1 プロローグ ~王太子の死
あくまでヨーロッパ風の異世界の物語です。
設定はゆるめですのでご容赦くださいませ。
王領の狩猟解禁が二週間後に迫った晩秋の朝、血相を変えた侍従長が、国王マリウスの寝所へ駆け込んだ。
長年の宮廷生活の間で彼が廊下を走ったのは、これで二度目だ。
一度目は王太子リオネルが誕生したときだった。
王妃の陣痛が始まって二日目の未明にようやく産声を上げたのだ。結婚四年目にしてやっと授かった待望の御子であったため、いち早く主君に報せようと気が急いだのである。
そして二度目は……。
「陛下、陛下っ。一大事にございます!」
ノックもせずに、いきなり扉を開けようとする侍従長を護衛が制止するも、そのただならぬ様子に一瞬の躊躇をみせた。その隙に、白髪交じりの頭髪の乱れもそのままに、扉の内側へと滑り込む。
「なんだ? 騒々しい」
起床時間にはまだ半刻早いが、マリウスは目を覚ましていた。身を起こした状態で、サイドテーブルにある水差しの水をコップに注いでいる。
侍従長の無作法を咎めつつも、その口調に怒りはない。
五年前に公務中の王妃ロクサーヌが暗殺されたときですら、ここまで取り乱すことはなかったので、それ以上のことが起こったのだと察しているのだ。
「王太子殿下がっ……リオネル様がお亡くなりになりました」
「なっ……!」
マリウスの手からコップが滑り落ち、ガシャンと音を立てて割れた。
このイデン王国は一夫一婦制である。そして、マリウスとロクサーヌの間に生まれたのは、リオネルだけだった。
嫡流が途絶えたことを慮れば、国王と侍従長のショックは相当なものと言える。
王家の血を絶やさないことを理由に伝統的に側妃を娶っていたのは、絶対的な権勢を誇った先々代の御代までのこと。側妃は無理でもこっそり妾を持てたのは前王までの話だ。
時代が移り変わり民意が尊重されるようになると、世界的な傾向として、民に寄り添う誠実で堅実な統治者が求められるようになった。
国費で側妃や愛妾を侍らす傲慢な暴君など、もはや過去の遺物となりつつあるのだ。
大衆受けを狙って、慎ましやかな生活ぶりと夫婦の仲睦まじさを必死にアピールしているのが、この世界の王家の現状である。その結果、側妃制度を撤廃する国が相次ぎ、男児に恵まれなかったため、王女が王位に就く例も増えた。
マリウスも浪費を避け、後妻を娶ることすらしていない。
それでなくとも先々代、先代と二代にわたって放蕩と失政を繰り返したため、この国の財政は破綻寸前のところまできていた。新たな妃に割く費用などあろうはずがなく、求心力の衰えた王家を立て直そうと苦心している。
その一方で、いまだに圧政を敷く一部の領地では、重税に反発した民たちの抗議活動が頻発していた。ときには、暴動に発展することもある。
それはマリウスの悩みの種であったが、領主権を盾にされると領政に口出しするのも容易ではない。
暴動への対処や各政策ついてマリウスとリオネルの意見が食い違い、ときには激しく言い争うこともあった。
つい一昨日も、臣下の前で口論する見苦しい姿を晒したばかりだ。歩み寄りのない二人の間に入った亀裂は、もはや修復不可能だと周囲からは思われていた。
だが、親子の情は別である。
マリウスは息子の死を悲しみ、静かに涙を流した。
リオネル王太子死亡の悲報は、瞬く間に世界中に広まった。
――リオネル王太子、フェレリ男爵夫人と心中か?
王都内にある高級ホテルの一室で二人が毒を飲んで儚くなっているのを、明け方、迎えに来た従者と部屋の鍵を開けたホテルの支配人によって発見されたのだ。
リオネル二十九歳。フェレリ男爵夫人は、まだ十七歳であった。
二人はベッドの上に並んで横たわっていた。
着衣の乱れも争った形跡もなかったことから、早々に事件性は否定されたが、世間は言いたい放題だった。
もともと王太子夫妻の不仲は有名であったし、リオネルの火遊びはめずらしいことではなかった。
ゆえに、堪忍袋の緒が切れた王太子妃ジャクリーヌによる殺人だったのではないか、とか。
実はフェレリ男爵夫人は敵国のスパイで、暗殺されたのだとか。
リオネルが人妻に横恋慕した挙句の無理心中説、国王マリウスとの確執による陰謀説まで飛び出す始末だった。
リオネルとフェレリ男爵夫人の遺書があったと正式発表されたあとも、噂はなかなか鎮まらなかった。
特に、フェレリ男爵夫人が爵位を金で買った成り上がり男爵の庶子だったことが広まると、社交界では「王子を誘惑した悪女」「死を誘う女」などと、あたかも王太子を死に至らしめた毒婦のように呼ばれた。
裕福な平民にとって爵位は憧れだったが、それを金で手に入れる行為は、この国の由緒正しい貴族たちにとって侮蔑の対象だったのである。しかも貧民との間にできた隠し子ともなれば、なおのこと。
ここぞとばかりに口撃されたフェレリ男爵夫人の評判は地に落ちた。
リオネルの遺書は、父親であるマリウス、妻のジャクリーヌ、親友のル・ベル伯爵に宛てた三通。それに対して、フェレリ男爵夫人は宛名のない一通の封書のみである。
『お許しください。愛する人のそばにいたいのです』
簡潔な文章が走り書きのようにしたためられていた。
夫の死にざまを知ったジャクリーヌは激しく憤った。
「全部あの女のせいよ!」
泣きながら手に持っていた扇を床に叩きつけ、気を失ったのだった。