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三十八ページ目:誘われるままに

 その後、ぶらぶらと街を見て回りながら適当に夕飯を済ませ、部屋に戻ってきた俺とシキは早々に就寝することにした。寝た、筈だった。寝たつもりだったのだが。


「────」


 見渡す限りの真っ暗な闇。

 暗くて見えないのか、それともただただ真っ黒な景色が広がっているのかは分からないが、視界は黒一色に塗りつぶされている。目を塞がれているというわけではない。寝た筈なのにやけに意識は明瞭で、それまであった筈の眠気はどこかへ行ってしまった。果たしてここは、夢の中なのだろうか。

 身体は自由に動くが、歩くことはできなかった。否、もしかしたら歩いていたのかもしれない。だが変わることのない視界と、踏みしめた感覚もない地面(?)ではそれも定かではなかった。

 何もかもに現実味がないから夢だと信じたいところだ。もし仮にこれが現実だとしたら、俺はこの謎空間に拉致られたって可能性もあるしな。そんな怖いことは起こっていないと思いたい。


「──やはり奇妙な色をしておる……嗚呼、本当にあの方らしい……」


 そんな真っ黒な世界に突如音が生まれた。その声は耳に入るだけでぞくりと肌が粟立ち、脳がとろけていくような気がした。なんだ、これ……?

 どくんどくんと身体が大きく脈打っている。得体の知れぬ熱が身体の奥底から湧き上がっていく。この感覚はまさか。いや、そんな馬鹿な。声だけでこんなことになるなんて、そんな。


「それにこれは……こんなに過保護とは思わなんだ。全く、あの男が面白いだなんて不愉快だ」


 ヒッ!?

 その凶悪的な声が耳元で囁き俺はたまらず悲鳴を上げた。上げたはず。上げたと思う。俺の声は音として発せられなかったような気がするけれど。

 やばい。くらくらする。どこまでも甘いその声が全身を溶かしていくような、そんな感覚に襲われる。声が聞こえる度に頭が真っ白に塗りつぶされていくようだ。何が起きているのかは全く分からない。ただ、自分がこのままどうにかなってしまいそうな焦燥感と、恐らく快楽として身体が認識している謎の感覚がぐちゃぐちゃになって俺のことを壊してしまいそうなのは確かだった。

どこかへいったきり戻れなくなってしまいそうだ。怖い。とてつもなく怖い。どうすることもできないほどの大きな波が押し寄せてくる。この波に飲み込まれたら俺は──


「おや、人の子には少々刺激が強すぎたようだな……どれ、もう少し弱くしてやろう」


 クスクスと笑う声が聞こえたかと思えば、先程までのどこかへ飛んで行ってしまいそうな感覚が少し和らいだ。相変わらず声に反応して身体がぞくぞくと震えるし、気を抜けば頭の中が真っ白になりそうだがそれでも先程よりはましだ。なんせ、周囲を見渡す余裕がある。

 いつの間にか俺の真横には、美しいと表現することすら烏滸がましい、黒髪の人物が表情の読めない目で俺のことを見つめていた。見つめられるだけで神を讃えるような言葉を叫んでしまいたくなる。歓びのあまり涙が出そうだ。どうしてなのか分からない。今すぐこの人物を崇めたいと全身が叫んでいる。己の罪を裁いていただかなければならないと、身体が、心が、自分自身の死を望んでいる。

 分からない。

 訳が分からない。


「これでもまだダメか? 人の子の弱き事……嗚呼、だから愛らしいとあの女は云うのか。まあ良い。余をしかと記憶に刻み込める人の子などおらぬ。安心して忘れるが良い。それでも……そうだな、その涙か、或いは面白いものを見せてくれたあの男に免じて余の名ぐらいは伝えておいてやろう。余を讃える信者が一人増えたところで問題は無かろう。

──我が名はネブリス。闇を司るこの世の神である」


 気だるげに微笑むネブリス様に俺の心は締め付けられるように痛んだ。どうしてなのか、その理由はなんとなくわかった気がした。

 この気持ちは多分、信仰心だ。

 前世から俺はずっと無宗派だったが、それは神という存在を俺自身が知らなかっただけだったのだ。神という存在を知ればこの様だ。信じるかどうかではない。知っているかどうかの違いだ。その存在を知ってしまえば、本能が神を崇めてしまうんだ。

 畏れ多いことにネブリス様の目と俺の目が合ってしまう。視線が交わっている。吸い込まれそうな黒い瞳に映る俺と目が──


 …………?


 これは果たして俺、か?

 ネブリス様の瞳に映っているのは人の形ではなく、ゆらゆらと揺れる炎の様なものにみえる。そんなヴォルクじゃあるまいし。俺はこんな炎形態になれる特殊能力なんて持ち合わせていない筈だが?

 なんだろう、さっきまであんなに盛り上がっていた気持ちが急に落ち着いてきた。と、同時に俺は『ネブリス』という名前が何を意味するのか思い出した。


 ネブリス。

 彼女の言う通り、彼女は闇を司る女神だ。この世界が出来た時に最初に生まれた原初の神の一柱。そして、九つある国の一つ、オルムーンの魔王。

 対となる光の女神への憎しみに似た感情から、光の女神が統べる国ラティアノーゾをこの戦争中に滅ぼそうと画策しているという有名な噂話すらある。平たく言ってしまえば、九柱いる魔王の中でもかなり危険な魔王だ。視界に入ったら命は無い。生き延びたければ彼女を信仰すべし。そんな話もあったような。


「ほぅ? 炎を見て正気に戻ったか……全く、あの男の過保護も度が過ぎる。正しき世界のあの男に見せてやりたいくらいだ」


 ネブリスは口を三日月に歪めて嗤う。俺を見ながら、俺では無い誰かを見ているようだ。

 それに、『正しき世界』って何だ? その言い方はまるで、この世界が正しくないとでも言っているようだ。


「察しが良いな、人の子よ。その通り、これは偽りの世界よ。憐れで愚かな子が願った、幻よ。そして汝は、この偽りの世界の象徴とも呼べる存在であるな。正しき世界では存在し得ぬ、あの方の御業。そのなんと残酷なことか」


 誰かが願った偽りの世界?

 本来なら俺は存在しない?


……正直、俺の存在についてはあまり衝撃を受けない。自称神の手によって異世界転生を果たしている時点で俺の存在が異質なのは当然のことだ。だから、今更『本来ならば存在しない者』とか言われても特に何を思うわけでも無い。むしろ、俺の奥底に眠る厨二病が歓喜のあまり疼きだすぐらいだ。

 それよりも、ここが『偽りの世界』という方が問題だ。正しい世界があるのなら、偽りの世界はいつか消えてなくなるものなのか? 例えば──そう、この世界を願った『誰か』の目的が果たされたとき、とか。


「案ずるな。この世界が消滅することは無い。偽りの世界として、正しき世界とは別に在り続ける……それだけだ。二つの世界が混ざり合うことも無いだろう。混ざるには、異なる点が多すぎる。汝を含めて、な」


 ネブリスは言う。その気だるげな声が孕んだ色気が猛毒の様に俺のことを追い詰めてくるが、ネブリスの瞳越しに見た自分の姿を思い出すと不思議とどうにかなった。炎を見ると正気に戻れるというのはどうやらまぐれではなさそうだ。想像でもどうにかなるとは思わなかったが。

 正しい世界と偽りの世界の違いとはなんだろう。そもそも、この偽りの世界はどうやって生まれたのだろう。本来ならば存在しない……『本来』という言葉がどうにも引っ掛かる。元ある出来事を、誰かが意図的に変えた? だとするならば、この世界のどこかに『本来の世界』からはるばるやってきて未来を変えた奴がいるってことか。そうまでして変えたいと望んだ未来とは一体どのようなものだったのだろう。

 それに、俺が転生を果たしたのが偽りの世界だというのも少し引っ掛かる。まるで俺が偽物の象徴みたいじゃないか。いや、それはそれで厨二心をくすぐられるものがあるわけだけれども。誰かの意図を感じずにはいられないのも事実だ。これが創作の世界だったなら作者の意図として片づけれられたのかもしれないが、ここは物語でも何でもなく、現実なのだから。


「どうせ忘れることに頭を悩ますのは楽しいか、人の子よ。まあ、だからこそ愛おしいと言ってやるべきか。ならば、このひと時だけでもその問いに答えてやろうぞ。忘れてしまったらまた悩むが良い。もっとも、同じ疑問を再び抱くことが出来れば、だがな。

──さて、汝が偽りの世界のみに存在する理由であったか。端的に言えば、あの方の悪趣味な遊びのようなものだ」


……は? あそ、び?


「流れの決まっている川に石を投げ入れるような遊びだ。嗚呼、本当に悪趣味だ。その小石が川の流れを変えてしまうことを知っていてあのお方はやったのだからな。愚かなあの子の願いが果たされることは無いし、本来とは別の時期に命を落とすものも現れる。それこそがあのお方の目論見なのだろうが……憐れだと、云う他に無い。愚かなあの子はどれだけ耐えられるのだろうなぁ?」


 ネブリスの言う『愚かなあの子』が誰のことを指しているのかはさっぱり分からない。ただ一つ、本来の世界には居ない俺では無いことだけは確かだけれど。女神様にここまで『憐れだ』と連呼されてしまうと流石に同情せざるを得ないな。本人がこの話を知ってしまったら、何を思うのだろう。俺だったら絶望するかもしれないな。知らぬが仏だ。この世界に仏という概念は無いと思うけど。

 でも、俺の存在一つでそこまで何かが変わるか?

 別に大きなことを成し遂げたわけでも無いし、今後もその予定は無い。過大評価のような気がするけど。


「──本当に、あのお方は。人というものに疎いからこういうことが出来るのであろうな。綺麗さっぱり己への執着を消し去るとは手の込んだことをなされる。だが、だからこそ気に入らないというものだ。……どれ、少しばかり抗ってやろうぞ」


 そう言うとネブリスはゾッとするほど冷たい視線を俺に向けた。得体の知れぬ恐怖と、取り返しのつかないことをしてしまったかのような絶望感が激しく襲いくるのは、彼女の美しさ故だろうか。それとも、彼女が自分とは全く違う存在であるからだろうか。どちらにせよ気持ちの良いものではなかったし、今すぐ逃げ出してしまいたかった。こんな謎空間ではどこに逃げられるのかも分からないが。


「なに、心配することはない。これは本来、人の子が持っているべきものだ。余は奪われたそれを返しただけに過ぎぬ。ふふふ、返って来たと、実感するときが来ないといいなぁ? それは、人の子が生き抜く上で一番厄介なものでもあるだろうからな。まあ、それこそが健全に生きていく為に必要なものでもあるがの。

……さて、目覚めの時間だ。戻るが良い」


 え? おい、待てって!


 ネブリスは意味深なことを言うと、急に俺への興味を失ったかのように目を背ける。本当に待てよ。一人で勝手に満足げな表情を浮かべてんじゃねえよ。もっとあれこれ説明をしろ。なんで神って存在はこう自分勝手なんだ。

 言いたい事は山ほどあるのに、そのどれもが口から吐き出せずに俺の意識は遠のいて行く。否、明瞭になっていくのか。

 真っ黒な世界に少しずつ白い光が戻っていく。ネブリスの姿はとっくに見えなくなっていた。

 そして。


「──そんな気はしてたよ、畜生が」


 目が覚めた俺の第一声は、そんな恨み言だった。

 あれだけ何度も言っていたくせに、夢の中での出来事はしっかり俺の記憶に焼き付いていた。ドヤ顔で言うぐらいなら記憶を消してくれよ。

 俺はこれから、本来なら知る由もなかった真実を抱えたまま生きていかなきゃならない。ネブリスによって勝手に戻って来たものが何なのかに怯えながら、自分という存在の曖昧さに恐怖を抱きながら。

 神の御業というクソッタレな能力──自分で願ったものではあるが──のお陰で忘れることもないだろう。忘れられるわけがない。

 この日の目覚めは、これまでで類を見ないほど最悪なものだった。

こういう厨二展開からしか摂取できない栄養素ってありますよね

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