2
2
「…………」
ニナは、朝から消沈していた。
夫妻が、翌日―――つまり今日の朝―――になっても、帰って来なかったのだ。
結局彼等は、ニナが学校へ行ってから暫くして、丁度お昼時に帰宅した。
「ただいま……済まなかったな、遅くなって」
しかし帰って来たのは宏一さん一人で、シンディさんの姿は無い。
「いえ、構いません。お帰りなさい……シンディさんは?」
「それがな……すっかり落ち込んでしまって」
もう少しだけ友人を見届けたい、と泣きながら懇願するものだから、仕事があったのだけれど、彼女の気持ちを汲んだらしい。
「俺はあいつの分まで仕事しなきゃならないから、すぐに出勤しなきゃならないが……シンディが帰って来たら、宜しく頼む」
「今晩は遅くなるのですね。分かりました」
「済まないな、ニナにも謝っといてくれ」
……それは逆効果です、彼女はきっと、更に落ち込む。
そう思ったが、口には出さなかった。
彼は疲れているのに、どうしようもない事で困らせてどうする?
「行ってらっしゃいませ」
宏一さんを見送ると、僕は部屋の掃除に取り掛かる事にした。
***
掃除が終わり、キッチンで晩ご飯の下拵えをしていると、玄関ドアの開く音がした。
靴を脱ぐ時に鳴る、カツン、と高いヒールの音―――シンディさんだ。
時刻を確認すると、三時だった。
「お帰りなさい」
「ああ……」
きちんとメイクもしているし、服や髪も乱れていない。それなのに、酷くやつれたように見えるのは、僕の気のせいだろうか?
「……部屋に居るわ……」
そうとだけ言うと、シンディさんはふらふらと覚束無い足取りで、二階にある夫妻の寝室へ上がっていった。
慰めの言葉だとか、僕には全く思い付かなくて、ただ、いつもより小さく見える背中を見つめた。
暫くすると、今度はニナが帰って来た。時計は四時三十分を指していた。
咲木家の帰宅ラッシュだ、などと人間的な無駄な事を思いながら、ニナを迎える。
「パパとママは?帰って来た?」
「うん……また仕事に出掛けてしまったけど」
シンディさんの帰宅を隠した訳では無いが、わざわざ言う必要性も無いと思ったので、言わなかった。
「そっか……」
ニナは落胆した様子で言った。
「ニナ、宿題が終わったら、おやつを食べよう。今日はチョコレートのたっぷりかかったドーナツだよ」
「やったあ!」
ニナが漢字ドリルを開き宿題を始める間に、僕はシンディさんに、リラックス出来るようにと、ジャスミンティーを淹れた。
夫婦の寝室は、二階へ繋がる階段を上がって、すぐ右手にある。部屋の前に立ち、僕は軽くドアをノックして返答を待った。
暫くすると、中からシンディさんが出て来る。
「お茶を淹れたので、お持ちしました」
「ああ……ありがとう」
「……大丈夫ですか」
いつもの口調で無機質に言う僕に、シンディさんは哀しそうに笑った。
「……少し、話をしましょうか」
そう言われ、目線で入室を指示される。僕はシンディさんについて中に入り、ジャスミンティーをベッドサイドにあるテーブルに置く。彼女はベッドに腰掛け、それを一口飲んだ。
「……おいしい」
「良かった」
少し和らいだ表情に安堵する。
「心配を掛けて、ごめんなさい」
「いえ」
「……哀しいと思えば思うほど、哀しみが強くなってゆくの」
「……僕には、よく分かりません」
「そうでしょうね……」
シンディさんは、再び哀しげに笑った。
「誰にも秘密にしている事なのだけれど―――」
彼女は、僕のメンタルプログラムを担当した。人間の最も基本的な感情、“喜怒哀楽”を組み込めば、いかような感情にも応用できると思われていたので、そう大変な作業では無かった。
しかし―――
「……私は、小さな頃に両親を亡くしたの」
身が張り裂けんばかりの哀しみ。それから生まれる、孤独。虚無。
―――果たして、あのような苦しみを、データとして作成してまで組み込む必要があるのか?
「“何か”が哀しいのでは無い。“哀しい事”が哀しいのでは無い。哀しみが、哀しみを深くするー――ならば、“哀”という感情が無ければ、哀しみは無くなるのではないかと考えたの」
「哀しみを……無くす」
「人のには絶対の感情だわ。けれど、私たちの勝手で作り出すあなたに、“哀”を抱かせるのは酷だと思った」
そして、自分一人の独断で、ゼロの中の“哀”を消去した。
「……だから僕は、感情が欠如しているのですか?」
彼女はふるふると首を振った。
「欠けているのでは無いわ。……“哀しい”よりも、もっと尊いものを、代わりに―――」
…“愛”を。
シンディさんは、小さく言った。たった二文字の、けれど“哀”より尊いもの。
僕はその二文字を、噛み締めるように口にした。
彼女の言う哀しみは良く分からないけれど、“愛”がどのような気持ちか、それは僕にも分かる。
ニナを思うみたいな気持ち。
バニラの香りをさせた髪の毛を撫でた時だとか、柔らかな頬にキスした時の、あのふわふわした何とも言い難くくすぐったい感じ。
「……勝手をして、ごめんなさい。もし私がきちんと喜怒哀楽をプログラミングしていたら、貴方は新薬の実験対象としての役目を果たせていたのかも知れない」
「いえ―――」
僕は、頭を下げるシンディさんに慌てて首を振った。
例えばその判断が彼女のエゴだったとしても、寧ろ、感謝したいくらいだった。
だって、失敗作となったお陰で、僕はニナと会う事が出来たのだから。
こうして、傍に居る事ができるのだから―――
.