死にたがりな私が魔法少女になった話
見下ろすとそこにはミキサーで混ぜられた様な、大きくうねる波が広がっていて、思わず足が竦んだ。怖い、と思った。これから私はここに飛び降りて死なないといけないのに。いや、本当は生きていかないといけないんだ。家に帰って、課題をやって、ご飯を食べて、お風呂に入って、寝て。そして次の日は、学校に行かないといけない。でも、私にはそれが無理みたいだ。もう、疲れてしまった。
「このやろー‼」
叫ぶ。喉が引きちぎれそうなくらいに。私の声は、激しい水音にかき消された。
ずっと前から死にたいと思っていた。日常から足を遠ざけたいと思っていた。だけど、死ぬために行動を起こしたのは、今日が初めてだった
「……うっ」
私はバランスを崩しそうになって思わず橋を掴んだ。いやに温かい涙が、つうっと頬を伝った。一歩だけ、あと一歩だけ踏み出せば、全てが終わるのに。どうして出来ないんだろう。
友達のいない学校生活は、想像以上につまらなかった。移動教室も、お昼も、ずっとひとりぼっち。体育の時、一緒にペアを組んでくれる人もいなくて、いつも私だけ一人余る。ふとした瞬間に鼻の奥がつんとなって、心がぎゅっと潰されたような感じになる。友達がいる人が心から羨ましい。私も友達が欲しい、友達と一緒にお話したり、遊んだりしたい。
原因は何だったんだろう。私が自分から人に話しかけなかったからだろうか。多分そうだ。ずっと絵を描いてばかりで、誰とも話そうとしなかった私がいけないのかもしれない。
何かに夢中になれば、孤独も紛れるだろうなんて考えていた私が、間違っていたのかもしれない。私が絵を描く事に夢中になっている間に、みんなは仲良くなって、楽しそうにお話をしていた。
「何してるんですか。そんなところで」
驚きと悲痛の入り混じった声が聞こえて振り向いた。そこにはやせ細って、疲れ切った様なお兄さんが、今にも泣きそうな顔でそこに立っていた。
「何って……これから、死のうと思って」
死のうと思ったのに、怖くて死ねないんですけどね、と私は心の中で付け加えた。
橋から手を離して、半歩下がった所に立った。びゅうびゅうと風が吹いた。気を抜いたら、飛ばされてしまいそうになるような、強い風だった。
「あ……、僕もです」
お兄さんは蚊の鳴くような声でそう言うと、顔を下げた。長い前髪が、カーテンみたいになって、お兄さんの顔を見えなくさせた。今、目の前のお兄さんが、どんな表情をしているのか、私には分からなかった。
「どうして死のうと思ったんですか」
私は何故かそんな事を聞いてしまった。口に出した後に、あぁ、こんな事聞くんじゃなかったな、なんて思った。
「それは……」
お兄さんは下を向いたまま、口ごもってしまった。「ごめんなさい」そう言いかけた時だった。
「僕、漫画を描いているんです。一応、漫画家なんで」
「漫画、ですか」
漫画家、その言葉を聞いて無為意識の内に、指先に力が入った。ゆらり、私の中の何かが揺れた。漫画家なんて、めちゃくちゃ凄いじゃないか。なりたいのに、なれなかった人だって、星の数ほどいるんだぞ。死にたいだなんて、そんな事、勿体無いじゃないか。この人の漫画を読みたい。この人がどんな話を作るのか、どんな絵を描くのか、とても気になる。
「読ませて下さい。読みたいです」
気が付いたら、そんな言葉が口からでていた。お兄さんはやっと顔を上げた。ゆっくりとあげられたその顔は、ぼうっとしていて、何処かに心を沈めてきてしまったかのように、生気が無かった。お兄さんの虚ろな目が私を捉えた。
「えぇっと、あの、どうして?」
「読みたいです。どうしても読みたいんです」
私はお兄さんの戸惑いを押し切るように「読みたい」と繰り返した。お兄さんは持っていた黒い肩掛けカバンから、一冊の漫画本を取り出した。
「……これ、です」
お兄さんの骨っぽい手から、漫画本を受け取る。
「ありがとうございます」
私は表紙をじっくりと眺めた。可愛い魔法少女がウインクをしていた。お兄さんの絵は悔しいと思えないくらいに上手だった。私の描く絵とは、もう別次元だった。
「凄い……」
思わず感嘆の溜息が漏れた。表紙の女の子のきらきらした目が、今にも死んでしまいそうなお兄さんの虚ろな目と似ても似つかない。本当にこの人が描いたのだろうかと疑う位だ。お兄さんは何も言わず、川の濁流を静かに見下ろしていた。
私がその場に座り込んで、漫画本を開いた。キャラクターの表情は生き生きとしていて、指の一本一本まで丁寧に描かれていて、とてもレベルが高かった。お話のテンポも良くて、先へ先へとどんどんページをめくりたくなるような素敵なスーリーだった。
こんな素敵な物を作れる人がいるのか、今、目の前に。そう思うとざわっと鳥肌がたった。
「死んじゃ、ダメですよ」
本を読み終わった私は、ぼろぼろと涙をこぼしながら言った。何故だか、涙が出てきた。拭っても、拭っても、涙が溢れて止まらなかった。声が固く、震えた。
「貴方の手は、指は、はこんなに素敵な物を描けるのに、貴方の頭は、こんなに面白いストーリーを考えられるのに、自ら命と体を切り離すようなこと、しないで下さいよ」
ゆっくりと、表紙に指を這わせる。この子たちのお話が、途中で終わってしまう。そう思うと、どうしようもない位の、寂しい気持ちに襲われた。
「……ずっと仲良くやってきたんです」
お兄さんは荒々しい波を見つめながら、擦れた声で言った。その声は、波の音にかき消されてしまいそうで、私は、聞き逃すことのないように、息を呑んでお兄さんの声に集中した。
「学生時代から、ずっと仲良くしてきました。今までも、これからも、ずっとそいつと絵を描いて生きていくんだと、僕は勝手にそう思っていました」
「あいつが急にいなくなって、世界が真っ暗に見えました。なかなかストリートも思いつかず、絵も描けず、今まで僕を支えてくれた読者は、どんどん僕の作品から離れていきました」
風が肌を刺すように冷たかった。足の指先が冷えて痛かった。がたがたと体が震えて、かちかちと歯が鳴った。
「僕は絵を描いて生きてきました。漫画と生きてきました……僕は、もう……」
お兄さんはふらふらと立ち上がった。今にも下に落ちていきそうで、私の心臓はバクバクと音を立てた。
「あ、あの!」
私はお兄さんの手首を掴んで、思い切り引っ張った。お兄さんの体がどさりとこちら側に倒れる。
「絵、描きましょう‼ 漫画、描きましょう‼ 私、魔法少女大好きなんです! 今まで恥ずかしくて、誰にも言えなかったけど、隠してきたけど、本当は魔法少女が大好きなんです‼」
お兄さんは倒れて動かないまま、目だけで私の事を見た。
「小さい頃からずっと、ずっと、魔法少女に憧れてて。魔法少女の絵ばかり描いてきて。だから。だから!」
大きく息を吸い込む。そして私は叫んだ。視界が、涙で滲んだ。
「この物語を、この子達を、途中で置いていくような事、しないでください……私と絵を描いて生きましょう。この子達と、皆で、生きてきましょう」
ずっと憧れていた魔法少女。困っている人を助けて、辛くてもみんなの為に必死で闘って、そんな姿に憧れを抱いて私は生きてきた。
私はお兄さんに手を差し出した。お兄さんはゆっくりと私の手をとって、立ち上がった。
「何となく、生きてみようかなって、君と絵を描いて生きようなんて、そんな事を思ったよ」
お兄さんはカバンから、作中の女の子が使用する武器――魔法のステッキを私に手渡した。
「凄いね。君は魔法少女かもしれない。助けてくれて、ありがとう。これからも助けて貰って、いいかな?」
お兄さんは弱々しく笑った。その弱弱しい笑みでさえ、私に生きる力を与えた。
「当たり前じゃないですか」
私は笑顔で応えて、魔法のステッキを握りしめた。