な理由だろう。さっきまでいらないとか言ってたくせに、足りないからやっぱ食べるだなんて。
「やったー!! えへへ、頑張って良かった……!」
それでも朱莉は心底嬉しそうに笑顔を浮かべた。俺に弁当を食べてもらえるという、ただそれだけの理由で。
食べてもらえさえすればいい、その理由なんてどうでもいいと言わんばかりの喜び様だった。
何でそんなに喜べるんだ。そこまで好かれるようなことをした覚えはないのに。
むしろ、嫌われるようなことをした数の方が多いかもしれないのに。
「じゃ、食わせてもらうぞ」
ええい、切り替えろ俺。こういうのは昔から深く考えすぎないようにしてきたはず。
「うん!! 好きなだけ食べてちょうだい!」
朱莉はルンルンと機嫌良く弁当箱を差し出した。パカッと中身を開けてみると、それはそれは美味しそうな弁当が詰められていた。ご飯の上に海苔で『スキ♡』と書かれていること以外は文句のつけようがない程、素晴らしい完成度を誇っている。いらないことしなけりゃ完璧だったのに。
「いただきます」
「はい、どーぞ♪ 未来の旦那様♪」
調子に乗る朱莉をよそに、弁当を食べる。うん、認めたくないが美味しいな。努力したのが伝わってくる。
ちなみに俺が弁当を食べている間、朱莉はその様子を楽しそうに見ていた。何がそんなに楽しいのやら。
「ごちそうさま」
そして30分ほどで完食する。2つ分の弁当を食べたので、さすがにお腹がきつい。
「おそまつさまでした、旦那様♪」
朱莉は空になった弁当を嬉しそうに片付ける。よほど調子に乗っているのだろう、未だに夫婦のロールプレイを続けながら作業していた。
相変わらずアホなヤツめ。でもまあ、お礼くらいは言ってやらないとな。
「朱莉」
「何ですか旦那様?」
「弁当、作ってくれてありがとな。美味しかったぞ」
「っ……!?」
お礼を言うと朱莉は急に顔を赤くし、明らかに動揺していた。
「どうした?」
「い、いや、嬉しすぎて……。まさか褒めてくれるなんて思わなかったから……」
今度はぷいっと顔を背けてしまった。挙動不審なヤツだ。
「じ、じゃあ私、そろそろ教室戻るから!」
「お、おう」
そして顔を真っ赤にしたまま、逃げ出すように教室を出て行ってしまった。
あいつ、どうしたんだ? ま、朱莉の思考なんて考えても分からんか。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
朱莉は朝、昼だけでなく、授業中もちょっかいをかけてくる。実に厄介だ。
クラスが違うじゃないかって? その通り。俺は1組、朱莉は2組なので、ほとんどの授業は朱莉に干渉されることなく普通に受けることができる。
ただし、例外があるのだ。
『n乗の式を展開するとき、nつまり次数が大きい場合は、二項定理を用います。二項定理とは……』
「ねえ真也。私、二項定理ってよく分からないの。教えて♪」
先生が説明している最中、朱莉が小さい声で話しかけてきた。
「今先生が説明してるだろうが」
「私は真也に教えてもらいたいの~!」
「知るか。あと授業中に話しかけるな」
そう。今受けているこの数学の授業こそが、その例外だった。
ウチの学校では数学の授業のみ、特殊な方法でクラス分けがされる。
そのクラス分けの方法とは、1、2組の生徒全員の数学の成績で決めるというもの。上位半分は1組、下位半分は2組といった組み合わせになる。
だから1組の俺と2組の朱莉でも、成績次第では一緒のクラスになる可能性があるということだ。
そして、結果は先ほど会話をしていたことから分かる通り、2人とも1組、つまり一緒のクラスになってしまった。朱莉のヤツ、一緒に授業受けれるからって無駄に勉強しやがって。
しかも不幸なことに、席まで隣になってしまったのだ。そのせいで毎回ちょっかいを出されるはめに遭っている。
「そんな冷たいこと言わずに教えてよ、真也~」
「…………」
「ん? おーい」
「…………」
「ねー聞こえてないのー? おーい!」
「…………」
俺は、朱莉の言葉をすべて無視することにした。そのうち観念して話しかけて来なくなるだろう。
「もう、ホントは聞こえてるんでしょ!」
『朝日。静かにしろ』
「あ、はい。すみません先生……」
声が大きかったのか、朱莉は先生のお咎めをくらう。ふっ、ざまあ見やがれ。これでもう無理に話しかけて来れまい。
だが安心するのはまだ早い。朱莉は会話ができなくなったぐらいで、アプローチを諦めるほどのタマではないのだ。
すると朱莉の席の方から、折りたたまれた小さい紙が机の上に飛んでくる。どうやらヤツからの手紙のようだ。会話ができない代わりに、手紙でやり取りをしようとしているのだろう。
だが残念だったな朱莉。お前からの手紙なんぞ、読んでやる義理はない。
俺は内容を見ることなく、グシャッと手紙を握りつぶしてポケットにいれた。
「む~……!」
頬を膨らませながらこちらを睨んでくる朱莉。かまってくれないから不服ってところだろうか。どうでもいいが、早く諦めて真面目に授業を受けて欲しい。
「…………!(あっ、そうだ! これなら真也もかまってくれる♪)」
「っ!?」
突然、背筋に悪寒が走る。何だろう、悪い予感がするな。
と思ったのも束の間、またしても隣から紙が飛んでくる。先程と同じく手紙だった。
しかし今度は折りたたんでおらず、紙の表面に書かれた状態だったので、何を書いているのか見えてしまった。
その紙には、大きな文字で『大好きだよ』と書いてあった。
こいつ……。よくもまあこんなド直球に書けるものだ。それだけ思ってくれているということなのだろう、しかし俺は、朱莉の想いに応えるつもりはない。
俺はその手紙も先程と同様、返事を書かずにポケットに入れてしまおうと手を伸ばした。すると、何やら手紙の右下部分に小さく文字が書かれているのを発見する。
ふむふむ、『返事を書かない場合は、この告白を受け入れたものとみなします♡』だと……! このアマ、ふざけたことを書きやがって!
危なかった、もう少しで握りつぶしてポケットにいれるところだった。
しかしこうなった以上、返事を書くしかなくなってしまった。朱莉のヤツ、考えたな。
くそ、仕方がない。ここは素直に返事を書くことにしよう。俺は『そーかよ』とだけ書いて、先生の目を盗んで手紙を朱莉に投げ渡した。
「…………♪(えへへ、返ってきた! 嬉しいな♪)」
朱莉は手紙が返ってきただけで喜んでいるようだった。何だよ、俺にかまってもらえるだけでそんなに嬉しいのか?
自分で言うのも何だが、こいつ俺のこと好きすぎるだろ。何でそこまで一途に想っていられるんだ?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
朝、昼、授業中ときたらもちろん、放課後にもヤツは現れる。最早怪奇現象だ。
「ダーリン♪ 一緒に帰りましょ!」
教室で帰宅の準備をしていると、朱莉が機嫌良さそうに誘ってきた。どんなに早く準備しても必ず現れるのだからタチが悪い。
「ふん、断ってもついてくるくせに。あといい加減ダーリンって呼ぶのやめろ」
「じゃあ、旦那様だったらいい?」
「ダメに決まってるだろ」
「え~。真也ったら、人妻プレイに飽きちゃったの?」
「妙な言い方をするな変態。飽きるも何も最初から頼んでない」
否定はしたものの、朱莉の発言によって周囲がガヤガヤとザワつき始める。
『えーやだ~。夜月くんってば、朝日さんに人妻プレイなんかさせてるの?』
『くそ、どうして朝日さんはあんな変態男なんかを好きなんだ……!』
おい、何で俺がやらせてるみたいになっているんだ。朱莉が勝手に言っているだけだというのに!
しかしここで俺が下手に弁論しては、余計に怪しまれてしまう可能性がある。仕方がない、早くこの場を去ることにしよう。
「朱莉、さっさと帰るぞ!」
「ああん、待ってダーリン~!!」
「やめろって言ってんだろその呼び方!」
ああ、これでまた誤解が広まってしまう……。しかし立ち止まって怒っている暇はない。
これ以上の風評被害を防ぐために、全力で校門へと向かった。
「はあ、はあ……!」
廊下を駆け抜けて数分、やっとの思いで校門まで到着する。教室からここまでってこんなに長かったか……?
「もうダーリンったら、そんなに急ぐことないじゃない」
「まだダーリン言うか貴様!」
「てへ、ごめんなさい♪ もうやめるね!」
舌を小さくだして、『てへぺろ☆』と謝る朱莉。もちろん、俺がイラッとしたのは言うまでもない。
ヤツを全力で殴り飛ばしてやりたくなる衝動に駆られたが、何とか思いとどまった俺は溜息をついて、帰り道を歩きだした。朱莉もトコトコと俺の後ろに着いてきているようだった。
「ねー真也、まだ怒ってたらごめんね……?」
歩き始めてから数分が経ち、気分が落ち着いてきた頃に朱莉が心配そうに尋ねてくる。
「別にもう怒ってねーよ」
変なところで気を使いやがって。何年も同じようなことされ続けてきたんだ、今さら長々と怒る俺ではない。
「ならよかった! 優しいのね、パパ♪」
「うんブチ切れていいか?」
くそ、ちょっと優しくしたらすぐ調子に乗りやがる。こいつには1回ガツンとキレてやった方がいいかもしれない。
「もー、冗談だってば……って冷たっ!? ……あれ?」
「雨降ってきたな」
ポツポツと雨粒が全身に降りかかる。最初こそ弱かった雨だが、勢いはどんどんと強まっていく。
「うわあ、天気予報じゃずっと晴れって言ってたのに!」
「たまにはこんなこともあるだろ。おい朱莉、ちゃんと折り畳み傘は持ってるんだろうな?」
「持ってないよ! 雨が降るなんて思わなかったし!」
「何だと!?」
ちぃ、女子力のないヤツめ。一応俺は折り畳み傘を持っているものの、さすがに1本しかない。
つまり、2人とも濡れないようにするにはアレをするしかない。そしてこいつはおそらく、それを提案してくるはずだ。
「そういう真也は持ってるの?」
「ああ」
「よかった! なら……」
やはりアレを提案する気か。そうはさせるか!
「言っておくが、相合い傘なんて御免だからな!」
朱莉の言葉を遮って忠告する。ふっ、これで相合い傘を封じることに成功しただろう。
「?」
対する朱莉は、よく分からないといった表情でポカーンと立っていた。もっとブーブーと文句をたれると思っていたが、予想外の反応だ。
「えっと、何だ? その不思議そうな目は」
「いや、何で急に相合傘の話になったの?」
「は?」
こいつは相合い傘がしたいんじゃないのか?
「てっきり、相合傘を提案してくるもんだと思ったんだが」
「別にしてなんて言わないわよ? そりゃあしてくれるなら嬉しいけどね!」
「ダニィ!?(訳:何ぃ!?)」
ということは、思い違いだったというのか。 だとしたら俺はただの勘違い野郎じゃないか。
「どうしたの真也? 急に顔を真っ赤にしながら小刻みに震えたりなんかして」
「い、いや、何でもない。俺はなんて自惚れ野郎なんだ……」
「??」
恥ずかしさに悶える俺を、朱莉は不思議そうに見つめていた。
「ていうか、傘持ってるなら早く差しなよ!」
「ん、ああ。そうだな」
朱莉の一言で我に帰った俺は、急いで鞄から折り畳み傘を取り出す。そこであることを思い出した。
「そういえばお前、俺が傘を持ってるって言ったとき何か言いかけてなかったか?」
俺の相合い傘封じ(笑)によって遮られてしまったが、何か言おうとしていたはずだ。
すると朱莉は一瞬困惑したような顔をした後、思い出したように答えた。
「え? ああ、大したことじゃないよ。傘持ってるなら、真也だけでも濡れないで済むから良かったねって言おうとしただけ」
「……!」
こいつ、俺の心配をしていたのか? 傘を持ってなかったら普通、自分が濡れないことを真っ先に考えるだろ。
「いいのか? 俺が傘を持ってるってことは、相合い傘をすればお前も濡れないで済むってことなんだぞ」
「真也は私と相合い傘したいの?」
「死んでもしたくないな」
「だよねー。なら、私もせがんだりしないわよ。真也が嫌がるワガママはしたくないもん」
何だそれ。俺が嫌がることを無理に頼むぐらいなら、ずぶ濡れになった方がマシってか。
「……ちっ、いつも迷惑なアプローチをしてくるくせによく言うぜ」
「あーひどいよー!! アプローチとワガママは違うもん!」
相変わらずどうしようもないぐらいバカで、優しいヤツだ。自分よりこんな最低男のことを1番に考えているだなんて。
「でもどうするんだよ。このままじゃずぶ濡れだぞ?」
「うん、だからダッシュで帰ろうと思ってる! じゃあ行くね!」
そう言って朱莉は走り去ろうとしていた。マジで自分は濡れてもいいと思ってるのかよ。
いや、本当は分かっているんだ。朱莉がこういうヤツだということは。
自分より好きな人のことを大事にする、優しい女の子。それが朝日朱莉。そんなこと何年も前から知っていたことだった。
それに比べて俺なんか、こいつに好かれる価値も資格も無い男だ。それなのにどうして朱莉は、こんな一途に俺を想っているんだ?
……くそ、何だか胸が痛くなってきた。
「待て朱莉!」
「え、どうしたの?」
「ほら、これやるよ」
「へ、うわっ!?」
俺は朱莉を呼び止めて、手に持っていた折り畳み傘を投げ渡した。急に投げつけられて驚いたのか、朱莉は慌ててそれをキャッチしていた。
「それ差して帰れ。あとその傘あげるから、返さなくてもいい。いらなかったら捨てろ。じゃあな」
「あ、ちょっと待ってよ!?」
朱莉の制止を無視して、俺は全力で家に向かって走って行った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「38.1度か。完全に風邪引いたな……ゴホッ」
自分の部屋のベッドに寝転がりながら、手元にある体温計を見てそう呟いた。
原因はもちろん、どしゃ降りの中傘も差さずに走って帰宅し、ずぶ濡れになったからだろう。まあ物凄く体冷えたし、こうなることは覚悟していた。
今日は平日なので普通に学校があるのだが、こんな状態では登校など不可能だ。後で学校に休みの連絡をして、しばらく安静にしていよう。
トントンッ
すると誰かが自室のドアをノックする音がした。ガチャッと音をたてて開いたドアの先にいたのは、母親だった。なかなか起きてこない俺を心配し、様子を見に来たってところだろう。
「真也、いつまで寝てるの……って、あんた顔赤いわね! エッチな夢でも見たの?」
「違うわ。普通に風邪引いて熱出したんだよ」
エッチな夢を見てたとしてそれを母親に言えるか。
「まあ、それは大変ね。学校には母さんが連絡しておくから、あんたはそのままゆっくり休んでなさいな」
「分かった。ありがとう、母さん」
「ん。それじゃ、仕事いってくるわね!」
「いってらっしゃい」
母さんは去り際に『後で薬も買ってくるわ~』と言って、俺の部屋を後にした。
取り敢えず、具合が良くなるまでこのまま横になるとするか。
トントンッ!
またしてもノックをする音が。何だ、母さんが戻ってきたのか?
「真也っ! 大丈夫!?」
「なっ、朱莉!?」
『バタンッ!』と勢いよく部屋に入ってきたのは母親ではなく、心配そうな顔をした朱莉であった。
「さっき玄関でお義母さんと会って、真也が風邪引いたって聞いたから心配で見に来たの」
「……そういうことか」
母さんめ、余計なこと言いやがって。てかこいつ、また玄関で待ち伏せしてやがったな。
「うう、私のせいだよね。私が真也の傘使っちゃったから……」
「あれは俺が勝手に押し付けたんだ。お前のせいじゃない」
「そう? ありがとう。やっぱり真也は優しいわ」
「優しくなんかねーよ」
そう。朱莉に傘を渡したのだって、別に100パーセント善意でやったわけじゃない。むしろ『せめてもの償いをした』と言った方が正しいのかもしれない。
「俺は大丈夫だから、早く学校行けよ。風邪感染るぞ」
「そんなの気にしないよ。だから少しだけ看病させて? 私、真也の役に立ちたい」
何でそんな真剣な表情で言えるんだよ。本気で役に立ちたいって思ってるのが伝わって来ちまうじゃねーか。
でもその気持ちは、俺を苦しめるものでしかないんだ。
「いやお前が気にしなくても、俺が気にするんだよ。看病はいらないから学校行けって!」
少し語気を強めて言ってやった。早く朱莉に出て行って欲しかった。
こんな風に俺のために何かしようとする朱莉を見るといつも感じてしまう、風邪による気だるさなんかよりも重い、鉛のような罪悪感。そんな心の苦痛から早く解放されたかった。
「じ、じゃあ、冷たいタオルくらいならすぐ用意できるし、それくらいはやってもいいでしょ?」
しかし朱莉は出て行くどころか、まだ俺の役に立とうとしていた。
くっ、どうして……! どうしていつもこんなに冷たくあしらってるのに、俺のことをずっと気遣ってくれるんだよ。逆にどうしたら、好きじゃなくなるんだ?
……嫌われさえすれば、勘違いで俺を好きにさせちまった罪を償えるというのに。
ダァンッ!
「何でそこまで俺に優しくするんだよ! お前の看病なんかいらねえって言ってるだろ! さっさと出てけよ!!」
俺は近くにあったテーブルに思いっきり拳を叩きつけながら、そんな最低なことを大声で叫んでいた。
「…………!? 真……也……?」
「はっ……!」
我に返ったときにはもう遅かった。朱莉は絶望したような表情で顔を引き攣らせながら、驚き戸惑っていた。
「ご、ごめん……ね? め、迷惑だったよね……」
「い、いや」
「それじゃ、学校行くから……! 早く、元気になってっ……」
「おい待っ……ゲホッゲホッ!」
朱莉は目に涙をいっぱいためて、逃げるように部屋から出ていった。それを見ていた俺は、いきなり大声を出したせいか何も出来ずに咳き込んでいただけだった。
再びベッドに寝転んだ俺は、自己嫌悪に苛まれていた。
……やっちまった。今のはどう考えても理不尽な逆ギレだ。朱莉は俺を心配して、看病しようとしてくれただけだと分かっていたはずなのに、つい感情的になって彼女を傷つけてしまった。
……俺の目的は彼女を傷つけることなんかじゃない。俺は……朱莉に…………。あれ……? だんだん意識が朦朧としてきた……。
うう、具合が悪い……。もう何も考えられない……。
心身の疲労に耐えかねたのか、俺の意識はだんだんと微睡んでいった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
眠った俺は、昔に起こった出来事の夢を見ていた。
もう何年も前の事。俺が小4だった頃の話だ。
「うう、夜の学校は暗いよ……」
日も落ちて、既に暗闇に包まれている学校内。小さかった俺はビビりながら、忘れ物を取りに教室へ向かっていた。
昇降口や1階にある職員室辺りは明かりが灯っていたものの、階段を登ると一変し、辺りはほとんど闇だけが支配するようになる。
しかもその日は激しい雨の日だった。閑散とした闇の中、ザーーッと無機質に鳴り続ける雨音だけが響く。それは暗闇の中にいることに対する恐怖をさらに助長していた。
窓を通して差し込む月明かりを頼りに、湧き出る不安感を抑えながら、3階にある教室へ恐る恐る歩いていく。
「こ、ここだよな。教室」
暗闇の中、目を凝らして辺りを見ると『4年3組』と書いた細いプレートがあった。当時の俺のクラスだ。
ガラララッ
扉を開けると、確かに自分の教室の姿があった。しかしいつもと違って誰もいない上、真っ暗なので、馴染みのある場所のはずなのにどこか不気味だった。
「そうだ、電気!」
すぐにでも安心を得たかった俺は、急いで教室の照明をつけた。パッと教室が明るくなる。さっきまで暗闇にいたからか、少しだけ眩しい。だがその眩しさは俺を安堵させるものであった。
「ふうっ……。は、早く取って帰ろう」
俺は早々に机に向かった。忘れ物を無事発見し、机の中から取り出して、教室を去ろうとしたその時だった。
ドガーンッ!!!!
「うわああああ!?」
突然、辺りが一瞬フラッシュしたのとほぼ同時に物凄い雷鳴が轟いた。かなり近くに落ちたのだろう、照明が点滅し、床が少し揺れたのを今でも覚えている。
まだ幼かった俺は悲鳴を上げるほど驚いた。驚愕のあまり全身から力が抜け、体が後方へ傾く。
このまま尻餅をつくと思ったが、よろめいた拍子にすぐ後ろにあった机に背中が当たり、反射的にその机に手をついて何とか体を支えた。その時、腕が何かに触れた気がした。
そこからが、悪夢の始まりだった。
ガシャーン!
ガラスの割れる音がすぐ傍で鳴り響く。俺はまた驚いて音の鳴った方へ目をやると、力なく横たわった花を中心に、粉々になったガラスの破片が床に散らばっていた。
それは、クラスで生けていた切り花と、花を入れていた花瓶の残骸だった。
俺が寄りかかっていた机は、元々花瓶が置いてあった机だった。刹那、腕に何かが当たった感触があったのを思い出す。
小学生だった俺もすぐに理解した。この花瓶を割ったのは俺だと。
「や、やっちゃった……!」
サーッと全身の血の気が引いていく。先程まで感じていた恐怖がだんだんと、罪の意識による焦燥感に塗り替えられていく。
頭が混乱する中、この後どうすれば良いのかを考えた。今思えばこの時、職員室にいる先生に素直に謝りに行って、後処理をしてもらうのが最善だったのだろう。
しかし当時の俺は気が動転していたこともあって、まともな判断ができなかった。そんな中真っ先に浮かんだのが、この場から立ち去ることだった。
バレたら怒られてしまうかもしれないという焦り。激しい雷雨が伴う夜の学校の怖さ。その両方から逃げ出したかったのだ。
「は、早く逃げないと!」
そうと決まれば、急がないと先生が見回りに来るかもしれない。俺は慌てて教室の電気を消し、闇雲に学校の出口へと走ったのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「はっ……!?」
目が覚めると視界には、見慣れた自室の天井の光景が広がっていた。どうやら俺はベットの上で毛布も掛けずに眠っていたようだ。
だんだんと意識が覚醒してきて、眠る前の出来事を思い出す。確か逆ギレして朱莉を泣かせて追い出した後、体調が悪化してそのまま気絶したように眠ったんだったな。思い返すとまた頭が痛くなる。
それにしても何だか悪い夢を見た気がする。内容はほとんど覚えていない……が、もし本当に悪夢だったら思い出したくなんかないし、考えるのはやめよう。
部屋に設置してあるデジタル時計に目をやると『15:01』と表示されていた。眠りに落ちる前は8時ぐらいだったので、7時間ほど寝ていたらしい。
それだけ睡眠をとったからか、体調自体は少し回復した気がする。が、しかし。朱莉を泣かせてしまった罪の意識からか、悪い夢を見たからか。それともその両方が原因なのか、気分は最悪だった。
取り敢えず、母さんが仕事から帰ってくるまでは横になって安静に過ごすとしよう。
今度はちゃんと毛布を被ってから、再びベットの上で横になった。
目を瞑って安静にしている間、今朝の出来事が頭を離れなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
数日後の朝。風邪がようやく完治し、体調はすっかり元に戻ったので、俺は制服に着替えて学校へ行く準備をしていた。
トントンッ
ノック音からワンテンポ遅れてドアが開かれると、母さんが立っていた。
「あら。制服に着替えてるってことは、今日は学校行くのね。もう大丈夫なの?」
「ああ。本当はもう少し休みたいんだけどな」
「もう、サボりはダメよ? まあ、その様子なら大丈夫そうね」
そう言って母さんは、ほっと胸をなでおろした。
「そういえば真也。あんたが休んでる間、毎朝朱莉ちゃんがウチに来てたわよ」
「……へえ」
朱莉のヤツ、あんなことがあったのにまだ性懲りもなく家まで来ていたのか。
「朱莉ちゃん、あんたのこと随分心配してるみたいだったわ。母さんが玄関に出ると、いつもあんたの具合を聞いてくるのよ。まだ熱下がってないって言ったらシュンって落ち込んじゃって。何だか申し訳なくなっちゃったわ」
「……風邪引いたってだけなのに大袈裟すぎだろ」
まるで大病でも患ったかのような心配され様だ。
「こら、そういうこと言わないの。多分今日も玄関で待ってくれてるだろうから、早く元気な姿を見せてあげなさいよ」
「朝飯食ってからな」
これ以上この話をしたくなかった俺は、適当に返事をしてさっさと話を終らせ、リビングに向かった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
朝飯を食べ終え、玄関へと向かう。靴を履いて後は扉を開けるだけのところで、俺は一旦立ち止まった。
扉を開ければ、その先には朱莉が立っていることだろう。しかし今日はなかなかドアノブに手が伸びなかった。その理由は、どんな顔をして朱莉に会えばいいのか分からないからだ。
いつもなら適当にあしらって、早々に学校へ向かえばいいだけ。でも今回は訳が違う。
俺は先日、理不尽な理由で朱莉を泣かせてしまった。それはさすがの俺でも行き過ぎた行為だったと思ったし、深く反省もしている。
そんな状態でいつものように朱莉を邪険にするのは……良心が痛む。って、今更何言ってるんだろうな俺は。
このまま悩んでいても仕方ない。きちんと先日の件を謝ることにしよう。覚悟を決めた俺はドアノブを捻り、扉を開けた。
するとそこには、何故かきまりの悪そうな顔をした朱莉が立っていた。
朱莉は俺が出てきたのを確認すると、一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐに表情を曇らせて気まずそうに俺から目を逸らした。
「……おはよう、真也。さっきお義母さんから風邪治ったって聞いたわ」
「そうか」
「うん……」
暫しの間、ぎこちない沈黙が起こる。
「……風邪、治って良かったね! 元気になってくれて私も嬉しい!」
無理矢理といった感じで、朱莉が明るく会話を切り出した。
「そりゃ、風邪なんだから治るに決まってるだろ」
「あ、うん。そうだよね……」
つい、いつものように冷たく返してしまう。
違う、こんなことが言いたいんじゃない。朱莉に謝るんだろ、俺。
「朱莉、この前はすまなかっ……」
「本当にごめんなさい!」
俺が意を決して謝罪を口にしようとしたところ、それを遮るように朱莉が勢いよく頭を下げ、大きな声で謝罪した。
「は? 何でお前が謝るんだよ?」
「だって真也がいらないって言ってるのに、私が無理矢理看病しようとしたせいで、怒らせちゃったから……」
そう言いながら頭を上げた朱莉の顔は、心から反省している様子だった。
「つ、次からは気を付けるから! だからその、ワガママだって思うかもしれないけど……嫌いにならないで欲しいな、なんて」
そして俺の顔色を窺うように、ちらちらと俺の方を見ては視線を逸らしながら、遠慮がちにそう言った。
意味が分からなかった。俺はあの日、善意で看病しようとしてくれた彼女に向かって理不尽に怒鳴って、泣かせるほど傷つけたんだぞ?
どう考えても非があるのは俺の方であり、謝るべきはこちらのはずだ。むしろ朱莉は俺を糾弾して然るべきだろう。
なのに朱莉は、何故か必死に謝っている。自分が無理矢理看病しようとしてしまったからと。
何だよそれ。看病しようとしてくれることが悪いことなわけないだろ。
こんな……こんな優しい女の子がどうして、どうしようもなくクズな俺なんかを一途に想って、嫌われたくない一心で頭を下げているんだ。
……って、そうか。こんなことになってるのって、俺のせいか。
勘違いで惚れさせておいて、いつも冷たくあしらって時間を無駄に使わせて。俺は本当にクズで最低な男だ。
……いい加減、この関係も終わりにしないとな。他でもない、朱莉のために。
俺はすー、はーと深呼吸してから、改めて朱莉の目を見て口を開いた。
「朱莉」
「な、何?」
「話したいことがあるんだ。今は時間がないから、放課後に空き教室で待っててくれないか」
「え? それってどういう……っ!?」
朱莉は俺の目を見ると、何を感じ取ったのかひどく怯えたように顔を歪ませた。
「ね、ねえ真也。何の話をしようとしてるの? その目、何だか怖いよ……」
「……学校行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ!」
朱莉の制止も聞かず、俺は黙々と学校へ向かって歩いていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
放課後。大体の生徒が帰宅するか、部活に行って校内から去るのを待ってから、俺は朱莉が待つ空き教室へ向かった。
ガララララッ。
引き戸を開けて入ると、待っていた朱莉がすぐこちらに気付いて、緊張したように背筋を伸ばす。
「待たせて悪い」
「……ううん」
覇気のない声で返事をする朱莉。
「じゃ、早速本題に入るぞ。今朝言った話したいことっていうのは、俺とお前が関わるようになった日のことだ」
「え……?」
「あの出来事のことをお前は、きっと誤解している。だから真実を教えようと思ってな」
「あの出来事って、真也が私を助けてくれたときのこと?」
「そうだ」
最早助けた、っていう表現が正しいかどうかすら分からないが。
これを話してしまうと、朱莉が俺に対して抱いている気持ちが勘違いによるものだったと分かるだろう。
とてもショックを受けるだろうが、これ以上俺のようなクズ野郎に朱莉の貴重な時間を浪費させてしまうわけにはいかない。
俺は改めて心の中で覚悟を決め、事の顛末を話した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その昔、俺が花瓶を割ってしまった日の翌朝のこと。
俺は昨日のことがバレて怒られやしないかと、ビクビクしながら登校した。
学校に着き教室に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
大勢のクラスメートが敵意を剝き出しにしながら、一人の女子を囲んでいたのだ。
「いい加減に認めなさいよ! 朝日さんがこの花瓶を割ったんでしょ!?」
そう聞こえた瞬間、肝が冷えた感覚が俺を襲った。
「違う、私じゃないよ!」
「でもあなたが一番早く学校に来たんだから、朝日さんしか犯人はいないじゃない! 皆で大事にしてる花瓶を割って反省しないだなんて、最低よ!」
「そうだそうだ!」
「わ、私が来た時にはもう割れていたんだよ」
どうやら、花瓶を割った犯人としてクラスメートの朝日朱莉さんが疑われているようだ。
当の朝日さんはそれを否定し続けるので、さっさと罪を認めない様子にクラスメートたちは業を煮やしてヒートアップしていた。
しかし朝日さんが否定するのも当然だ。花瓶を割った真犯人は彼女ではなく、俺なのだから。
「朝日さん、嘘はダメだよ。僕は昨日、先生と話をしていて皆が帰った後も教室に残っていた。そのとき花瓶は割れていなかったから、割れたのは今日だ。一番最初に登校した君が来たときに割れていたなんてことはあり得ないよ」
眼鏡を掛けたクラス委員長の男子生徒が論理的に朝日さんを詰める。一見正しそうな意見だが、彼と先生が教室から出て行った後に誰かが入った可能性を全く考えていない。小学生なのだから、そこまで深く考えられないのも当然だ。
だがその意見は、クラスメートたちを納得させるだけの説得力があった。
「じゃあやっぱり、犯人は朝日さんで決まりだね」
「あーあ、悪いんだー」
「これを聞いてもまだ認めないつもりなの?」
「そんな、私じゃないのに……うう……」
クラスメートたちに寄ってたかって詰められても、朝日さんは泣きそうになりながら否定し続けていた。
「(ま、まずいことになった……!)」
その光景を見た俺は、冷や汗が止まらなかった。自分のせいで、何の罪もない一人のクラスメートが冤罪を掛けられているのだ。
しかしここで犯人だと名乗り出たら、今度は俺が皆から責められてしまう。それは……嫌だ。
どうするべきなのか考えていると、先生が教室に入ってきた。
「騒がしいですね。何かあったんですか?」
「先生、朝日さんが花瓶を割ったのに認めないんです」
先生の問いに、眼鏡男子が答える。それを聞いた先生は、割れて凄惨な姿となった花瓶の欠片を見て眉をひそめた。
「朝日さんが割ったのを誰かが見たのですか?」
「いいえ。しかし、ここにいる皆が登校してきたときには既に割れていました。つまり、今日一番早く登校してきた朝日さんが犯人である可能性が高いです。昨日、僕と先生が最後に教室から出て行ったときは割れていませんでしたので、ほぼ間違いないと思います」
「違います! 私が登校してきたときはもう割れていました!」
理路整然と先生に説明する委員長に、負けじと声をあげる朝日さん。
先生は二人を見て、少し考えるような仕草をしたあと、口を開いた。
「確かに、昨日私たちが出て行ったとき花瓶は無事でした。ということは、私たちが出て行った後に教室に入った生徒がいなければ、花瓶を割ったのは朝日さんということになります。昨日の夜遅くに教室に入った生徒がいたら、正直に手を挙げてください」
「(っ……!)」
先生の問いかけによって、俺は究極の選択を余儀なくされた。
ここで手を挙げなければ、花瓶を割った犯人は朝日さんとなり、俺は罪から逃れられる。しかし、一切罪のない女子に冤罪をかけることになり、今後罪悪感に苛まれることになるだろう。
かといって手を挙げてしまえば、犯人は俺となり、皆に責められる毎日を送ることになる。信用を失い、場合によっては皆にいじめられ、まともに学校生活を送ることさえできなくなる可能性もあるだろう。
どうするべきなのかは分かっていた。花瓶を割ったのは紛れもなく俺なのだから、手を挙げるべきだ。
しかし怖気づいていた。皆に責められるのが怖かった。
結局俺は、動けずに震えていただけだった。
「……いないようですね。どうやら、花瓶を割ったのは朝日さんである可能性が高いようです。朝日さん、正直に謝れば皆も許してくれますよ」
「そ、そんな……」
誰も手を挙げなかったので、朝日さんの容疑が決定的になる。絶望したような朝日さんの声を聴いた瞬間、罪悪感が一気に胸に押し寄せてきた。
「ほら、さっさと謝りなさいよ」
「……私、割ってないもん」
「はあ!? まだそんなこと言うの!?」
「花瓶を割ったくせに、謝りもしないのかよ」
「……私じゃないもん。ホントだもん。ぐすっ……」
皆から責められて我慢の限界がきたのか、ついに朝日さんの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「うわ、こいつ泣いたぞ。だっせー」
「被害者ヅラすんなよな」
朝日さんが泣いてもなお、クラスメートたちは辛辣な言葉を浴びせ続ける。
理不尽に責められ続けるその姿は、とても見ていられなかった。
自分のせいで何の罪もない女の子が、涙を流すほど傷つけられているという現実が重く圧し掛かってくる。
だがやはり、俺は動けなかった。今から犯人として名乗り出ることもできるはずなのに、それができない。
俺はどこまでも臆病で、卑怯な子供だった。
「朝日さん、素直に謝るだけでいいのです。やってしまったことは仕方がないので、ちゃんと反省しないと駄目ですよ」
クラスメートたちだけでなく、先生まで完全に朝日さんを犯人扱いしている。
「ううっ……本当に、違う、のに……。どうして、皆、信じてくれないの?」
誰も味方がいない状況に絶望する朝日さん。嗚咽で言葉が途切れ途切れになっていた。
あまりに可哀想だとは思うものの、相変わらず俺は何もできなかった。むしろここから逃げ出してしまいたいとさえ考えていた。
思えばいつも、逃げてばかりだった。昨日だって、花瓶を割ったとき先生に謝りに行かず、その場から逃げ出した。
そして今も、自分の罪から逃げてその罪を女の子に擦り付けている。
ああ、俺はなんて情けなくて、格好悪い男だろう。
幼少期に見ていた特撮番組のヒーローのように、誰かを助けられる大人になりたいと思っていたのに。今の俺は逃げてばかりの臆病者。むしろ女の子に自分の罪を着せるような悪者だ。
このままじゃヒーローとは程遠い、ダメ人間になってしまう。そう思っても、勇気が出なかった。
「謝ることもできないって、ホント終わってるな」
「信じられない。あなた最低よ!」
クラスメートたちが朝日さんに向けて放つ罵詈雑言が、そのまま自分にも突き刺さってくる。
だが、それを見返そうと動くこともできない。……本当に情けない。
「ぐすっ……誰か、助けて……!」
だがそのとき、朝日さんの『助けて』という言葉に体が反応した。
「み、皆、待ってくれ!」
そんなことを無意識に口走っていた。教室にいる全員が俺の方を向く。途端に後悔したが、もう口に出してしまった。後には引けない。
でも、やっぱり皆に嫌われたくない。本当のことを言うのは怖すぎる。
俺は必死に頭をフル回転させて、この場を収める言葉を探した。
「も、もし別に花瓶を割った人がいても、手を挙げないんじゃないか? だってこのまま手を挙げなきゃ、犯人だってバレないし……」
苦悩の末思い付いたのは、自分の罪を告白することではなく、別の犯人がいる可能性を主張することだった。
俺は、臆病者から変わることはできなかったのだ。
「確かに夜月君の言う通りですね。これでは朝日さんが割ったとは言い切れません。そして目撃者がいない以上、割った人を特定するのは不可能です。よって、この件は無かったことにします。皆さん、物は大切にしましょうね。それでは朝の挨拶を始めますので、席についてください」
先生がそう結論付けると、クラスメートたちは渋々といった様子で自席に戻っていった。
つまり犯人だとバレずに、かつ誰かに罪を着せずに済んだのだ。結果だけを見れば、俺にとって最高の展開となった。
俺は安堵の溜め息をついた。しかし、心のモヤモヤは消えなかった。自分の罪にしっかりと向き合ったわけではないため、後ろめたさのようなものが拭い切れない。
それは数日経った後も変わらなかった。俺はもう、あの日のことをずっと後悔しながら生きていくのだろうと思った。
気持ち悪さが治まらないまま小学校に通っていたある日、事件は起こった。
「夜月くん……いや、真也くん! す、好きです、付き合ってください!」
「なっ……!?」
朝日朱莉が告白してきたのだ。完全に想定外だった。
「私が花瓶を割ったって疑われたときに、皆私が犯人だって決めつけて、何を言っても信じてくれなかった。でも、真也くんだけは私の味方になってくれた。それがとっても嬉しくて。あと……ヒーローみたいでかっこよくて。好きになっちゃったの」
朝日さんは両手を頬に当てて恥ずかしがりながらも、夢見心地な様子で語る。
「っ……」
それを聞いていると、だんだんと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。心にずっと巣食っている罪悪感がより肥大化していっているのが分かった。
彼女は誤解している。あのときの俺は、花瓶を割った罪を他人に着せるストレスに耐えられなくて、でも自分が犯人だと名乗り出る勇気もなくて、結果自分が一番苦しまないように動いただけ。
だがしかし。この極めて利己的なこの行動が、朝日さんにとってはヒーローのように見えてしまったらしい。
確かに朝日さんからしたら、自分に味方してくれたと思うのは当然だ。でもまさか惚れられてしまうとは思わなかった。
客観的に見たらこの状況は、ラッキーと言えるかもしれない。自分が一番被害を被らない行動をとっただけで、女の子を惚れさせることができたのだから。
だが、俺はラッキーだなんて思えなかった。だって、あまりにも朝日さんが可哀想すぎるじゃないか。
謂れのない冤罪で皆から責められて、違うと言っても誰にも信じてもらえなくて。そんなとき唯一味方してくれて、好きになった男の子が、花瓶を割った張本人。そいつは自分が犯人だと名乗り出たわけでもなく、その上味方してくれたわけでもなく、ただただ自分のために行動しただけのクズ野郎。……こんなひどい話あるかよ。
真実を知っている上で、それを隠したまま朝日さんと付き合うことなどできない。というか申し訳なさ過ぎて、心が持たない。
だから俺は、この告白を断ることにした。
「ごめん朝日さん。君とは付き合えない」
「そ、そっか……」
告白を断られた朝日さんは、あからさまに落ち込んでいた。勘違いで惚れた男に振られるなんて、不憫にもほどがある。本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「…………でも、もう好きになっちゃったから諦められないよ」
「え?」
耳を疑うような言葉が、朝日さんの口から聞こえた。
「真也くんが振り向いてくれるまで諦めないから!」
そして、今にも泣きだしそうな顔でそう叫ぶと、朝日さんはどこかに走り去って行ってしまった。
俺は朝日さんの発言に困惑し、しばらくポカーンと立ち尽くしていた。
それから朝日さんは、毎日のように絡んでくるようになった。事あるごとに告白されては、振る。そんな日々を繰り返していた。
最初はいつか諦めてくれるだろうと、高を括っていた。だが1年経っても、彼女の気持ちは変わらなかった。その一途な想いはどこからくるのか不思議だった。
そこで俺は、告白を振る以外の方法で彼女に諦めてもらう方法を考えた。
最初は花瓶の件の真実を話してしまおうと考えた。しかしそれでは、花瓶を割った犯人が俺であると皆に広まってしまう可能性がある。どこまでも臆病な小学生の俺は、その選択肢を選ぶことはできなかった。
そして次に思い付いたのは、朝日さんに対してとことん無愛想に接することだった。何をしてもつまらない返答しか返ってこないとなれば、どんな恋も自然に冷めるだろう。そうすれば、彼女をなるべく傷つけずに諦めさせることができると考えた。
それから俺は、彼女に話しかけられても無愛想な態度で返事をするようになった。呼び方も『朝日さん』から『朱莉』に変えた。その方がぶっきらぼうな感じになると思ったからだ。
しかしそれでも、朱莉は全く諦めてくれなかった。名前で呼ぶようになったことに関してはむしろ喜んでいた。
一体何をしたら諦めてくれるのか、俺はもう分からなくなった。正確に言うと、彼女を傷つけずに諦めさせる方法が思いつかなかった。
その気になれば大事にしている物を壊したり、手を挙げたりと、いくらでも手の施しようはあった。
しかし、こんなクズな俺に勘違いで惚れ、何年も時間を費やしているというだけでも十分すぎるぐらいに可哀想なのに、その上傷つけるなんてことはしたくなかった。
結局、諦めさせることはできないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
★ ★ ★ ★ ★
これが、朱莉が俺に惚れるきっかけとなった出来事の真実だ。俺は告白されてからの話を除いて、すべて朱莉に白状した。
話を聞いた朱莉はというと、さすがにショックだったのか黙って俯いていた。
「これで分かっただろう? 俺はヒーローなんかじゃなく、ただの臆病者だったんだ。つまり、お前の気持ちは勘違いなんだよ」
「…………そう、だったんだ」
小学生の頃から現在に至るまでの約7年間にも及ぶ恋。そんな膨大な年月の間、朱莉は俺を振り向かせようと様々なアプローチを仕掛け、必死に頑張っていた。その気持ちが勘違いによるものだと告げられて、朱莉はどう思うだろう。
自分がやってきたことがすべて無駄だったと気づき、よくも今まで騙していたなと、時間を返せと俺を責めるだろうか。
……いや、それは違うか。これはそうして欲しいという俺の願望だ。
朱莉は本当に優しい女の子だ。どんなに傷付けられたとしても、俺を好きじゃなくなったとしても、俺を恨むようなことは絶対しないだろう。今までの経験則からそう思わせられた。
だからこそ今は、非情に徹しなければならないと思った。朱莉が俺に同情してしまわないように。
本音では今すぐ謝りたい。だがもしそれで同情を買ってしまったら彼女はきっと、自分が好きになったせいで俺を苦しめてしまったと思ってしまう。そう思ってしまった時点で、いくら俺が悪くても朱莉は自分を責めてしまうのだ。
そんなの耐えられない。俺は朱莉にとって、悪者でなければならないんだ。
「残念だったな。これに懲りたら、男はちゃんと考えて選べよ。そしてもう金輪際、俺に関わるな」
「……っ」
あえて強い言葉を選んで拒絶する。朱莉は俯いたまま、唇を歪ませていた。
「話したいことはそれだけだ。じゃあな」
「待って!」
踵を返してこの場から去ろうとすると、朱莉に引き留められる。
「何だよ」
「聞きたいことがあるの。答えてくれる?」
「……」
俺は無言で朱莉の方を向いた。朱莉と会話するのはこれで最後にするつもりだ。最後くらいちゃんと話を聞いてあげるべきだと思った。
「この話って、どうして今になってから教えてくれたの?」
何を聞かれるのかと思えば、そんなことか。
「真実を話して皆に広まるのが怖かったからだ。小中一貫校だったからずっと言えなかった」
何故こんな質問をしてくるのか、全く意味が分からない。朱莉は俺から何を聞き出したいんだ?
「それじゃあ、高校生になってから1年もの間話さなかったのはどうして?」
「それは……」
聞かれて、自分でも疑問に思った。確かに朱莉の言う通り、高校に入ってからも秘密にする理由はなかった。単純にそのことに気付いていなかった。
高校に入学した瞬間に話していれば良かったんだ。そうしていればこんなに苦しむことはなかった。もっと早く朱莉を自由にしてやれたんだ。
「理由はない。ただ隠す必要がないことに気が付いていなかっただけだ。今そうすればよかったと後悔した。もっと早くお前との関係を終らせられたのに」
「…………」
そう言うと朱莉は、悲しそうに表情を曇らせた。
何回か見たことのある表情だった。朱莉に対して俺が冷たい態度をとると、たまにこういう顔を見せる。
この表情は嫌いだ。朱莉を傷つけている実感が湧いてきて、居たたまれない気持ちになる。
「何だ。答えが不満だったのか」
「……また、その顔するんだ」
「は?」
その顔? 何を言っているんだこいつは。
「真也がいつも冷たいことを言うときの顔。辛くて苦しいのを押し殺したような表情。見ているとこっちまで悲しくなるの……」
「勝手なことを言うな。俺はそんな顔はしていないぞ」
「してるよ! ……自覚ないかもだけどさ。ねえ、何がそんなに苦しいの? 真也の本当の気持ちを知りたいよ」
真剣な顔で問いかけてくる朱莉。……これは簡単に引き下がってくれそうにないな。ここは適当に言い訳をして乗り切るとしよう。
「俺が苦しそうに見えるんだとしたら、それは罪悪感があるからだろうな。お前を勘違いで惚れさせておいて、ずっと冷たい態度をとり続けてきたんだ。こんな俺でも多少は思うところはあったさ」
「……」
朱莉はいまいち納得していない様子だった。だがそんなことを気にして問い詰めるより、さっさとこの場から離れるのが先決だと思った。
「聞きたかったのはそれだけか? なら今度こそお別れだ」
「待ってってば! 何でそんなに急いで帰ろうとするの……?」
「一刻も早くお前との縁を切りたいからだ」
「これ以上私といると罪悪感で苦しくなるから?」
その言葉を聞いてゾッとした。同時に、罪悪感を抱いていることを話したことを後悔した。
朱莉のことだ。嫌味でこんなことを言っているわけではないのだろう。
だとしたら、自分のせいで俺を苦しめてしまっていると思ってしまっているかもしれない。朱莉の言葉にそうだと答えてしまうと、謝られてしまうのではないか。
そんな予感が脳内をよぎる。それは最も危惧していることだった。
「違うっ! ……はっ!?」
刹那、反射的に朱莉の言葉を否定してしまう。口に出してしまってから、自分の失敗に気付いた。
「そっか、じゃあ別の理由があるんだ。ねえ真也、一生のお願い。真也の考えてること、包み隠さず全部教えて?」
「隠している事などない」
これ以上何かを話してやるつもりはない。絶対に。
「お願い。真也の本当の気持ちを知らないまま縁を切るのはどうしても嫌なの」
「隠し事なんてないと言っているだろう。無駄な詮索はするな。そしてもう話しかけるな」
「……そうやっていつもわざと冷たいこと言って、嫌われようとするよね」
「っ!?」
いきなり核心を突かれ、心臓が『ドクンッ!』と跳ね上がった。まさか気付かれていたとは。
「冷たいことを言うたびに苦しそうな顔をするから、その顔をするときは本心で言ってるわけじゃないっていうのは分かってるの」
朱莉の方を見ると、自分の考えに間違いはないと確信しているような目で真っ直ぐ俺を見つめていた。
もうこれは否定しても無駄と悟った。俺は観念して溜め息をつく。
「……確かにお前がさっさと諦めてくれないから、嫌われるために思ってもいないことを口にしたことはあったかもな。だが、それがどうした? これ以上俺が隠していることは何もない」
「そうかな。さっき私に『金輪際関わるな』って言ったときも同じ顔をしてたよ。……むしろ、今までで一番苦しそうだった」
「なっ……そんなわけないだろ!」
「ほら、真也にしては珍しく動揺してる。やっぱり何か隠してるんだ」
「ちっ……! 動揺なんてしてねえよ。勝手に決めつけんなよ」
そうだ、俺は動揺なんかしていない。彼女の言い分を真っ向から否定したい。だが、胸に来る焦燥感が抑えられない。
この焦燥感の正体は自分でもよく分からなかった。いや、分かりたくなかった。
「そう。じゃあ真也に一つ、教えてあげるよ」
「な、何だ」
「真也は昔の出来事の真実を話して、私が真也のことを好きな気持ちが勘違いだったことを伝えて、すべて終わりにしようとしたんでしょ?」
「あ、ああ」
「でも残念。私の真也に対する気持ちは変わってないよ」
「はあっ!?」
気持ちが変わっていない? つまりまだ俺のことが好きだということか!?
意味が分からない。俺と朱莉はあの花瓶の事件がきっかけで初めて関わるようになった。そしてその件以降は惚れられるようなことをした覚えはないし、むしろずっと冷たく接してきたんだぞ?
朱莉にとって俺は、まるで好きでいられるような男ではなかったはずだ。
『花瓶の事件で助けられた』という好意を抱く要因となり得る唯一の出来事が勘違いだったというのに、どうして未だに俺を好きでいられる?
「何でだよ、もう俺を好きでいる理由がないだろ!?」
「確かに、真也を好きになったきっかけはあの事件で助けられたからだったよ」
「あれは助けたんじゃない! 自分の都合が良いように動いただけだ!」
「分かってる。でもそれがきっかけで、夜月真也という男の子のことが知れた」
「は?」
「真也はね。自覚はないんだろうけど、優しいんだよ。口では冷たいことを言うけど、いつも私のことをよく見て、気遣ってくれてた」
「一体何を言っているんだ?」
「例えば、私がお弁当を作ってきた日。真也さ、最初は食べるのを拒否してたけど、私の手が絆創膏だらけだったのを見て食べてくれたよね。しかも美味しいって言ってくれた。私、本当に嬉しかったよ」
「あれは、ただの気まぐれだ」
「下校中に突然雨が降ってきたときも、私が濡れて帰ろうとしたのを心配して、折り畳み傘をくれた」
「それは……」
「他にも言っちゃうとキリがないくらい、私は真也の魅力的な部分を知ってしまったんだよ。そうじゃなきゃ7年間も好きでいられるわけないじゃん」
「う……」
どうしてそんなことを晴れやかな笑顔で言えるんだよ。あの事件のことが勘違いだったことがどうでもよくなるくらい、俺が魅力的な人間だと?
ふざけるなよ。どうしてそうなるんだよ。今まで嫌われるために行動してきたのに、それでも魅力的な部分があるだなんて言われたら、もうどうしようもないじゃないか。
それじゃダメなんだ。お前は俺なんかを好きでいるべきじゃないんだよ。
「違うぞ朱莉。お前は俺を好きだという先入観のせいで、良いように捉えてしまっているだけだ」
「そうだとしても、今現在の私は真也のことが好き。そしてそれはこれからも変わらないと思う」
「なっ……」
「真也、もう諦めてよ。どんなに冷たい態度をとられても、私の気持ちは変わらない。一生真也のことを好きでいると思う。それが嫌だったら、観念して本当の気持ちを教えて?」
「うぅ………………くそっ!」
そんなことを言われたら、もう逃げ道は残されていないも同然だった。
一生好きでいるということは、例え朱莉からどんなに距離をとったところで、気持ちは変わらないということ。
つまり朱莉は、俺のせいで他の誰とも恋愛をすることもなく、俺を想いながら一人孤独に生きていく羽目になるということだ。それは一番望んでいない、考え得る中で最悪の結末だった。
俺の望みは朱莉に俺を諦めさせて、もっと魅力的な人と出会い、幸せになってもらうこと。
叶えるにはもうそれを正直に伝えて、その上で諦めるように説得する方法しか選択肢はないようだった。
「俺は、お前と付き合うのに相応しい人間じゃないんだ」
「それって、どういうこと?」
「俺は周りの目を気にして自分の立場を守ることし考えていない、どうしようもなく臆病で卑怯な人間だ。真っ直ぐで、人のために行動できる優しい心を持つお前には相応しくない。だからお前には、もっといい男と幸せになって欲しいんだ!」
ついに言ってしまった。これを言うことで『自分のことを思ってくれている』と思われるのが何よりも嫌だった。でももう、今更だ。
「相応しいとかそんなの、どうだっていいじゃん!」
「え……」
突然怒ったように声を荒げる朱莉。
「自分は相応しくないから諦めろだなんておかしいよ! 大事なのは相応しいかどうかじゃなくて、お互いの気持ちなんじゃないの!?」
「お互いの、気持ち……?」
「私は真也のことが大好き。真也は、私のことどう思ってるの?」
「俺……は」
俺が朱莉のことをどう思っているか、だって? そんなこと考えたこともなかった。いや、考えないようにしていた。
今、初めて朱莉という女の子に対する自分の気持ちを考えてみる。
出会った頃はただのクラスメートで、勘違いで俺を好きになった可哀想な女子としか思っていなかった。特別な感情などなかった。
けれど今は、7年間もの時を共にして嫌でも朱莉のことを知っていった。
何度冷たくしても、告白を断っても、付きまとってくる変なヤツ。周囲の目も気にせず、恥ずかしくなるようなアプローチを仕掛けてくる、迷惑なヤツ。
良いところと言えば、容姿が憎らしいほど整っていて、一途で、他人のために行動できる優しさ持っていることぐらい。
………………。
「朱莉のことなんて、嫌いに決まってるだろ」
「良かった。真也、嘘つくときの顔してる」
「っ……!」
違う。こんな気持ち、絶対にあってはならないんだ。許されるはずかない。
勘違いで惚れさせた相手を、好きになってしまうだなんて。
「もう私に嘘は通じないよ」
でももう、誤魔化しようがないのか? 俺はどうすればいい?
「………言えるわけがない」
「どうして?」
「許されないだろ。今まで数えきれないぐらいお前を傷つけておいて」
「許すよ。……私を好きにさせた責任をとって、これからずっと幸せにしてくれるなら」
「!!」
その言葉を聞いて、はっとした。朱莉を俺という呪縛から解放させることこそが正しいことだと思い込んでいた自分にはない選択肢だった。
そうか。俺はまたずっと逃げていたのだ。過去の罪を理由にして、自分には朱莉と付き合う資格はないと勝手に決めつけて。結局朱莉の気持ちに向き合うのが怖かっただけだったんだ。
「本当に、許してくれるのか。こんなどうしようもない最低な男を」
「うん、許す」
「……ありがとう」
いい加減、逃げ続けるのは終わりにしないとな。今まで俺が朱莉にしてしまったことは到底許されることではないが、過去そして朱莉の気持ちから目を背け続けていてはいつまでも臆病者のままだ。
覚悟を決めて朱莉を幸せにすること。それが俺にできるせめてもの償いだ。
俺は深呼吸してから、朱莉の目を真っすぐ見た。
「俺は朱莉のことが……好きだ」
「っ……! 真也っ!」
言い終えると同時に、朱莉が飛びつくように抱きついてきた。
「嬉しい……やっと、やっと真也を振り向かせられた。諦めなくて良かった……!」
俺の胸に顔を埋めて、嗚咽しながら喜びを露にする朱莉。ワイシャツ越しに朱莉の涙の温かい感触が伝わってくる。
「すまなかったな、7年も待たせちまって」
「……ホントだよ、バカ」
俺に抱き着いている朱莉の腕に力が入る。それに答えるように、俺もぎゅっと朱莉を抱きしめた。
「えへへ……。ずっとこうして、抱きしめてもらいたいなって思ってたんだ。夢みたい」
「夢だなんて大袈裟だな」
「ふふっ」
朱莉は嬉しそうに微笑むと、俺の元から離れる。そしてまだ涙の痕が残った顔で真っすぐこちらを見据えた。
「ねえ真也」
「何だ?」
「大好き」
目尻に涙の粒を浮かべながら、最高の笑顔で朱莉が言う。
最早何回目か分からない程されてきた告白。今まで数えきれないほど無下にしてきた言葉だ。
でも、今の俺なら答えることができる。
「俺も、朱莉が大好きだ」
「…………!」
俺の答えを聞いた朱莉は、恥ずかしそうに頬を染め、幸せを噛みしめるように恍惚とした表情をしていた。
「うふふ……。好きな人に好きって言われるのって、こんなに嬉しいんだね」
「俺も、朱莉に好きって言われて嬉しかった」
「へ? そ、そうなんだ……。じゃあこれからいっぱい好きって言ってあげるね、ダーリン♡」
「ああ。ありがとう、ハニー」
そう言って俺は、朱莉の頭を撫でた。
「ふぇっ……!? 何かやけにノリ良くない……?」
「もう冷たく返す必要はなくなったからな。これからは朱莉が喜びそうなことをしようと思う」
「そ、そう? 嬉しいけど、心臓持つかなぁ……うぅ……」
顔を真っ赤にしながら、困ったような表情をする朱莉。朱莉ってこんなに可愛かったんだな。気づかなかった。……いや、見ないようにしていただけか。これまで朱莉から目を背け続けてきた証拠だ。
もう何事からも目を背けたり、逃げたりしない。ちゃんと向き合って、正しいと思う行動ができるようになろう。
7年間ずっと俺を見てくれた、目の前の女の子のように。
★ ★ ★ ★ ★
俺と朱莉が付き合ってから、7年もの月日が経った。
ガチャリ……。
「おかえりなさい、旦那様♡」
仕事を終えて家に帰ると、待ってましたと言わんばかりに俺を迎える朱莉の姿があった。
旦那様、か。昔はそう呼ばれたら怒ってたっけ。まあ今は結婚して、正真正銘の旦那様になったわけだけど。
「ふっ、ただいま」
「? どうしたの、ニヤニヤして」
「いや、懐かしいと思ってな。扉を開けたらニコニコ顔の朱莉がいたから、昔玄関前で待ち伏せされてたことを思い出したんだ」
「な、昔のことは言わないでよ……!」
あの時は家の外、今は家の中。待っている場所は違えど、朱莉の嬉しそうな表情は変わらない。
「そういえば、俺たちが付き合ってからもう7年経つよな」
「そうだね。あっという間だったなあ」
「ああ。……やっと、朱莉を待たせちまった時間に追いついた」
「もう、そんなの気にしないでって前から言ってるじゃん。私、この7年間ずーっと幸せだったよ」
頬を膨らませながら、ちょっと怒ったように言う朱莉。待たせた側としては意識しないわけにはいかないんだよ。
でもようやく、待たせた分の埋め合わせはできた。これからはもう過去のことは関係ない。といってもやることは変わらない。今まで通りの幸せな時間をさらに上乗せしていくだけだ。
「ところで旦那様、ご飯にする? お風呂にする? それとも……わ」
「ご飯で」
「早っ!? 言い終わる前に返事しないでよー! 何か否定された気持ちになるじゃん……」
「朱莉のご飯美味しいから、早く食べたいんだ」
「…………ずるいなあ。そういうところも好き♡」
そう言いながら腕を組んできた朱莉と一緒に、俺は食欲をそそる香りのする居間の方へ向かった。
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連載版も投稿する予定ですので、そちらも見て頂ければ嬉しいです。