いつものコンビニ
その女子高生と思しき少女は、深夜のコンビニにいた。
見た目は、それこそどこにでもいそうな『フツーの女子高生』だった。
半袖のセーラー服に、雑多なマスコットを下げたネイビーカラーの鞄。
髪色は黒で、多分染めてないのだろう。
最高品質のキューティクルのみが作れる完璧な天使の輪が、LEDの明りに照らされてくっきりと浮かんでいる。
顔は----前下がりのボブのせいでよく見えないが、その事を抜かせば、まぁ、とにかく、ぱっと見は、フツーだ。
ただし、その様子が、いささかフツーではなかったが----。
少女は、調味料の棚の前で力なくしゃがみ込んでいた。
もっと詳しく言えば、スカスカになってる醤油だのお酢だの味醂だのの棚の前で、がっくりと項垂れているのだ。
(見た事ない制服ね……)
まるで限定スイーツが売り切れでもしたかのようながっくりオーラが半径一メートルの範囲をびっちりと満たしていて、私はアルコールの棚の前で首を傾げた。
(……駅前からわざわざこの店まで来たのかしら?)
このコンビニは寂れた住宅街の奥にある。
行きつけというほどではないが週に五日は来ているので、この時間帯にいる客の顔は、したくなくてもなんとなく把握しているのだ。
(ま、ここの品揃えが悪いのは今日に限った事じゃないし、オーナーがマンション経営の片手間みたいにやってるコンビニだから、万事呑気なのよねぇ……ご愁傷さま)
私はストロングゼロを一本手に取り、そのまま真っ直ぐレジに向かった。
弁当コーナーを見ても大した食欲は湧かないし、夕食(と呼ぶには遅すぎる食事)は残業中にカロリーメイトを齧ったのをカウントしていいのなら、もう済ませている。
(やだやだ……週に五日しか来てないのに、この店の常連みたいな気分になっちゃったの、我ながらキモいっつーの……)
一人で苦笑いしてレジカウンターにストロングゼロを一本、ポンと置く。
堂々と置くのがコツである。
「っしゃっせー」
出て来たのも、これまたいつもの学生風のニキビだらけのバイトで。
この時間だからなのかは知らないが、いつも眠そうな顔をしている。
「あ、袋ください」
「……ッス」
(この子には絶対、ストロングゼロおばさんとか、なんかそのまんまな渾名くらいは付けられてそう……)
悲しすぎる想像をして一瞬軽く落ち込みながら会計をしてもらうのも、もう慣れたものだ。
くたびれたOLが、毎晩つまみもなしにストロングゼロを買う----なんだか、いらすとやのイラストにありそうだが、探したくはない。
(いや私だって本当はスーパーとかでまとめて買いたいんだけど、この辺は年寄りが多いからスーパーが閉まるの早いじゃない? ブラック勤めにはハードルが高すぎるのよ)
誰に向けてなのかよく分からない言い訳をしながら、私はまた件の女子高生をちらりと見る。
ストロングゼロなどよりはタピオカなんちゃらの方が100万倍似合いそうな彼女は、相変わらず調味料の棚の前で脱力している。
(どんだけ落ち込んでんのよ……あ、もしかしてこんな時間においなりさんの下ごしらえをしようとしたら醤油を切らしてたとか? あれ、明日運動会とかあったっけ……?)
個人商店を営んでいた私の実家では、運動会の時期になるとうっかり買い忘れをした客が何度も夜中に店の戸を叩き、パジャマの上にカーディガンを羽織った母が対応するというのが恒例だった。
(いやいや、明日は木曜日だし……運動会はないか……)
絶対に会社勤めをしようと心に決めていた頃は、OLとはカレンダー通りに休みが取れるものだと信じ込んでいた。
もしチャンスがあるのなら、高校生の頃の私に会いに行き、このクマだらけの私の顔を見せて絶対にIT系には近寄るなと盛大に脅しておきたい。
いや----もう二度とITのIの字も浮かばなくなるくらいに脅しておくべきだ。
よりにもよってSEなんかになってしまった私がバカだった。
(もう、運動会が何月かとかなんて、すっかり分かんなくなっちゃったな……)
それどころか毎日家と職場を往復しているにも関わらず、あれだけ巷に溢れているというタピオカドリンクの現物すら見ていない。
「ありあとっしたー」
バイトが投げて寄越すやる気のない挨拶も、私にとってはちょうどいいのだろう。
コンビニを出ると、少し風が出ていて、私は肩を竦めてコートの前を合わせる。
(よし、明日はもっと早く帰ってスーパー寄って野菜でも買って、ミネストローネとか……なんかこう……そう、健康的な夕食を作ろう……うん……)
毎回のようにそう思い、そして翌日またこうしてここに来てストロングゼロだけ買って帰る訳だが。
とりあえず、思うだけならタダである。
(あーあ……今更結婚なんか別にできなくてもいいけどさ……もし女でもお嫁さんがもらえる世界とかだったら、ねぇ……?)
今夜も人通りはない。
終電の時間はとっくに過ぎていて、家々の明りもほとんど消えている。
煌々と明るいのは今出て来たコンビニくらいだ。
(一人でいるのは慣れてるけど……慣れてるけど……そういう事じゃないんだよなぁ……)
我ながら他力本願にもほどがある願望だとは分かっていても、こんな夜にはふと、いや、しみじみ思ってしまうのだ。
(まぁ、特に誰かがいいとかじゃないけど……家に帰ったら可愛い子が待っててくれて、料理とか洗濯とか掃除とか……とにかくぜーんぶやってくれてたりしたらいいのに……)
本当は分かっている。
今の会社を離れれば、たぶん今よりも人間らしい暮らしができる。
自分の時間を使って、自分のためだけに何かをする事ができる。
でも----私はその結論を今夜も先延ばしにする。
(贅沢は言わないから、人間じゃなくても……なんなら化狐とかでもいいから……来てくれないかな、可愛い女の子……なーんてね……)
三十過ぎたOLがこれから先の人生を真剣に考えるには、この夜風は侘しすぎる。
「さてと、現実逃避はほどほどにしますか……」
その時だった。
「まッ、待って……ッ!」
女の子の叫び声と同時に、私はいきなり後ろから抱き付かれていた。
「あのッ! 怪しい者ではないですッ!」
「は? えッ!?」
そんな事言われても、夜道で後ろからいきなり抱き付かれて、ああそうですかと大人しく待つ人間もいないだろう。
当然私も、半ば無意識に抵抗していた訳で----。
「お願い! 待ってください……ッ!」
「何ッ!? やめて……やめてってば……ッ!?」
ゴスッ!
ジタバタしてレジ袋を振り回していたら、鈍い音と共に気持ちいいくらいの手応えが掌まで伝わって来て----。
いきなり抱き付いてきた何者かは、私の後ろであっさりと崩れ落ちた。
「……ちょ、えッ!? えッ!?」
慌てて振り向くと、倒れているのはさっきまでコンビニにいたあの女子高生だった。
「……え、えッ……? これ、私のせいなの……?」
完膚なきまでに伸びている女子高生というのも、なかなか見るものではない。
しかも、やったのは私だ。
「そ、そんな……」
私の手からレジ袋ごと落ちたストロングゼロが、ゴロゴロと重たげな音を立てて転がって行く。
傷害だとか過剰防衛だとかいう文字が頭の中をぐるぐる回り始めて、寒いはずなのに変な汗が背中をツーっと伝うのが分かった。
(と、とにかく……救急車を……あ、あとはこの子の連絡先とか名前とか、そういうものが分かる物を探さなきゃ……!)
半ばパニックになりながら少女の制服のポケットを漁ろうとして、私は、コンビニで抱いた違和感にやっと気付く。
今は十一月なのだ。
なのにこの女子高生は、半袖のセーラー服の上に何も着ていなかった。
私は慌てて着ていたコートを脱いだ。
「しっかりして! 今救急車を呼ぶからね……ッ!」
仰向けにした少女の顔は蒼白で、人形のようだ。
どちらかと言えば日本人形寄りで、たとえば着物が良く似合いそうな、少し古風な雰囲気をしている。
「大丈夫? 寒くない?」
コートを首から下に掛けてやって尋ねると、少女の目がうっすらと開いた。
「あ、良かった! 今ね、救急車……ッ、呼ぶから……!」
「……お願い……人間……は……呼ばない……で……」
それだけ絞り出すように答え、少女は、今度こそ本当に、がっくりと気を失ってしまう。
「え、どういう事!? ねえッ、ちょっとッ! 大丈夫なのッ……!?」
ぐるるるる……ぐきゅぅ……!
帰って来たのは返事ではなく、お腹の鳴る漫画みたいな音。
「……えぇ……!?」
私は途方に暮れたまま少女を抱きかかえ、アスファルトの上のストロングゼロを見詰めていた----。
結局、私は気絶したままの少女をアパートまで連れて帰ったのだった。
いや、本当のところは道端にそっと寝かせてそのまま見なかった事にしたかったのだが、絶妙のタイミングで雨が降り始めてしまい、なし崩しで部屋まで背負って来てしまったのだ。
「ただいまぁ……」
鍵を開け、明りを点ける。
誰もいない部屋に声をかけてから入るのは、単なる習慣だ。
実家を出て一人暮らしを始めてからこのかた同居人はいないし、他人を部屋に上げた事もない。
帰宅も遅いし、鉢植えは買って二週間で枯らし、メダカをもらってベランダで飼っていたら半月でどこかの猫に食べられたので、ペットを飼う事もとうに諦めている。
要するに、帰って寝るだけの部屋である。
「……うぅ、重かった……」
息を切らせながら私はセーラー服の女子高生をベッドに横たえる。
相変わらず気を失ったままだ。
「あ、靴脱がせてなかった……」
傷だらけのローファーを三和土に置いた私は少女の鞄を漁り、大きな溜息を吐いた。
身元の分かる物は、一つも見付からなかった。
鞄は空っぽで、スマホも、定期券も、財布すら持っていない。
よほど重たいものを詰め込んでいたのか、今どきの女子高生にしては型崩れした鞄の中は、空っぽだった。
ひょっとしたらいけないおクスリとか拳銃の一つも出て来てしまうのかも、なんて思っていたけれど、何も持っていない方が実は恐ろしいのだと、私は初めて思い知る。
「うーん……やっぱりこれってマズいよねぇ……」
訳アリどころの騒ぎではない。
犯罪の匂いすらするヤツだこれ。
私は頭を抱える。
「これってやっぱり、問答無用で警察に連れて行った方がいいんだろうなぁ……」
こういう面倒事は一番苦手なのに、なんで私はこんな面倒事の塊みたいなのを連れ帰ってしまったのか。
「あぁ、私のバカバカバカ……もういいや、さっさと通報だ……!」
意を決して、床に置きっぱなしのバッグからスマホを出そうとして、
「……あれ?」
布団を被せていたはずの少女の姿がなかった。
「……はい?」
そして代わりに----布団の下から灰色の猫耳が、ぴょこっと飛び出していて、私は眼鏡を外し、ごしごしと目を擦った。
半分剥いだ布団の下には、灰色の猫が一匹、力なく横たわっている。
私、気が付かないうちにストロングゼロをもう飲んでいたのかもしれない。
いやいやさすがにそれはないでしょ。
私まだそこまでアル中じゃないし! 毎晩一本だけって決めてるし!
いや、だって、さっきまで寝かせていた女子高生が消えて、代わりに猫が布団の中で寝てるとか、ありえないでしょコレ?
「えぇと……どうしよう、私、もう寝た方がいいのかな……?」
あまりに混乱し過ぎて、つい猫にそう聞いてしまうと、
「うな……」
弱々しい声で、猫が応えた。
「うな……うな……」
何かを必死に訴えるかのように、状態を起こし、私を見上げ、か細く鳴いている。
「どうしたの? 何かして欲しいの?」
「……うな」
あっ、そうか、お腹が空いてるのかもしれない。
私は冷蔵庫を覗き、牛乳を引っ張り出す。
「お皿……じゃ飲めなさそうだよね……スポイトなんて家にないし」
牛乳をティッシュに染み込ませて猫の口元まで持っていく。
ぷいと顔を背けられてしまった。
「……ダメか」
でも、見るからに弱っている。
少しでも栄養を付けないといけない状況だというのは、私にも分かった。
「でも、牛乳がダメなら何ならいいのよ」
そう呟いた時、猫の尻尾が布団とシーツの隙間から重たげに覗いた----しかも、二本。
「……なんでアナタ尻尾二本もあるのよ!?」
剥いだ布団の下から出て来たのは、付け根から二本に分かれたゆらりと長い尻尾。
「ば、化け猫……!?」
思わず叫んでしまってから、慌てて両手で口を押える。
なにせ壁のうっすい賃貸だ。
三十路の毒女が突然夜中に訳の分からない事を叫んでいるなんて、もし私が隣人なら(どんな人か未だに知らないけど)良くて引っ越しを真剣に考えるか、悪ければ即110番である。
「うな」
二本の尻尾がパタパタとシーツを叩いた。
「そ、そうだったのね!? それなら、化け猫の好物と言えば、油ね……!」
思わずハイテンションで応えてしまったが、私はこの部屋で揚げ物なんかした事がない。
「えぇと……油……油……」
ない。
「マーガリンじゃだめ? ダメっぽいね」
冷蔵庫の中は諦めて、私は流し台の下に頭を突っ込む。
「待ってね……確か去年、いや一昨年か……後輩の子が新婚旅行のお土産でね……あっ、いて……ッ」
三回くらい派手にパイプに頭をぶつけながら、私は漸く探していた物を見付ける。
「これ! イタリア土産のオリーブオイル!」
なんかさっきより弱ってる。
とにかく試してみるしかない。
「……これでダメなら、悪いけど、諦めて」
目を閉じてしまった猫の口元を、祈るような気持ちで油を含ませたティッシュで湿らせる。
「お願い、舐めて」