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なきねの夢  作者: 六条
3/3

③絶えて桜の

こんな古歌がある。


世のなかに絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし


もし世の中に桜がなかったなら、春を過ごすひとびとの心はのどかなものであっただろうに。


もし、わたくしに『源氏のものがたり』がなかったのなら。女としての苦しみも、よろこびも、なにひとつ知ることのできないままだったかもしれない。


はじめは、『須磨』と『明石』というふたつの話が巷に広まっていて、ある日女房が、親類から写させてもらったと言ってそれを持ってきた。

わたくしは、実をいうとあまり興をそそられなかったのだけれど、女房たちの方がそわそわとしてしまっていて、わたくしは声の良い女房に読みあげるよう命じた。

流された悲劇の源氏と、明石に住む姫君との恋のものがたり。やはり、興はわかなかった。

女房たちは目をかがやかせて、物語に聴き惚れていた。わたくしは密かにため息をついた。

そこに、ふいにお父様が「中宮様はおいでですかな」と局にあらわれた。

物語は途切れ、女房たちは恥ずかしそうに居住まいをただした。

「おや、物語をしていたのか。これは無粋なことをしてしまったようだ」

お父様は笑いながら、女房の持っていた冊子をひょと取りあげた。

「おお、これは今流行りの源氏の。私はまだ読んだことがないのだが、どうだね、面白いのかね」

お父様が見まわすと、女房たちは頬を赤くして、ええ、ええ、とうなずいた。

「中宮様はいかがですかな」

お父様が今度はわたくしに問うてくる。女房たちの目がわたくしに集まった。

おもしろいとも、おもしろくないとも、わたくしには分からないのに。わたくしは「そうですわね」とあいまいにうなずいた。

女房たちが得意げに「中宮様もお気に召したご様子ですわ」とはしゃいでいた。わたくしはお父様の視線からのがれるように、そっと扇で顔をおおった。


それから、さほど間を置かずして、お父様はわたくしの局にあたらしい女房をむかえた。

「式部の丞、藤原為時殿の娘です、中宮様。藤式部と呼んで使うとよいでしょう」

その女房は、お父様より少し後ろに控えていた。伏せていて顔は見えなかった。

「為時殿の……」

「ええ。今宮中で評判の、あの『源氏のものがたり』を書いた者ですよ」

わたくしはあの一度だけ女房に読ませたきりで、もうすっかり物語の中身などは忘れてしまっていた。そういえば女房の持ってきていたあの写本が、ほかの局にも広まったとか聞いた。

「おもてをお上げなさい、藤式部」

わたくしが言うと、藤式部はなめらかに顔を上げ、つとわたくしを見た。

不思議な眼だった。落ちくぼんでも、満ち足りても、翳ってもいない。ただ静謐に、あるがままのわたくしを見定めようとする、夜の湖面のような眼だった。

「……藤式部にございます。よろしくお願い申し上げます」

これもやはり、淡々と、落ち着き払った声だった。

「藤式部、お前には中宮様のもとで、『源氏のものがたり』の続きを書いてもらいたいのだ」

お父様が身を少し後ろにかたむけて、藤式部にそう語りかけた。

「ものがたりの、つづきを……」

と言ったのは、わたくしだった。

評判の物語がこの局で書かれるとなれば、女房たちはよろこぶだろうけれど、わたくしには意味が分からなかった。

「左様です、中宮様。なんでも帝も、『源氏のものがたり』に興味をお持ちだとか」

藤式部の表情は少しも動かなかった。お父様の思惑をすべて承知の上で、ここへ来たのだろう。

それでよいのか。そなたに矜持はないのか。そんな言葉がわたくしの喉までこみ上げた。

けれどそれは、わたくしも同じことだった。


藤式部はおそろしいほど冴えた筆で、『源氏のものがたり』を書きつづけた。

そして三年後、わたくしは御子をはらんだ。


すべてはお父様、藤原道長の思惑どおりに。

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