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銀メダルスイマー、泳ぐ

作者: 沼九郎

彼はタッチと同時に電光掲示板を見る。


2位 池田茂 2分11秒41


決してタイムとしては悪くなく、関東大会でも十分に戦える速さだ。

しかし彼は浮かない表情をする。彼にとっての問題はそこではない。自分の上に光る2分10秒88という数字、佐々木勇だ。同じ中学校に通う彼とは今年になってからもう何度も大会で戦っているが、1回も彼を越えられない。ここで何としてでも彼に勝利して周りからの注目を受けて最後の大会に望むという彼のプランが音をたてて崩れていった。


池田茂は幼い時からこの県の水泳界のホープであった。幼稚園児の時に水泳を始め、最初は水に入るだけでも楽しかった。そして池田はめきめきと成長し、小学1年から中学2年まで水泳の華型と呼ばれる200m個人メドレーで県大会を8連覇、関東大会でも表彰台にたつなど、まさにこの県を引っ張っていく存在となった。周りの人間は彼に期待するようになり、また彼も期待されることが嬉しかった。

しかし今年、彼が中学3年となった時、事態は一変する。佐々木勇の登場である。

決して彼は入学当初から速かった訳では無い。むしろ遅い方であっただろう。しかし彼は着実に、また確かな足取りで1歩、また1歩と池田の背後へと忍び寄る。そしてある時、この県のエースは彼となった。そしてそこから池田が彼に大会で勝利することはなかった。


暫しうつけていた池田はハッと思い返すとプールから上がり更衣室へと向かう。その途中で佐々木と出くわす。

「ナイススイム。」

彼はいつものように池田にそう言った。これは彼にとっては純粋な感情であるのだろう、だが池田はポジティブな感情では受け取れない。もう何回彼のその言葉を聞いただろうか、1年前までは気にも留めていなかった言葉だからこそ、今の池田を痛めつける。

しかし池田はそんな事はおくびにも出さず、

「ありがとう」とだけ返す。同じ中学、同じ部活ではあるが個人競技という特性上、特段彼と話す訳では無い。

空気に耐えられなくなった池田は「ちょっとトイレ。」とだけ言ってその場を離れる。しばらくして戻ると、彼は顧問と何かを話していた。


「今回も佐々木と池田は他と大きく差をつけて1位、2位と素晴らしい結果だな。」

帰りのバスでの顧問のそんな言葉は池田の耳には入らない。何が素晴らしい結果だ。

「今回の結果が良かった者もあまりだった者も切り替えて再来月の総体に挑め。次の大会がお前たちの中学生活の集大成だ。そこで結果を出せるよう残りの日々も練習を大切にしよう。」

総体。結果。その言葉が大きく池田にのしかかった。


総体。それは毎年夏に行われる全国大会であり。県大会、関東大会を勝ち上がった精鋭達が集まって行われる最高峰の大会である。そして池田はこの大会の200m個人メドレーを8連覇していた。しかし池田にとってそんな事は大した事ではなく、関東での戦いの事のみを考えていた。そう、去年までは…


放課後顧問から職員室に呼ばれた佐々木と池田に、関東中学生練習会の連絡が来たのはその3日後だった。毎年総体の前に関東の各県から全国大会に行く見込みのある者を呼んで行われる練習会。去年までは池田だけだったのが今年は彼も呼ばれていた。

「君たちはこの県のエースなのだから胸を張って行ってきて欲しい。」

池田は顧問の言葉を苦虫を噛み潰したような気持ちでその言葉を聞く。池田にとってエースは自分1人であり、自分1人でなくてはならない。

「わかりました。頑張ります。」佐々木の熱の入ったその言葉で我に返った池田は、少し遅れて「頑張ります」とだけ言って職員室を出た。

「こんなのに呼ばれるなんて初めてだよ。」

期待と興奮が混じった声色で彼は続ける。

「池田はもう何回も行っているのだろう?是非色々教えてくれ。」

池田の事を越えても越える前と何も変わらない態度で彼は池田に接する。池田は苦し紛れに「ああ。」とだけ答えた。


群馬県の山奥にそのプールはあった。どんよりとした雲で太陽が見え隠れする微妙な天気だが、この屋内プールなら関係ない。主にプロなどが練習に使うそのプールは隅々まで手入れが行き届いており、水も片方から逆側が見えるほど透き通っている。

「こんな綺麗なプールがあるのか。」

佐々木はすっかり興奮している。「そんなはしゃぐなよ。」そう言っている池田もこのプールで2日間泳げると思うと密かに胸を高鳴らす。しかしそんな気持ちは粉々に打ち砕かれた。

「先に着替えてるぜ。」とだけ言って池田は一足先に更衣室へと向かう。流石プロも使うプールだ、更衣室も完全に1人1人完全に別れており、中は全く見えない。池田は1番手前の個室に入ると、着替えを始める。

「佐々木ってやつが来てるらしいぜ。」

誰かが会話をする声が聞こえた。池田はハッとして着替えている手をとめ、息を潜める。同じように練習会に来た、2人組の中学生のようだった。

「なんでも、この間の大会で去年から8秒近くタイムを上げて1位らしいぞ。」

「ああ、更に今年に入ってから出た大会は全部1位らしい。」

悪意のないナイフが池田を貫く。

「まじかよ、県大会、しかもメドレーでそんな事あるんだな。」

「俺も信じられないよ。この練習会、間違いなく彼が1番成長を期待されているだろうな。」


1位。期待。そんな言葉が彼にどんな物としてのしかかるのかを想像するのはのは容易であった。池田が8年間積み重ねて来たものが、音を立てて崩れる。俺は何の為に泳いで来たのか、そして今なぜ泳ぐのか。全てが分からなかった。

何もかもが崩れた心を必死に支えながら池田は着替えを終えて外へでる。プールに向かう時に佐々木とすれ違った。

「頑張ろうぜ。」

少し浮つきつつも普段通り淡々とした口調で彼はそう言う。急に話しかけられ少し驚いた池田は「おう。」と言いたかったが声が出せず、何も言わずに通り過ぎてしまった。練習会が始まる…






何も、出来なかった。ここまでの差が出来たことが信じられない。それは1年振りに戦った他県の選手への言葉では無い。むしろ彼らとはほとんど力関係は変わっていなかった。

だからこそ彼の1人舞台であった。最初に全員でタイムを測る時、圧倒的なタイムで1位をとった佐々木はそのまま会場の注目を一心に受け続けた。今日の主役は、彼だった。

尚もその事を認めたくない池田は、コーチに無理を言って練習の後にもう一度タイムを測らせて貰う。

スタートの飛び込み台に立つと、奥で別のコーチと佐々木がこちらを見ながら話しているのを見つける。静かな闘志が湧き出る。

スタートの合図と共にプールへと飛び込む。得意なバタフライを終え、ターンをして背泳ぎへと映る。まだ彼はコーチと話しているようだ。一体何を話しているのだろう。

そんな事を考えていると、自分の頭上にフラッグが見える。彼は慌ててターンの準備をするとそのまま平泳ぎ、クロールへと移る。


2分10秒85 自己ベスト。そして彼の大会のタイムを超えた。

そんなことを考えていると、彼がスタートの飛び込み台に立つ。なるほど、さっき話していたのはそういう事か。1人で池田は納得すると、邪魔にならないようにプールを出る。そしてスタートの合図と共に彼もプールへ飛び込んだ。


2分09秒53。聞いたことがないタイムだった。コーチが泳ぎ終えた自分達に寄ってくる。

「君たちのタイムならかなり高い水準で大会でも戦えるだろう。」

また君「たち」。池田は叫びそうになるのをグッと堪える。そして掠れた声で

「ありがとうございます。」とだけ絞り出す。佐々木も、

「ありがとうございます。」と続く。もう夜も遅いから…とこれ以上の解説は明日となった。


彼と共に更衣室へ入る。気まずい沈黙は相変わらずだが、池田にそんな事を気にする余裕はない。すると佐々木がおもむろに

「自己ベスト更新おめでとう。ナイススイム。」

と言った。もちろん彼は池田を嫌っている訳では無いし、何か会話をしようと彼が努力してくれたのだろう。ただ、その言葉は今の池田の最後のブレーキを壊した。

「なぁ、お前と俺は何が違うんだ?」

思いがけない言葉が急に飛んできたことに、彼は驚いているようだった。池田は続ける。

「この間までは俺が1番だった。ずっと俺が1番だった。みんなが俺の事を見てた。俺が期待されていたし、俺も俺を期待していた。そして俺は何よりお前が…」

そこまで捲し立てて池田は我に返る。一体自分は何を言っているんだ。池田は呆然とする佐々木に「ごめん。」とだけ言って更衣室を後にした。


日はすっかり沈み、辺りは暗くなっていたが、月は一切見えない。ホテルの自室に戻ってからも池田は落ち着かなかった。それもそうだろう、池田にとってこんなことは初めての経験だった。切り替えようとレストランへ行くが、生憎レストランは休みのようだ。そういえばこのレストランは空いていないからご飯を各自で買いに行くように言われていた。池田はそれを思い出すとコンビニへと向かう。

コンビニでご飯を買い、自室でご飯を済ませた池田は、相変わらず落ち着かない。テレビを付けるも、映像が流れるばかりで何も頭に入らない。楽しめるような精神状態ではない。流石に池田はこのままでは良くないと思い、ホテルに併設する温泉でリフレッシュをしようと考えた。

このホテルには1階と屋外に2つ温泉があるようだった。多くの人は景色が綺麗な屋外の温泉に行くようだが、人と会いたくなかった池田は、敢えて1階の温泉へと足を運ぶ。


予想通り、1階の温泉には誰もいなかった。体を流し、湯船へと入って心と体を休める。すっかりリラックスした池田は、目を閉じた。





「池田くん。」そう呼ばれた気がして池田は目を覚ます。どうやら寝てしまっていたようだ。相当疲れていたのだろう、などと考えつつ前を見ると、彼がいた。

「大丈夫?」佐々木はいつも通りの口調で言う。例え話しかける相手が先程自分によく分からない事を口走った人間でも。

「ああ、ありがとう。」と消え入る声で答え、逃げるように温泉から出ようとした池田に、佐々木は

「待って。」

と引き止める。そんな事を言われるとも思っていなかった池田は、驚いて立ち止まり、彼の方を向いた。彼は続ける。

「どうしてさっきはあんな事を言ったんだい?」

純粋な疑問。池田は何も答えられない。

「決して怒っているわけではないんだ。ただ君がどんな思いでああ言ったのか気になって…」

ここまで純真な相手を困らせたのに、流石に何も答えない訳にはいかない。池田は少しづつ話し出す。

「自分でも、分からないんだ。

何が分からないかも分からない、ただ今までずっと1番で、それが僕にとっての普通で、それがある時急に壊れて、けどそれはしょうがないことで、けどそれで自分が1番じゃなくなることが怖くて、けど…」

そこまで言って池田は佐々木の方を見る。佐々木は何も言わずにただこちらを見つめる。そして

「分かった。話してくれてありがとう。」とだけ言った。そして2人とも湯船に浸かる。お湯が流れる音のみが響き渡るこの空間は、妙に心地よかった。




10分程経って、「そろそろ上がるか。」と2人は温泉から上がる。更衣室で着替えていると、佐々木が、

「小学校に入った時は全く泳げなかったんだ。」と話し始めた。池田は驚きながらも黙って話を聞く。

「それでもプールは楽しくて、だから沢山練習して、それで6年生の時に泳げるようになったんだ。」そうだ。思い出した。佐々木は中学に入部した時クロールと平泳ぎしか出来なくて、皆に笑われていた。

「そこから中学校に入って、水泳部に入った。皆速くて、僕はどんどん置いていかれて…」

悔しくて沢山練習したのか、と勝手に池田は結論付けたが、次に佐々木から出てきたのは、池田には意外な言葉だった。


「楽しかったんだ。自分より泳ぐのが上手な人が沢山で、皆が色々教えてくれて。それを実践すると本当に速くなれる。」


「池田君の今の気持ちはよく分からないし、失礼なことだろうけど、これだけは言わせて欲しい。」


「池田君は僕とじゃなくて、池田君自身と比べればいいんじゃないかな。」


当たり前の言葉。ただ、それは池田を今までの絶望から引っ張りあげる。

楽しい、成長が。こんな簡単な事を忘れていたのか。

「もちろん、他人と比べてタイムが速くなる人もいると。だけどそれだと必ずどこかで躓くと思うんだ。だったらそんなのどうだっていい。他人なんて見なければいいんだ。」

佐々木の言葉の一語一語が池田に過去の自分を思い起こさせる。そうだ、どうして自分は水泳を始めたんだ。

期待なんかされなくてもいい。結果も出なくていい。とにかく自分が納得いけばいい。

「…ありがとう。」

池田のその言葉には力があった。


次の日、池田は朝一番に昨日の反省会をコーチに求める。

「背泳ぎが少し弱点だな。」

「やっぱりそうですか。」

「お、ちゃんと分かっているのは偉いな。じゃあ今日はそこを重点的にやろうか。」

「あ、それは大丈夫です。昨日原因がハッキリしたので。」

「それなら良かった。ところで何が原因なんだ?」

「自分を見ていないことですね。」

「…は?」

コーチの困惑をよそに、「それじゃあ練習してきます。」と池田は更衣室へと向かう。

更衣室で着替えを終え、プールに向かおうとする池田の前に、佐々木がやってくる。

「「頑張ろうぜ。」」

それだけ言って、池田は透き通ったプールに飛び込む。


プールの水はいつもより綺麗だった。


いかがでしたか?

初めての投稿and執筆だったので不自然な所もあったと思います。

それでもいいと思った方は是非次回も読んで頂けると嬉しいです!(いつになるかは分かりませんが…)

ここまで読んでくださりありがとうございました!

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