3 同じような日々でも変化はある
本日3回目の投稿です。
その日、アリーが刺繍工房から帰ると、皆の様子がいつもと違った。
ざわざわしていて落ち着かない。
好奇心と僅かな落胆が入り混じった瞳は、これまでに何度も経験した。
(今度は、誰なのかしら?)
アリーの疑問に答えるように、誰かが「ドニが……」と話すのが耳に入った。
「お帰りなさい、アリー」
一つ年下のアンナが袖を引っぱる。
「ただいま」
「聞いた? ドニがもらわれるんだって」
「どこに?」
「農家らしいわ。微妙よね。ここよりは、いいのかもしれないけど」
アンナが茶髪のくせ毛に指を絡ませながら、悩ましげに値踏みする。
孤児たちは、ほんの少しだけ夢見ている。
ひょっとしたらお金持ちに引き取られるのではないか。
裕福でなくとも優しい両親ができて、愛情深く接してもらえるのではないか。
そんなあり得ないことを期待している。
だから、今回も奇跡が起こらなかったとがっかりし、されども望まれて引き取られることが羨ましいのだ。少なくとも孤児院よりはマシな暮らしができると皆、信じている。
尤も、そんなふうに思惟をめぐらす年齢になる頃には、もう夢は潰えている。
我が子同然に育てるつもりなら、無垢な赤子が選ばれるに決まっている。悪知恵の働くようになった少年少女などお呼びでないのだ。
養子として農家に引き取られるのは、都合のいい働き手を欲しているのであって愛するためではない。
「農家なら果樹園がいいな。ブドウとか、桃とか」
「アリーは呑気ね。夏の炎天下で作業するなんて、あたしはまっぴら」
「刺繍機の糸通しで背が曲がる人生よりも、日焼けのほうがいいわ。それに、桃の盗み食いができるじゃない」
「それは言えてる。ああ、なんだかお腹空いたわぁ」
アリーとアンナは顔を見合わせて笑いながら、夕食の席に着いた。
ドニは今日もアリーの隣の席に座ったが、いつものように憎まれ口を叩くことはなかった。なぜかムスッとした表情を浮かべて、黙々と硬くなったパンをスープに浸して食べていたのだった。
翌朝、ドニは孤児院を出た。
「……元気でな」
「うん。ドニもね」
これがドニとの最後の会話だ。何か言いたげだったけれど、ドニは養父に呼ばれて踵を返してしまったし、アリーは洗濯するためにシーツを抱えていたので、ゆっくり挨拶をしている余裕がなかった。
それに孤児院にいれば、急な別れはままある。いちいち気にしていてはキリがないという事情もあった。
「だからって、アリーはあっさりしすぎ。でも、まぁ、ドニの自業自得か。いくら好きだからってあの態度はないわよねぇ?」
「ん?」
「あー、気づいてないならいいや。つまり、アリーは可愛いってことよ!」
アリーには、アンナの言うことがよくわからない。背が低くて痩せっぽちで、愛想のない自分を可愛いなどとは、つゆほどにも思えない。
自身の華奢な体つきや綿のように柔らかなストロベリーブロンドの髪、長いまつ毛に縁どられたダークブルーの瞳が、男たちの庇護欲を刺激するのだということをアリーは知らなかった。
ともかくドニの話題はそれで終わり、二度と顧みられることはなかった。
人は忘れる生き物だ。
ドニが農家へもらわれていってから半年も過ぎると、もとからいなかったかのように日々が回る。
その間にも何人かの子がもらわれていき、何人かの子が新たに入ってきたので、皆の興味がそちらに移ってしまったのだ。
くたくたになったお古の服を着て質素な食事をし、一日中慌ただしく走り回る。そんなふうに一見、代り映えのしない毎日でもそれなりに変化はあるので、アリーたちは、その変化についていくので精いっぱいだった。
「調子はどうだ?」
「だいぶ良くなったわ」
レオンが薬湯を持ってきたので、アリーは身体を起こした。
昨日の帰りに雨に降られたせいか、風邪をひいて臥せっている。発熱なんて何年ぶりだろう。
「苦っ!」
裏庭の薬草を煎じたもので、効果は高いが途轍もなく不味いのが難点だ。
アリーは鼻をつまんで最後まで飲み切った。
その様子を見たレオンは満足げに頷く。
「よしよし、これをやろう。さっき領主様から届いたんだ。ビスケットもあるぞ」
口直しのキャンディをコロンと舌の上で転がし、ほっと一息つく。
「ビスケットなんて、めずらしい。どうしたんだろう?」
領主が経済的に困窮するようになってからは、差し入れの頻度が激減していた。ほかの孤児院や救貧院にも配るため、ビスケットだけでも相当数用意せねばならず、かなり大変なはずだ。
「さあ? お貴族様の考えることなんて、オレたちにわかりっこないさ」
「それもそうだね」
アリーはそう言って、ビスケットを並べた皿ごとレオンに押しつけた。
「あげる」
「なんだ。ちゃんと食えよ」
レオンは、しかめっ面で皿をアリーに戻す。
「食欲がなくて。きっと、まだ胃腸が回復してないのよ。レオンが食べて。あたしはキャンディだけでいい」
「じゃあ、オレのと交換してやるよ」
「うん。助かる」
アリーは、レオンから両手で赤い包み紙のキャンディを受け取った。
ポリポリとビスケットを齧る音を聞いていると、だんだんと眠くなる。まるで子守唄のようだ。
瞼を閉じる寸前に見えたのは、食べかけの菓子を手に、心配そうな視線を投げてよこすレオンの青い瞳とキリッとした太い眉にかかる黒い前髪だった。
このとき、アリーは油断していた。
急な別れが起こり得る環境だったのに、レオンと会えなくなる未来がすぐそばまで迫っていようとは想像だにしていなかったのである。