7 アリー、男爵令嬢になる
本日4回目の投稿です。
ジェラルドと名乗った父親は、血を分けた娘と再会したというのに、少しも嬉しそうではなかった。にこりともしない冷淡な表情で、アリーと同じダークブルーの瞳から威圧的な光を発していた。
もみ手をしながら状況を見守っている院長のほうが、よほど喜んでいるように見える。
「……アリーです」
父親というよりも家長と言うにふさわしいジェラルドの貫禄に、アリーは怖気づいた。自然と声が小さくなる。
「では、行こうか」
ジェラルドが、もうここに用はないとばかりに促した。
まさかこのまま王都に向かうというのか。
まだ荷物もまとめていないし、アンナやエマやニナに別れの挨拶もしていない。大したものは持っていないが、着替えくらいはないと困る。それに、せめてアンナには出ていくことを直接伝えたかった。
「あ、あの、あたしっ……」
訴えかけるも、ジェラルドの眉がピクリと吊り上がるのを見て言葉を吞み込んだ。
「そんなに慌てずとも、明日、出発なさってはいかがですか? アリーにも準備があるでしょうし、子どもたちも寂しがります」
アリーの胸中を察した院長が間に入った。
「のんびりしている時間はないのだよ。仕事があるのでね。必要なものはすべて買い揃えるから心配はいらない。まずはその汚い身なりを整えねばならんな」
「ですが……」
「寄付金はたっぷり渡しただろう。これ以上、何かあるのかね?」
居丈高にギロリと睨みつけられ、院長は口ごもった。
これはまずいと思ったアリーは、咄嗟に叫んだ。
「あのっ、出発前にトイレに行ってきますっ!」
ダダダッと勢いよく廊下を走るアリーの背中に向かって「早急に家庭教師を雇わねば」とジェラルドがぼそりと呟いた。
長いトイレの間に、アンナとその近くにいたニナを急いで捕まえ「王都へ行く」という報告と「元気でね」と型通りの挨拶をしてから、アリーは馬車に乗った。
道中、向かいに座る父親は必要事項だけを手短に伝えてから、鞄から書類を取り出し読み始めた。
今さら「会いたかった!」とか「寂しい思いをさせてごめんよ」なんて、感動的な再会を夢見ていたわけではない。
父親などとうに亡くなったものだと思っていたし、そういうところは、アリーはドライだった。どうせ何かを期待するだけ無駄だ。
しかし、それにしても扱いが事務的で娘というよりは商品になった気分になる。
商品はしゃべるな、そんな圧をひしひしと感じて、アリーはガタゴトと馬車に揺られながら、黙って窓の外を眺めることにしたのだった。
アリーの父親ジェラルド・ボージェは男爵であった。
もとは商家だ。先代であるジェラルドの父が会社を大きくし、爵位を金で買ったのだ。
金欠に悩む王家の苦肉の策として、前王は金で爵位を乱発するようになった。それが現王の御代でも続いており、商売などで富を得た平民を中心としたにわか貴族が急増している。
伝統を重んじる従来の貴族たちは、社交の暗黙のルールと作法を理解していない彼らのことを苦々しく感じ、軽んじていた。とはいえ庶民からすれば、どちらも雲の上の存在であることに変わりない。
全国に轟くボージェ社の名は、アリーのような無教養な子どもでも知っている。いくつも手掛ける事業の一つに、子ども用の玩具の製造販売があるからである。
そのボージェ社を率いる一族の仲間入りをすること。男爵家の令嬢となるべく教育を受けなければならないこと。父親には妻子がおり、継母と二歳年下の義妹と一緒に暮らすことになること。そして、次の街で着替えを買うことが、今のところアリーに告げられている決定事項である。
馬車はキャラバンが滞在していた町外れを抜け、街道をまっすぐに進む。
町を出るのは生まれて初めてだ。教会の隣の古びた孤児院がアリーのすべてだった。ちっぽけな世界。
ここで一生を過ごすのだと、あれほど悲観していたというのに、あっけなく抜け出してしまった。
農作業をする人たち、田舎道の脇に群生するハルジオンの花。そのうちに焼き立てのパンの香りが、どこからか風に乗って運ばれてきた。お腹がグゥと鳴る。朝から何も食べていないのだ。
「お腹が空いているのか」
ジェラルドが顔を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「孤児院の食事は、十一時と十八時の二回なんです」
アリーが答えた。
ぎゅっとジェラルドの眉間に皺が寄った。
「早く言え」
御者席の後ろにある小窓を開けて、急ぐように指示を出す。
鞭のしなる音の直後に馬車のスピードが上がり、ガタンと車体が大きく揺れた。
次の街でボージェ社の傘下の高級洋品店に寄り、ジェラルドとアリーは、上客しか入れない特別室に通された。
ここは金持ちの令嬢たちが、紅茶を飲みながらゆっくりと服選びをするための個室である。当然、菓子や軽食も用意されており、アリーは、この日、生まれて初めて白パンを食べた。
山羊乳のチーズ、ラズベリーのジャム、ミルク入りの紅茶。
ジェラルド主導で買い物が進められたので、食べ物の記憶ばかりとなったのは仕方がない。どんな服が必要なのかすら想像もつかないアリーは、好みの色を訊かれただけである。
ワンピースには上質のレース、髪に編み込まれた緋色のリボン――あれよあれよという間に着替えさせられ、気づけば、見かけだけはいっぱしのお嬢様となっていた。
そして、王都の邸宅に到着するなり、出迎えた家族と使用人たちに紹介されたのである。
「今日から一緒に暮らす娘のアリアンヌだ。よろしく頼む」
こうしてアリーは、男爵令嬢アリアンヌ・ボージェとなったのだった。