すでに死んだ奴の名札をロッカーから外さないのはなぜだろう
入り口に一番近いロッカー前で着替えていた星野が急にそうつぶやいた。
片手をついていたのが、星野の隣のロッカーで、扉には『石井』と名前がついている。
石井は先月、海に釣りに行ったきり帰ってこなかったのだった。
車も釣り道具もそのままだったので、おおかた高波にさらわれたのだろう、と周囲は言っていたのだそうだ。
星野は半身ひねって奥のロッカーの列を透かすように眺めて、今度は少し大きな声で言った。
明らかに、佐々木に話しかけているのだろう。星野と佐々木以外には更衣室に残っている者はいない。
佐々木はため息を吐き出すように答えた。
「森本はトンズラしただけだろう? 死んでねえって」
「でもさ」
星野は面白がっている口調だ。
「アイツの会社、アッチ系の派遣だろ?」
頬を軽く人差し指でこすってみせた。
「偉いさんの葬式にも駆り出されたって言ってたことあったぜ、駐車場誘導でさ。スーツとネクタイと何だかよくわかんないバッヂ貸してもらったって、で、黒塗りの車が何台も来て、おっかない連中がずらっと並んでいた、って」
「アッチ系でもソッチ系でも、トンズラはトンズラだろ」
「アイツ、影薄かったしな」
星野は全然、人の話を聴かない。相変わらず薄笑いを浮かべている。
「あの派遣、高速道路工事の方にもたんと派遣してたって言うから、おおかた人柱にされちまったんだよ、朝早く、プレハブ横づけのマイクロに集められてそのまんま現場に連れてかれて」
佐々木は黙ってジーンズに足を通し、ベルトを締めた。
案外、星野の言っていることが本当なのかも知れない、それでも、佐々木は真剣に受け答えすることもせず、ただ、黙って着替えを続けていた。
トマスが更衣室に入ってきた。あれまだいたのね、とどちらに向けて言ったのかあやふやな感じだった。
トマスは気難しい日系アルゼンチン人だったが、なぜか佐々木は彼に気に入られていた。
「トマス、遅かったじゃん。ウンコしてたのかよ」
星野が半笑いでからかうと、トマスはぎろりとドングリ眼で彼をにらんだ。
「ホシノの尻ぬぐいをしてやってたのよ、ざけんな」
星野が中途半端にオイルを拭きとっていた箇所を再度、掃除してきたのだそうだ。
まったくさぁトマスは細けぇなあ、と他人ごとのように星野がうそぶいている。トマスはまた、むっとしたようだったが星野のような軽いタイプにはまともに取り合わないだけの分別は持ち合わせていた。
案の定、トマスは少し奥にいた佐々木の脇に寄ってきた。
「ササじい、一服して帰るんでしょ? ちょっとまっててよ」
「えー、お前着替えるの遅いじゃん」
「あんな狭いところにロッカー用意されちゃったから着替えにくいのよ。ホシノ、あんたガリガリだから奥でもだいじょうぶでしょ。アンタの隣、空いてるんだよね? そこに移りたい」
そう言いながら『石井』の名札を太い指でつついた。
「でもなんでこのカイシャ、死んだヤツの名札をいつまでも残しとくの」
「それだよ、それ、オレも疑問なんだよ」
星野がようやく話題に乗れた、といった顔でしゃしゃり出た。
「すぐ辞めるヤツばっかだし、派遣もロクなヤツ来ないし……こないだ三人も入って、みんなすぐ辞めたし。会社もロクでもないからな」
星野はふだん他からロクでもないと陰口をたたかれているとも知らず、そんなことを言って笑っている。それから、
「たぶんさ、入社希望者が見学に来た時に、総務が少しでも多く人がいるって見せたいためだけに、名札外さずに置いておくんじゃね?」
もっともらしい理由まで述べ始めた。
「いや」
奥に入ってようやく着替え始めたトマスが、首からシャツをぶら下げたまま急にこちらに首をのばして口をはさんだ。
「総務で思い出したよ、総務のカガミがさ」
「加賀見? あのうるせえオッサン?」
「あのうるせえ・こまけえ・チビミラーが言ったらしいけどさ」
トマスに勝手に改名されている加賀見、佐々木も正直苦手だったが、トマスの次のひと言にはおもわず絶句した。
「自分でしんじゃった、って言いに来るまではしんだ証拠がないから手続きしない、って」
「へー!」星野の目が丸くなった。
「マァジカヨ!?」
「マジダヨ」
ふたりですっかり外国なまりになっている。
「おいそれよかトマス早く着替えてよ、一服してさっさと帰ろうぜ」
ごめんなさいササじい、と意外に素直な口ぶりでトマスは首を引っ込めた。
工場の裏手にしつらえた喫煙所では、張りめぐされたビニルシートがバタバタと風にあおられていた。
辺りの闇にぽっかりと浮かぶオアシスにはすでにひとり、影が見えた。
「ヨーコちゃん、おつかれ」
灰皿の前の、まるまるとした小柄な女性が振り向く。
「今から千絵ちゃんとラーメン食べて帰るんだけど、トマスも来る?」
佐々木はあきれて口を出す。
「ヨーコちゃん、弁当食ったよね今日」
「もう三時間前だよ! おなか空くでしょ」
トマスはニコニコしている。ヨーコもトマスのお気に入りだった。
「だから体重減らないのよ、ヨーコちゃん食い過ぎ」
「トマスに言われとうないわぁ」
「夜中に開いている店なんてあるの?」
星野が聞くと、港の近くに屋台が来ているのだと言う。
「ササじいも食べていくんならボクも行くよ」
トマスのことばに、佐々木は苦笑する。「ないない」
煙草の煙を斜め上に吹き上げてから今度はヨーコに向き直る。
「ヨーコちゃん、それよか精密検査の結果出たんだろ? だいじょうぶなの」
ああ、とヨーコも同じように煙を吐き出してさらりと続けた。
「今度入院するんだよー、カガミーに伝えなきゃ。でも何て言われるか」
入院? と男どもは口々にどよめく。
どこが悪いのか、聞きたくもあり聞きたくもなかった。先月のいつだったか、青い顔をして食堂のテーブルに突っ伏していたのを一度目撃していたので、少し前から調子は悪かったようだ。
「だったらよけい、ラーメンなんてヤバいじゃんよ」
佐々木が言うと、ヨーコは楽しげに笑った。だってまだ食事制限されてないんだよ、お酒はやめてください、って言われてるけど煙草と食事はまだ、何も。そう言う彼女に
「そもそも煙草OKなんて言う医者がいるわけがない」
珍しく、星野がまともなコメントを述べた。
黄色い煙が排煙口からするすると引きずり込まれていく中で、工場内で時折聞く心霊現象の話になった。
いわく、目視の背後を誰かが通り抜けて行った感覚がしてふと振り返っても誰も通っていなかった、狭くて長い通路の向こうから呼ばれて行ってみたが人っ子ひとり見えなかった、食堂で急にコップがテーブルから落ちた、等々。
星野はそういった話がことのほか好きだった。先日あったばかりの新ネタですけど、と身を乗り出してくる。
ネタって何だよ、とヨーコに突っ込まれながらも、自分が二階の倉庫にひとりで入っていた時の話を始めた。
探し物をするために入った倉庫で、急に入り口のドアが音を立てて閉まった。すぐに開けられるだろう、と余裕でドアに手をかけた、だが、びくともしない。
「鍵がかかってしまったんだと思って……」
ふだんそこの二階には人が入らない。星野はたぶん、サボりに行ったのだろう。
大声で叫んだが人の気配が全くない。しかたなく、星野は倉庫にひとつだけついている小窓を開け、頭をできるだけ外に出して大声で助けを呼んだのだという。
たまたま交代で出勤してきた同僚に見つけてもらい、助け出してもらったのだそうだ。
「でも外から開けたら、鍵なんてかかってなくて、すっ、と開いたって」
星野の話を聞いて、ヨーコも鼻で笑っていたが(おおかた誰かのイタズラだろう、という目を佐々木に向ける)、続いた怪奇現象の話の流れで、星野がまたロッカーの名札のことを言い出した時、案外真剣な目になった。
「女子ロッカーもさ、そうなんだよね……」女子の方が入れ替わりは少ないし、長期にわたって勤務している人も少なくない、それでも大昔に辞めてすでに亡くなった人の名札がふたつほど、残っているのだそうだ。
「誰か、そこ開けて私物の片付けとかしていないのかな?」
佐々木は煙草をもみ消しながら言う。
石井の事故は急な話だったので、ロッカーには今でも彼の作業靴が残っていた。家族に返却される様子もなかった。
「いや……」
ヨーコが急に、遠い目になった。
あけても、いいのかな? どうなんだろう、ってちょっとね。
駐車場まで白い息がずっとあがっていた。
ヨーコと佐々木とは、たいがい横並びに停めることが多い。
じゃ、ヨーコちゃんお疲れ、と声をかけると、ヨーコはいったん開けた車のドアを閉めて、
「ねえ佐々木さん」
急に静かな声で言った。
アタシがもし、総務にちゃんと言えたら……名札は外してもらえるのかな?
答える間もなく、じゃあおつかれさまー、と彼女は車に乗り込み、暖気もせずにさっさとアクセルをふかし、真夜中の奥底へと帰っていった。
佐々木は出て来たばかりの工場を振り返る。
すでに次の交代勤務が始まっているようで、いつものように窓から明かりが漏れている。
どこか地響きにも似たモーター音が足元に響く。
考えても仕方のないことはあるのだ、と佐々木は車に乗り込み、家族の待つであろう家路についた。