2 アリーは親の愛を知らない
本日二度目の投稿になります。
稀代の悪女と貶められたフェレリ男爵夫人――アリアンヌ・フォルジェは孤児として地方の町で育った。
本名は、アリー。姓はない。ただのアリーだ。
生まれてすぐに母親が亡くなり、父親もいない。困った近所の住民たちによって、教会へ預けられたのである。
なのでアリーは、辛うじてレオニーという母親の名前だけは知ることができた。でも、それだけ。
母親の顔を憶えているわけでもなければ、当然、いつか迎えに来るのではないかと期待することもない。かといって、教会に併設された孤児院で、母親代わりのシスターに愛情いっぱいに育てられたわけでもなかった。
わんさかいる孤児たちにまんべんなく愛を注げるほど、彼女たちは暇ではなかったのだ。
領主であるロア伯爵家が没落寸前となり、かつてのように十分な支援が望めなくなったことから、院長たちは常に孤児院を維持するための金策に走り回っていた。
上の子が下の子の面倒を見るのが当たり前で、年長になると煙突掃除などで小金を稼いだ。
とはいえ、後年、法律によって規制されるまで、一般家庭であっても家計のために子どもが労働する姿は普通に見られる光景だった。皆が貧乏だったのだ。
※※
アリーは、ゆっくりと麦粥を口に運んだ。
今日初めての食事にありつくまでに、子どもたちは院内の掃除と洗濯を終わらせ、ボランティアの教師から読み書きを習った。
食事は昼と夜の二回。麦粥か、ボソボソした黒パンとスープだ。
質素この上ないが、毎食欠かさず食べられるだけまだマシだった。
支援金や寄付をくすね、虐待が常態化している孤児院もあるなか、ここは良心的だ。体罰を与えられることもなく、たまに差し入れられるクッキーやキャンディなどのお菓子は平等に配られていた。
「アリーはのろまだな」
早食いのドニが、隣でまだ粥をすすっているアリーを揶揄う。
アリーは小柄で物静かだったため、こうして絡まれることはよくあった。しかし、さすがに十二歳にもなるといじめっ子たちも成長してしまい、いまだにちょっかいをかけるのは同い年のドニくらいのものだ。
「やめろよ、ドニ」
アリーが言い返す間もなく、最年長のレオンがドニを窘めた。
「なんだよ、本当のことじゃないか」
「アリーが可愛いからっていじめるな」
「そ、そんなんじゃないやい!」
図星を指されたように顔を赤くして、ドニはプイと去っていった。
後姿を眺めながら、レオンはやれやれと肩をすくめた。
「ありがとう」
アリーは、かばってくれた礼を言う。
「グズ」だの「ちび」だのと冷やかされるたびに、守ってくれたのはいつもレオンだった。
アリーより二歳年上の十四歳である。法の定める養育義務は十五歳までなので、それまでに引き取り手がなければ、孤児院を出て自立するのが決まりだ。だから、一緒にいられるのもあと数か月のことである。
だけど、レオンは今働いている紡績工場で引き続き勤務する予定なので、遠くへ行くわけではない。面倒見がいいいので、ここへもちょくちょく顔を出すことだろう。そう考えれば寂しくはなかった。
「あいつにも困ったもんだ。いつまでも子どもみたいに」
レオンが大人ぶってぼやくのが可笑しくて、クスッと笑う。
「だって、まだ子どもよ」
アリーに指摘されたレオンが「それもそうか」と恥ずかしそうに頭を掻いた。
「アリーはこのあと工房かい?」
「うん」
アリーは夕方まで、近所の刺繡工房で刺繍機の針に糸を通す作業をしている。
手刺繍が主流だった頃は上流階級しか持てない貴重品だったのだが、機械で量産できるようになって以来、刺繍製品が一般にも普及したのだ。お陰で、工房は大忙しだ。
しかし、懸命に働いても子どもや女性は低賃金なので大した稼ぎにならない。
いずれ孤児院を出て住み込みとなったら、朝から晩までこき使われることになるだろう。仕事場には、重労働が祟って目が悪くなった者や背筋が曲がってしまった者がいる。
未来の姿を見ているようで、アリーは自分の将来というものにまったく希望を持てなかった。
「アリー、これ」
レオンがこっそりアリーの手の中に握り込ませた。感触でわかる。キャンディだ。
「でも」
「オレは、またもらえるから。早く仕舞え」
アリーが遠慮するのをレオンが押し切った。
街では子どもが大人の手伝いをすると、お駄賃やお菓子を渡す習慣がある。道案内や荷物を運ぶなど、ちょっとしたことだ。
工場で働くレオンは、先輩の煙草を買いに行ったりお使いを頼まれることがよくあるのだという。そのたびにアリーは、こうして分け前をもらっている。
ここでキャンディは滅多に食べられない贅沢品なので、皆にバレたら大変だ。
アリーは、慌ててポケットに突っ込んだ。
「ありがとう」
「内緒だぞ」
そう言われるとなんだか自分が『特別』になったような、むず痒い気分になる。キャンディを受け取った左の掌が熱くなっているような。
こんな気持ちを何と呼ぶのか、アリーは知らない。
なぜなら、今まで愛というものを教えられたことがないのだから。
「うわ~ん! ヤンがあたいの髪を引っぱったぁ~!」
テーブルの端っこで、突如、ニナが大泣きした。
揶揄ったり、揶揄われたり。こんな騒動は日常茶飯事だ。
「ったく、しょうがねえな」
レオンは二人のところへ行ってしまった。
やはり面倒見がいいのだ。
(あたしも、皆と同じよ。レオンにとって仲間の一人にすぎないわ)
そう結論づけたとたん、スッと熱の引いていく左の掌に一抹の寂しさを感じながら、アリーは皿に残った麦粥を匙ですくった。