18 アリー、王太子と出会う
夜会の一週間後、アリーはアルエ公爵邸の庭のガゼボにいた。
もう五月なのだと、花壇に咲くスズランを見て思う。
イデン王国には、五月の初めに大切な人にスズランを贈る風習がある。
孤児のアリーは、贈ることも贈られることもなかったが、この時期になると教会の裏でひっそりと花を咲かせているのを眺めることができた。
「アリアンヌさんは、ボージェ男爵のご息女でしたのね」
にこやかに笑いながら、アルエ公爵夫人は紅茶のカップを口に運んだ。
アリーも「はい」と返事をして、紅茶を啜る。
何とも言えない居心地の悪さを感じながらも、二人きりの茶会の誘いを断る勇気はない。
「うふふ、妹さんのデビュタントのために、宮廷の伝手を探していると聞いているわ。よろしくてよ。わたくしが紹介状を書きます。ボージェ社の製品もできる限り社交界で広めましょう。その代わり――」
アリーは、アルエ公爵夫人に怪しげな流し目を向けられ背筋がぞくりとする。
「これからも、こうして話し相手になってほしいの」
「もちろんですわ。アルエ公爵夫人に誘っていただけるなんて光栄です」
近づいてはいけない――そう忠告されていたのに、格上の公爵夫人相手ではアリーに逃げる術などないのだった。
ただの茶飲み友達にするために、ボージェ家に便宜を図るはずはない。
アルエ公爵夫人の狙いはなんなのか。自分は何に利用されようとしているのか。
そう、利用だ。年若い男爵夫人など、王妹である彼女にしてみれば物語の脇役にすぎない。
(きっと、何か目的があるはず)
アリーは、魅了をかけるべきかどうか迷ったが、彼女の真意を知ってからでも遅くはないと静観することにした。
アルエ公爵夫人が動いたのは、四度目のお茶会だった。
いつもは二人きりだったガゼボにもう一人、客人が座っていたのだ。
緑色の瞳は、アルエ公爵夫人とその息子のジェロームと同じ。加えて、目を細めた人懐っこい笑顔から、明らかに王家の血を継いでいるとわかる。
(まさか……王太子殿下)
アリーは、血の気が引いていくのを感じた。
王太子リオネルは、この国唯一の王子だ。モルーノ帝国第三皇女ジャクリーヌと結婚して六年になるが、まだ子はいない。夫婦仲は最悪と噂され、その原因の一つがリオネルの浮気癖にあると言われている。
今後もジャクリーヌに妊娠の兆候がなければ嫡流が途絶えることになるとあって、王室の悩みの種となっていた。
「リオネル、ご紹介するわ。こちらはフェレリ男爵夫人よ。我が家の夜会で仲良くなったの」
「ああ、フェレリ男爵の……」
リオネルから視線を向けられて、アリーは慌てて淑女の礼をとった。
「王太子殿下にご挨拶申し上げ……」
「畏まらずともよい。名前は?」
「アリアンヌ・フォルジェです」
顔を上げると、リオネルと目が合った。ニコッと笑いかけられ、アリーは反射的に微笑みを返す。
その横では、侍女がアルエ公爵夫人に耳打ちをしている。
アルエ公爵夫人は、ゆっくりと無言で頷いてからアリーとリオネルを見た。
「申し訳ないけど、少し失礼するわ。お二人は、先にお茶を飲んでらして」
急用なのだと、侍女と一緒に屋敷へと戻っていった。
その後姿を眺めながら「気を利かせたつもりなのだろう」とリオネルが言う。
「気を……?」
意味がわからずぼんやりとなる。
いつの間にか傍に来ていたリオネルに手を握られ、アリーは身を固くした。
ガゼボには二人きりで、離れたところに警備兵がいるだけである。
「既婚者なのに初心なのだな。まさか何も知らずに叔母上の誘いを受けたのか」
そのまま手を引かれ、ガゼボのテーブルの隣の席に座らせられる。
アリーの唖然とした顔を見て、リオネルが愉快そうな顔をした。
「時どき叔母上は、こうして私に女をあてがうのさ。君はどんな褒美をちらつかされて、この役を引き受けたんだい?」
「義妹のデビュタントの紹介状を書いてくださるとおっしゃっていましたけれど、特に何か頼みごとをされた覚えは……」
ないのです、という声は、リオネルの笑い声にかき消された。同時に繋がれたままの手に力がこもる。
「なるほど、ね。社交慣れしていない夫人にまで手を出すとは、叔母上にも困ったものだ。普通は『王太子の相手をしろ』なんてはっきりとは言わない。これまでは、それとなく察したうえで、少しでも自分に有利な条件を持ちかける強かなご婦人ばかりだったんだ。君は悪くないよ。叔母上に目をつけられたんじゃ、逃げられなかっただろうからね」
それでどうする? とリオネルの瞳が怪しく光った。
「どちらにせよ、近日中には私の火遊び相手の一人として、君の不名誉な噂が社交界でばら撒かれることになる。だったら、本当に――――」
「お戯れはおやめください。殿下がわたくしを愛せないことはわかっております」
そう言ってアリーは抱き寄せられた腕を振り払おうとするも、さらに強い力が加わり阻まれた。
「なっ……」
「しっ! どこかで叔母上たちが様子を窺っているから、このままでいて」
リオネルは柔らかい笑みを浮かべたまま声を落とし、驚くアリーに警告する。
「え……」
見られているのかと、ついキョロキョロしそうになる。
アリーが抵抗を止めると腰に置かれたリオネルの手からも力が抜けていった。
「そうか、君は知っているんだね。揶揄って悪かった。ローランの結婚相手だと思うと、なんとなく、ね」
「嫉妬ですか」
「そうかもしれない。だから君を一目見てみたくて夜会に呼んでもらった。それで、こんなことに巻き込んでしまったわけだ」
すまない、と王族らしからぬ謙虚さで、リオネルは謝意を口にした。
ブラン伯爵が目を瞑るほどの大物――――。
アリーは、夫ローランの愛人とこんなところで出会うことになるとは思ってもみなかった。




