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青空のスケッチブック通信~真尋と葉月

作者: 宝力黎

 急な斜面に無理やり貼りつけたように建つ家並みがジグソーパズルみたいだって、よく言われるんだ。

駅のある本町界隈から見上げると、僕の街はまるで空に向かって立つ一城の要塞のようで、遠くから眺めている分には威厳もあるけど、近くで見ればゴミゴミもしている。

何本かある道はどれを選んでも坂道なのは仕方ないけど、全部一方通行で細いんだ。

車が来れば道の端に寄らなけりゃ危ないし、その道の脇ギリギリに建つ家はどれもソックリ似てて、コンクリートとシャッターで守りを固めた車庫が、まるで何かの基地みたいに並んでる。


そんな坂道を上ってくると、僕の家を含めた数軒のためだけにある小さな階段が見えてくる。

僕はいつもここで立ち止まってしまうんだ。

その家は、階段の脇に立つありふれた二階建てで、いまは空き家だ。

あれから、誰も住む事も無くて門も窓も閉めきられたままだけど、僕はいつもこの角で見上げてしまうんだ。この家の二階を。そこに住んでいた、一人の少女の事を思い出すとき僕は、堪らなく切なくなるんだ。

なのに、あの日々からもう一年も過ぎているなんて…。


 僕の部屋は西日がばっちり当たる側にあって、本町の駅前通りも、

その向こうに見える大きな川も見下ろせるんだ。双眼鏡を覗けば駅前商店街の人の波も見える。この街の多くの人が近くにある自動車工場で働いていて、僕の母もそこでお世話になってる。父は自分で小さな設計事務所をやっているんだ。家で仕事をすることも多いかな。

そんな両親のお世話になっている僕は、あと四か月もすると高校二年だ。名前は『浅岡真尋』。男の仲間からは『まじん』って呼ばれたりするよ。『マヒロ』なんて、まるで女の子みたいだ、って、子供の頃はよくからかわれたな。

でも、ある時から自分の名前が大好きになったんだ。

 その始まりは、学校が休みのある土曜の朝の物音からだった。

受験勉強もそこそこに、夜中まで趣味の小説を書いていた僕は眠たくて、その物音をどこか遠くで聴いてたんだけど、不意に目が開いて、時計を見たらまだ朝の九時前だった。


「なんだよこんな時間に…。」


寝癖の付きやすい髪はきっとボサボサだったと思うけど、僕は何の気無しにカーテンを開けたんだ。

冬の朝の陽が差し込んで眩しかったな。

目をしょぼつかせながら窓を開けたら、朝の風と一緒に数人の男の話し声が流れ込んできたんだ。引越し屋の制服を着たニイちゃんたちが、大きな家具を二人で持って下の道を歩いてるのが家の隙間からチラッと見えた。

どうやら少し先に行ったところを通っている僅かに広い道路にクルマを停めて、そこからこの家の下の家に運び込んでいるみたいだった。


「引っ越し…?」


頭を掻き、アクビをしながら見下ろしてたら、僕の部屋側にあるその家の二階の窓が突然開いて誰かが顔を出したんだ。

青い空に映える濃いブルーの屋根の下、真っ白なカーテンが翻って見えた人は、僕くらいの歳の女の子だった。長い髪は真っ直ぐで、風に煽られ、香りまで漂ってきそうでね。その子が、ニコニコしながら突然伸びをして、こっちを見たんだ。隠れようと思ったけど、遅かった。バッチリ目が合ったし、笑ってたし。

その笑顔があんまり可愛いものだから、ついジッと見ちゃったんだ。

ヤバいな…って思いながらも、目が離せなくなったんだ。その女の子がソッ…っとカーテンを閉めた後も、僕はまだ見てたよ。怪しい奴に思われたよな…って、ちょっと残念だったけど。


 そんな事があって、僕はその家と言うか、その女の子を猛烈に意識し始めたんだ。名前も知らないし、最初があんなふうだったから、友達になるどころの話じゃないよなって、思ってはいたよ。それがまさかあんな事になるなんて、想像もしなかったな。

進学組で帰宅部の僕は、その火曜の午後も四時くらいには家に着いたんだ。

で、荷物を部屋に置いてからキャラクターの部屋着に着替えてカーテンを開けたんだ。

そしたらあの女の子が窓枠に頬杖をついてこっちを見上げててさ。驚いたのなんのって…。それもただ見てるんじゃなくて、片手をヒョイとあげて見せてね。まるで「よお!」みたいにさ。何の合図かなって思わず見てたら、なんだか大きなスケッチブックみたいなものを抱えて、そこに何か書き始めたんだ。

何してんのかな?って、体を乗り出して見ると、書きあげたのかクルって裏返してこっちに見せたんだよ。書いてあったのは、


『名前はなんて言うの?』


だったよ。

一瞬何が何やら判らなくてさ、ボーっと、ただその紙を見てたんだけど、そしたらその女の子は頬っぺたを膨らませてその紙をね、突き出して『これ!これ!』って感じで指差してたんだ。ハッとして、僕は紙を探したんだけど、そんな大きな紙なんてなくて、あるのは原稿用紙とかノートくらいだったし、だから慌ててオヤジの書斎に駆け込んでその辺にあった紙を引っ掴んで部屋に戻り、ベッドサイドに掛けてある双眼鏡も手に持って、窓際に行って紙の裏に書いたんだ。


『浅岡真尋…マヒロって読む』


恐る恐る紙の裏から顔を出すと、いつの間にかピンク色のオペラグラスでこっちを見ていた女の子は嬉しそうに『ウンウン!』と頷いて見せて、また何か書き始めたんだ。それを僕に見せ、親指を立てたんだ。そこには、


『私は、潮村葉月!よろしくね!』


って、踊ってるみたいな文字だった。その日から僕とその子、潮村葉月はスケッチブックのメール交換を始めたんだ。


 そのメールで教えてくれたんだけど、葉月は僕と同じで高校の一年生で、学校は違ったけど、でも、ここから通うには電車の便はあまり良くないだろうな…って学校に通っているって知ったよ。葉月はそう教えてくれたけど、不思議だったんだ。朝、一度も駅で会う事も無かったし、駅からここまでの行きも帰りも見かける事が無かったから。僕と同じで部活はしていないって書いてたからなのか、ボクが帰って窓を開けるといつも葉月は笑って待ってたんだ。毎日ね。


『潮村さんって、何者?』って聞いても、ただ毎回、


『謎多き美少女だよー!』って、返してくるだけ。


『て、言うか、苗字はやめてよ!葉月でいいから!葉月も真尋君って呼ぶからさ!』

『わかったよ…。ところで、葉月も帰宅部だろ?毎日僕より早いもんな?もしかして家の人の送り迎え?』

『うん…、そうだね。まあそんな感じかな…。ねえ、それよりさ、真尋君ってモテるでしょ?』

『は?い…いや…。なんでさ…?』

『優しそうだし、女の子はさ、ワルっぽい子も好きだけど、優しい子はもっと好きだからわかるよ…。』


優しそう…だなんて言われたことも無いぞ!って、思いながらも、あんまり強く「いや全然モテない」なんて否定するのも悔しいし、適当に流したんだ。その時、フッと思って聞いてみたんだ。


『ねえ、メールとか出来ないの?Lineとかさ…。』

『えー…だって、この方がいいなぁ…。不思議な感じで変わってていいじゃん…。葉月はこっちがいいなぁ…。』

って、言われたらそれ以上無理も言えないし、じゃあまあいいや…ってなってさ、スケッチブックメールをつづけたんだ。ほんの数日の間に葉月とはドンドン仲が良くなっていった。面白い子だし、可愛いしね…。だから毎日家に帰るのが楽しみで仕方なかったよ。駅から家まで走って帰る日が続いたんだ。そんなこと、それまでは無かったな。


『ただいまー!』

『おかえり―!』


そんな短い言葉をやり取りする時も、相手が書く間待っているその時間も、楽しかったんだ。葉月は、僕のことをよく聴いてきたよ。学校の事や仲間の事や、将来の話とか…。あとは趣味の話かな。


『真尋君の趣味ってなーに?』

『趣味…えっと…。』

『あれぇ?言いにくいようなことが趣味なのかなぁ?もしかして、エッチいことですかー?』

『バ、バカ!ンなことあるか!そんなんじゃなくて…えっと…その…お話を…。』

『お話?』

『あぁ…、話しをその…書く的な…。』

『え?真尋君て、お話を書いたりするの?すごーい!読みたいなー…。』

『う…いや、人に見せた事とかないから…。』

『おい、往生際が悪いな…浅岡真尋クン!観念して読ませなさい!』

『でもな…だって、どうすんのさ?こんなスケッチブックじゃあなあ…。』

『あ、そっか…。』


葉月は困った様に紙を伏せてこっちを見上げてたんだ。でも、急に何か思いついたみたいに書き始めて、


『ねえ、ウチの郵便受けに放り込んでおいてよ!誰にも見られないようにするからさ!ね?いーでしょ?お願い!マーヒーロー君!』


て言って来たんだ。そんなこと言われても…書き溜めた中から何の話を読ませようかなって考えた時、どうにも決められなくて、葉月本人に聞いてみたんだ…。そしたら返ってきた返事は、


『優しくて、静かで、不思議な話とかいいなあ…。』


ってものだった。そんな都合のいい話が…って突っ込みたかったけど、言いにくいが僕の書く話は大概そんな感じだったんだ。


『黒猫が、遠く離れていく大好きな白猫のために宝物を渡したくて、それを探す旅に出る話があるよ…。』


って書いたら、葉月はなんだか知らないけどすごい勢いでスケッチブックに字を書いて、バッ!てこっちに向けたんだ。


『いい!それいい!読みたい読みたい!明日入れておいてよ…。絶対約束だからね?』


と書かれた紙をバサバサ揺らしてさ…。読みにくいったらありゃしなかったな。

 オヤジさんの部屋のコピー機で印刷したらA4で120枚近くになったもんだから、紙がゴッソリ無くなって、あとで怒られたけどさ。それより困ったのは葉月の家に置きに行った時さ。元々人通りなんかあんまりない場所だし、それはいいんだけど、それでもいつ家の中から誰か出て来るとも限らないだろ?

郵便屋ならいざ知らず、近所の高校生がさ、分厚い封筒を押し込んでるなんて、あまりにも怪しいもんな。だから、忍者みたいにコソコソキョロキョロしながら入れてきたんだ。そしてそのまま学校に行ったんだけど、いつもとは違う一日だったよ。帰ってから聞く葉月の感想が楽しみでね。酷評されたらキツイな…とも思ったけど、なんでかそんな事は無いような気もしてたんだ。

家に着き、カバンをベッドに投げ出して、いつものようにカーテンを開けたらそこに葉月の笑顔があるはずだった。でも、窓は閉まったまま。中のカーテンも閉じられてて、人の気配も無かった。


「あれ?葉月の奴、今日は珍しく帰りが遅いのか…?」


なんて思いながら、窓は開けたままにして書きかけの話を直し始めたんだ。でも、それから三日間、葉月は顔を出さなかった。その間は、勉強をしてても考えるのは葉月の事ばっかりでさ、何も頭に入って来ないんだ。夜、部屋の電気を消すとさ、窓の外には眼下の街の明かりと一緒に葉月の部屋の明かりが見えるはずなのに、夜中でもそれが点くことは無かったよ。窓際に立てかけて用意してあるスケッチブックは、あの日から真っ白なままだった。

 土曜の朝、ボクは葉月の家の前に居た。我ながら何やってんだろうって思ったんだけど、具合でも悪いのかなって、心配だったし、本当に清水の舞台からダイブする感覚で。でもなんて言えば良いんだろう?なんて、その場になってから考えてて。


「えーい…出たとこ勝負だ!」


僕はチャイムを押したんだ。ドアが開いて姿を見せたのは、軽い近眼の僕には一瞬葉月に見えたんだけど、でも違った。その人は葉月より年上な感じで、大人だった。


「どちら様?」


ジッと見られてドキドキして、言葉が出てこない。


考えてみたら僕はバカだ。たまたまお宅の引越しを覗いてたら、葉月と仲良くなってスケッチブックでメールをやり取りするようになった上の家に住む怪しくない男です…、なんて言えるかって。


「あ…あの…僕はその…。」


口ごもっている僕を見て、その綺麗な女の人は「あぁ!」と言って笑ったんだ。


「もしかして、あなたが葉月の言ってた『マヒロ君』?そうでしょ?」


ばれてた。


「は、はい、ごめんなさい…。」


とにかく謝っちゃったよ。


「何を謝ってるの?葉月が言うとおりの楽しい子ね…。」


楽しい子‥ってのも言われたことは無いけど。彼女はちょっと考え、フッと笑って僕に言ったんだ。


「葉月のことを心配してきてくれた、とか?」


有難くて頷いたよ。判って貰えてさ。その通りだから。


「ねえ、ちょっと入ってくれるかな?お話があるの…。」


ドキドキは最高潮に達して、あとはもう止まるだけみたいな心臓で、僕はビックリしたけど、とにかくその人について家に入って行ったんだ。初めて入る、葉月の家。

玄関も廊下も、如何にも『葉月の家』って感じのいい匂いがしてたよ。真新しい通学用の靴が玄関の隅にチョコンと置いてあって、ちょっと気になったけどね…。

応接間に通されて座っていると、ジュースを持って来てくれた。目の前に座ったその人を見て改めて「綺麗な人だな…」って、そう思ったよ。


「私は、葉月の姉の翔子。七つも離れているから葉月から見たらもう一人のお母さんみたいかもしれないなー…。小さなころから私の後ろをついて歩くような子だったのよ。元々引っ込み思案なところがあったんだけど、ある時からそれがもっと酷くなってね…。」


僕は、とても意外だった。僕が知っている葉月って、引っ込み思案なんて縁のない、明るくて陽気で、冗談が好きな女の子だったから。だからそれって誰のことを言っているんだろう?って、思うくらい不思議な気持ちで聴いてたよ。


「あの…ある時から?って、何なんですか?なにかあってそれで?」


翔子さんは微笑んでいたけど、話し辛そうにも見えたな。僕の問い掛けに、自分の指先を見ながら一言一言、言葉を選ぶように話してくれたんだ。

 葉月は、病気だった。難しいことは避け、優しく説明してくれたことによると、遺伝子の何かに異常があって、骨の成長に問題があることが子供の時に判ったんだって。ユックリだけど確実に先ずは下半身に症状が出て、人によっては歩けなくなり、発症者の何十人に一人かくらいで命を落とす人もいるって言う事も。翔子さんは静かに話してたよ。優しそうだったな。優しそうだったけど、きっとこの人の目は、これまでに葉月のことを想って一杯涙を流したんだろうな…って、そう思える静かな目だった…。


「小学校に入学するころにはね、常時ではないけれど車椅子の生活だったの。当然体育なんか参加できないでしょ?運動会も見ているだけ…。でも、幸いと周囲のお友達は優しい子が多かったから、葉月もその面では救われていたの。それでも、みんなと一緒に走り回れない事もそうだけど、行きも帰りも父の車で送迎されて、お友達と道草食ったりして帰る事も出来なかったのよ。私は歳も離れているから同じ学校に通ってあげる事も出来なかったし、きっと寂しかったと思うわ…。寂しいから、周りがどんなに優しくても段々と距離を置くようになっていったの。中学に入るころには自分で立つことは完全に出来なくなっていたわ。特に朝が辛かったみたいでね…。大学生になっていた私は、あまりしてあげられなかったけど、普段の介助は母がして、学校の送り迎えはそれまで通りに父がしてて、それでも葉月は自分から学校を休もうとしたことは一度も無かったのよ。具合が悪くなることが増えた中学二年からあとは、一年間の半分も学校には通えてないの。すごく無理をすれば行けなくはない日でもね、痛む日はお休みするの。痛んでいる表情を見れば周りも気を使うでしょう?それも辛かったのよ。葉月は優しい子なの…。」


そこまで言って、翔子さんは自分のコーヒーカップを口に運んだ。大人は、どうしてそんなに静かにこんな事が言えるんだろう…。きっと、それが大人なんだ。きっと、僕らが思っている以上の事をずっと思い続けているうちに静かに話せるまでになったんだ。僕は、大人って悲しいんだ、って初めて思ったよ。


「でもなんで…僕にそんな話を…?僕は、葉月…さんと知り合ってまだほんの数週間で…。」


翔子さんは微笑みながらカップを置き、前髪を掻き上げて言ったんだ。


「なんでかしら…。あの子がね、高校に進学したいって言った時、家族みんな悩んだの。勿論行かせてあげたかったわ。周囲とは距離を置きがちになっていった葉月だけど、本当はものすごくお友達というものを求めていたのは判っていたし、それよりなにより、あの子のしたいようにさせて上げたかったしね。でも、体の方がね…どんどんキツくなっていったのよ。ねえ、真尋君…葉月っていつも笑ってなかった?」


僕は頷いた。笑っているどころか、いまにも窓から飛び出して僕の窓に飛び移るんじゃないかってくらい、そんな元気を感じてた。


「毎朝ね、ベッドから起き上がるときが辛いらしいの…。支えて起こそうとするんだけど、痛みが全身に走って…。それでも、私とか母に言うのよ…、笑いながら『えへへ…お姉ちゃんごめんね?もうちょっとダイエットしよっか…』って…。」


翔子さんはさすがにその時、グッと何かを堪えたようだった。僕は、ジュースを飲む振りして目を逸らしたよ。


「笑ってるのよ。いつも、どんなに辛くても。お友達は居ないから、本当の胸の内を吐き出せる相手は居ないのよね。人間ってさ、笑っているばかりじゃいられないでしょう?それをぶつけられる相手は、あの子には居なかったの。それがね、最近になって妙にあの子の明るさが本当に輝いてたのよ。髪を梳かしてあげてても、話すのは真尋君、あなたの事…。」


僕はドキリとしてコップを持つ手が震える程だった。


「体を洗ってあげてても、ベッドの支度をしてあげてる間も、真尋君がこう言った、真尋君はこんなこと聞いてくれた、真尋君は…真尋君は…って。」


翔子さんは、泣いてた。


「ごめんね…大人のくせにだらしなくて…。でも、本当にうれしかったのよ。葉月が話してくれること全部に真尋君が居たわ。家族って支えては上げられても、葉月の吐き出せない部分を受け止めては上げられなかった…。あの子は優しいの…。だから、心配を掛けたくなかったのよね、きっと…。それが真尋君と知り合った事で本当に…本当にね、…」


僕のドキドキは収まっていた。代わりに、身動きも、息すらも出来ないくらいジッと固まってしまってた。翔子さんは何かを伝えようとしていたし、僕はそれを受け止めなくちゃ、と思い始めてたんだ。初対面の僕に一生懸命話してくれるその気持ちをね。


「葉月はここ最近本当に生き生きしてたのよ…。私には悩み以外話してくれるからあの子‥。真尋君ってお友達が出来て、毎日のように紙でお話してるって。この間は真尋君が書いたお話も貰ったんだ…って喜んでたわ。でもその日ね、また具合が悪くなって、あの子の大嫌いな病院に居るのよ、いまね…。あの子何にも云わないけど、病院のベッドに居ても真尋君のこと考えてると思うわ…。元気ないのよね…。」


そこまで言うと翔子さんはクスッと笑って涙を拭いたよ。


「あの子もね、まさか真尋君がウチに来てくれるとは思ってないと思うの。病気の事も知られたくないかもしれないな…。でも、姉としての直感でしかないんだけど、あなたのこと見た時思ったのよ。葉月の力に…家族とは違う力になってくれるんじゃないかなって。だから、真尋君がお見舞いしてくれたらあの子、元気が出るんじゃないかな…。」


僕は言葉も無かった。言葉が無いって、よく話にも書くけど、そういう時は頭の中に本当に何の言葉も浮かんでこないものなんだなって、初めて分かったんだ。窓際の葉月が立ち上がったのを僕は見たことが無かった。下から見上げる位置だったし、それは不思議には思わなかったんだ。葉月、車椅子から僕に文字を書いて見せてたんだ。僕の中の葉月って、笑ってるだけの明るい女の子だったから、翔子さんの話を聞いてて、いま病院で沈んでるらしい葉月を想像しにくかったけど、僕が行ってもいいなら…。

僕は頷いて、病院の場所と病室の番号を書いた紙を受け取って家に帰ったんだ。窓を開けても葉月の笑顔が飛びこんでこない僕の部屋は寒々しくて、もう十一月の末なんだなって、カレンダーを見て思ったよ。窓の下に立てかけてあるスケッチブックが、最後のページをこっちに向けてた。そこには、「明日入れておいてよ」という葉月のリクエストに応えて書いた、


『わかった!でも読んでも笑うなよな!』


って文字が、ひんやりと冷えて並んでた。よかったのに…。読んで笑ってくれたらよかったのに。



 そのよく日は学校も二時間で終わりだったし、僕は普段の方向とは反対の電車に乗って葉月のお見舞いに行ったんだ。

大きな駅で降り、バスで五分くらいのとこにある病院。待合室で病室を尋ね、階段で五階に行ったんだ。もうすぐお昼って時間だったせいか何時もこんななのか、慌ただしくてさ、廊下なんかナース服のお姉さんたちが駆け回ったりしてて、改めて思ったよ、病院っていやだなって。と言っても僕なんか健康な方だからさ、入院ったって一度だけ…。それも小さかった頃麻疹が悪くなった程度の大したことでもない入院だったから偉そうに言えないけどさ。


ナースステーションで病室の場所を聞いて、廊下の先を曲がって三つ目の部屋の入り口にホワイトボードの名札が掛ってたよ。三人部屋らしかったけど、二人だけ。そのうちの一つが、『潮村葉月』だったんだ。へたくそな字さ。


ドアは開きっぱなしだったから、ソッと首を伸ばして中を見回すとね、入り口のすぐの所にあるベッドに一人患者さんがいて。おばあさんでさ、イヤホンしてベッドの上に座って何か読んでて、僕には気づいてなかった。

真ん中のベッドは空いてて、その奥のベッドのカーテンは閉まってたんだ。どうしようか…本当に困ったんだ。だってそうだろ…。僕が見舞いに来るなんて、葉月は思っても居ないだろうしさ。それに…病気の事はどうなのかな…。知られたくないかもしれないし…。

でも、


「潮村さん…」


って、呼んでみたんだ。返事がないからもう一回ソッと、


「潮村さん…?」


って。すると中から、


「潮村さん…はやめてくれないかな…浅岡真尋君…」


って。


「開けてもいいの?」

「うん…ちょうど起きてたとこなんだ…開けてくれる?」

「うん…」


僕は窓際の方からカーテンを開けてきて、それはぐるりと足元を通り、部屋の中央の空きベッドのとこで止まってさ、ちょうど、おばあさんから見えないような感じに出来たんだ。


目の前に、葉月が居たよ。やっぱり小さかったな。でも笑顔はあのまま、窓から顔を出してたあのままの可愛い笑顔だったよ。ベッドサイドの車椅子が目に入った。



「来てくれたんだ…ビックリ…」

「うん…お姉さんに…聞いてさ…」

「うん…さっきね、メールが来てたの。真尋君が家に来てくれたこととか…お見舞いをお願いした事とか…。本当にごめんね?学校あるのに…」

「いや…今日は二時間で終わりだったし…それに、」


僕は「来たかったんだ」って、言いたかったのに言葉に出来なかったな。


「そうなんだ…ねえ、ちょっと出ようか?ごめんなさい…手を借りないと座れないの…お願いしてもいいかな…」


僕は、どうすればいいのか聞きながら葉月を車椅子に乗せ換えて上げたよ。恥ずかしかったけど、きっと葉月はもっと恥ずかしかったかも知れないって思って、照れずに抱えて上げたんだ。でもとっても軽かった。浮いているみたいにね。


「ありがとね…やっぱり真尋君優しいな…」


僕は葉月が言うとおりに車椅子を押して、エレベーターで一階に下りて二人で中庭に出たんだ。空は、葉月と初めて会った日と同じに抜ける様な冬の青だったよ。


小さな並木があって、芝生になってて、葉月はそこで車椅子を止めさせ、話し始めたんだ。病気の事や、色々をね。


「骨のね、中がダメになっていくんだって。お年寄りに見られる珍しい病気なの。葉月みたいに子供の頃発症するのはとっても珍しいんだって…。ほら、脚細いでしょ?運動できないせいでどうしてもね…。最初の頃はそれでも少しは歩けたの。でも、この頃では自分で立つのはムリなんだ…。真尋君とスケッチブックでお話ししてたでしょ?あれも車椅子に座ってしてたのよ。気づかなかったでしょ?へへ…葉月演技派だから…」


僕は黙って頷いてたよ。


「完全に治ることは無いんだって、言われてるの。でも、他の病気でもそういう人は多いし、葉月だけってわけではないんだし…」


俺は頷けないよ。


「悔しいのはね、学校に行けない事なんだ…。友達と楽しく過ごしたかったなー…。だから、真尋君を見たときね、これだ!って、思っちゃった…」


そう言って笑う葉月の顔が、僕は見られない。


「これだ…この人にしよう!友達になっちゃおう!」


葉月が悲しいのに、葉月が笑って、僕が悲しがってどうすんだよ…って、思ったけど顔には絶対に出すもんか、って…そう思った。


「真尋君には迷惑だったかもしれないけど…本当にうれしかったんだ…」


僕は、やっとブンブンって頭を振って見せたんだ。それが精いっぱいだよ。他に、どう言えたのさ…。


それからも葉月はたくさん話してくれたんだ。なりたかったものや、したかったことをね。

やっとの思いで僕は言ったよ、これからしようよ!って。

葉月は笑って、そうだね…って。


帰り道でさ、涙が止まらないんだ。もう、ヤバいくらいに。涙って、どうやって止めるんだったっけ…ってくらい、流れて止まらないんだ。唇を噛んで拳を固めて、前から来る人にぶつからないように目を開けたいんだけど、涙で前が見えなくなるんだ。


毎日葉月の病院に行くことが、それからの僕の日課になったんだ。

スケッチブックは、あれきりずっと窓の傍に置いてある。新しいページに進むことは無くなってたけど、毎日葉月に会えるのはとても楽しみだったんだ。でも痛みがひどい日には強い薬を使うらしくて、会えない日もあった…。それでも会える日の葉月はいつも笑顔だったよ。いつの間にか冬も進んでさ、、木枯らしより冷たい風が吹くような季節になっていたんだ。街の飾りはもう、クリスマス一色だった。

ある日、お姉さんが僕を屋上に誘って話してくれた事があるんだ。


「葉月のね、具合があまり良くないの…。お見舞いに来てくれてる真尋君も判ってるよね?もう何日もベッドから起き上がれないし、ほとんど食べれてないのよ…。それでも真尋君が来てくれてる間だけはあの子、笑うのよ…」


それは知ってたよ。前はそれでも僕が車椅子を押して庭に出たりも出来たんだ。葉月のお家の人も喜んでくれてたし、何より葉月が嬉しそうだったから僕はずっとそうしてて上げたかったんだ…。世界一周だって…。


「真尋君…辛い事だろうけど聞いてね?」


耳を、神様…僕の耳を取っちゃってよ…。


「お医者様の話ではね、葉月、この冬を越せるか判らないの…。あの子、一杯夢があったのに…。全部置いて逝かなくちゃならないかもしれない…」


話しているお姉さんこそ一番辛そうな顔で泣いてた。


「それでもあの子、最後に真尋君みたいに素敵なお友達が出来て…笑いながら時間をね…過ごせてるの…だから…お願い…どうか最後まであの子を見ていてあげてくれる?きっと、まだ高校生のあなたにこんな事をお願いするのは酷なのかも知れないけど…でも…お願い…お願いします…」


お姉さんが僕の手を握って泣きじゃくるんだ。僕の手に、とっても熱い滴が落ちたよ。冬が永遠に続けばいい、と思いながら僕は屋上から見える白くて遠い月を…凍ったように冷たい月を見つめたよ。



 僕と居る時、とにかく葉月はよく笑うんだ。

僕がお見舞いに行くのは大体夕方なんだけど、時には葉月のお母さんにも会うし、何回かはお父さんにも会ったよ。二人とも優しくてホッとしたけど、みんな言うんだ。

「真尋君が帰ると葉月が笑わなくなるんだ」って。でもその事は、葉月の前で話しに出たことは無かったな。限りが、もしも時間にあるんだったらさ、笑顔になれない話なんてしても意味ないだろ?僕が居たら葉月がずっと笑ってるって言うんだったらさ、ずっといるよ…。ここに居るよ。いいだろ?葉月…。


冬休みが来たら朝から夜までここに居るからな…って、言ったら、葉月は嬉しそうに笑って僕の手を握って言うんだ。


「真尋君は思った通り優しいのだ…」


って、さ。僕は、葉月を車椅子に乗せて病院中を散歩したよ。「ここからはダメ!」って、看護師さんに笑って注意される場所も、屋上も、庭も完全制覇したんだ。その狭い世界でも、葉月には好きな場所があったんだ。それは庭にある大きな池の向こう側。木立が生い茂ってて、フェンスの足元に道が走ってるんだけど、目をずっと遠くに向けるとね、港の近くにある空港を利用する飛行機が小さく見えたんだ。葉月が見やすいように枝を無理やり折り曲げてさ、ヒモで縛ってやった。その隙間から飛行機を見ているのが、葉月は好きだって言ってたよ。そんな時の葉月の横顔を僕はずっと見てたんだ。帰ってくる飛行機…旅に出る飛行機…。葉月はどんな気持ちでそれを見てたのかな…。


「葉月ね、外国って行ったことが無いんだ。偉い先生に診てもらいに北海道まで飛行機に乗ったことはあるんだけどさ…。外国ってどんなかなあ…。あの飛行機に乗って…ずっと飛び続けて…、二度と地面に降りないとかもいいなぁ…。そんな飛行機ないよね?」


自分で言って、笑ってたよ。ないよ葉月…、そんな飛行機はあり得ない…。葉月が二度と帰って来ない飛行機なんか、在るはずがないんだ。僕は葉月の見ている方を見て、返事をしなかった。体が冷えちゃうからもう戻ろう?って、言っても葉月はさ、


「あとすこしだけ…もうちょっと…」


って、そう言って時々離発着する飛行機の姿を目で追ってたんだ。自分を乗せた機体が、地面を離れ飛び立っていくことを想っていたのかな…。不安も恐怖も、痛みも、地面に置いてさ。



試験休みになって、あと一週間くらいでクリスマス…って頃、僕は或るものを作るために家に居たんだ。模試もあったけど手に付かなかったな。人生で一番大事な事は模試じゃない。一番大事なことは葉月を驚かせて、喜ばせる事だったんだ。寝ずに木を削り、専用の塗料を何度も重ね塗り、飾りを付けて。僕って、お話は書けても手先が不器用でさ、なかなか思うとおりに作れないんだけど、何とか間に合わせたくてね…。

そんな時だよ、葉月のお姉さんが僕んちまで来てさ、一緒に来てくれないかって…。慌てたよ…。お姉さんの車に乗せてもらって病院に着いたら、葉月のお母さんもお父さんも来ててね。チラッと見たら、昨日までは居た入り口のベッドのおばあさんはもう居なかったな。

病室には葉月の家族と、僕と、あと先生と看護師さんがいたよ。


「葉月!葉月!」


って…お母さんが大きな声で呼んでるのに、葉月の奴、目を閉じたままなんだ。お姉さんが泣きながら僕に耳打ちしたよ。


「痛いのはずっとお薬でごまかしてきたんだけど…体が弱りすぎて内臓全部がちゃんと動かなくなって…。昨日もよく寝てたでしょ?今朝からもうほとんど意識が無いの…。葉月…私たちの声も聴こえてないかもしれない…」


だって昨日は笑ってたじゃないか…。僕が帰るとき、また紙で話そうねって…。あの日さ、初めて話したあの日さ、紙が無くてオヤジの部屋から持って来た紙の裏に書いたけど、あれ、親父の大事な設計図面だったもんだから、あとで猛烈怒られたんだって聞かせたらみんなで笑ったじゃないか…。葉月も涙流して笑ってたじゃないか…。目を開けろよ…。目を開けろよ…。涙を流す目でもいいから、目を…。


それから二日間。葉月はがんばったんだ。

小さいくせに、どこにそんな力があんだよって…聴きたくなるくらい、頑張ったんだ。

結局、僕が耳にした葉月の最後の言葉は「あのお話…エンディングが大好き…黒猫のクロは見つけたんだね…イッチバン大事なものを…」


 葬儀は、クリスマスイブをお父さんが選んだ。家族だけでするんだって言って、でも、僕まで呼んでくれて…。

皆で見送ったよ。お父さんが泣き顔で僕の肩を抱いて、でも精一杯笑いながら教えてくれたんだ。

昔はね、こうして人を燃やすと煙が出たものなんだよって。

病気の人を燃すと、黒っぽい煙が出てね、そうでない人だと白い煙が上がったんだって…。本当かなって思ったけど、お父さんは大きな煙突を見上げて言うんだ。最近のこういう施設は色々とよく出来ていて、煙も出ないほど強い火で燃やしてしまうから空へ昇って行くのが見れないよね…って言ってから、僕に抱きついて泣きじゃくったんだ。


でも、葉月…。僕には見えたよ。真っ白な綺麗な煙がね。葉月だけを乗せた飛行機が地面を離れてさ、風のない冬の空に、あの日初めて会った日のような青い空に、静かに昇って行くのがハッキリと見えたんだ。

僕らまで置いて…。

無理を言ってお棺の中に入れさせてもらったけどさ、あれも持っていってくれよな…。必死に作ったんだぜ…。葉月と僕の名前の入った小さな黒板…。

ねえ…、最後まで葉月は僕とスマホでメールなんかしなかったな…。何度聞いても、それじゃつまんないからって…。真尋君とはスケッチブックでの方が楽しいから…って言ってさ。僕、すごく判るよ。葉月の言うとおりだよ。

だから、あの黒板を天国に持っていってくれよ‥。僕にはきっと見えるから…。葉月も…だからさ、俺の書いた紙をちゃんと…空のさ…上から見てなきゃダメなんだぞ?


 それから一月もしないうちに、葉月の家族は越していくことになったんだ。もともと葉月の病院の事を考えての引っ越しだったんだって。最後の日、大変そうに荷物を運ぶ引越し屋さんが忙しなく動くのを窓から、あの日のように見てたよ。今度は隠れてじゃないけど…。

フッと、葉月の部屋の窓に何か動いたんだ。


真っ白なスケッチブックが、窓いっぱいに拡げられて、そこにさ、


「真尋君ありがとう。本当にありがとう」


って…。

お姉さんだったんだろうな…。きっと。

もう静かになっちゃった葉月の家はさ、真っ暗で、明かりは見えないよ。でも葉月、僕ね、あのね…、今書くから待ってて…。



葉月…。


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