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幼なじみ全員から告白された日、俺の平和な日常は終わった

掲載日:2026/06/30

【第1話】

 有栖川悠の朝は、いつも誰かの声で始まる。


 今日も例に漏れず、一階から「ゆーくん起きてー!」という元気すぎる叫び声が飛んできた。天野ひなただ。二十歳、大学二年生。幼馴染歴十七年。朝のモーニングコールはもはや彼女の専売特許になっている。


 (せめてあと五分……)


 布団を頭から被った瞬間、ドアが勢いよく開いた。


 「起きてるか確認しにきたー!あ、やっぱり起きてないじゃん!」


 ひなたは迷いなく部屋に入り込み、布団を引きはがした。眩しい朝日が容赦なく悠の顔に差し込む。


 「ひなた、ノックは?」


 「したよ。三回。でも返事なかったから実力行使!」


 太陽みたいな笑顔で言い切るあたり、本当に罪悪感がまったくない。ひなたのトレードマーク――燃えるような赤みのある茶髪のポニーテールが揺れた。


 悠がなんとか起き上がって着替えのために「出てってくれ」と言うと、「べつにいいじゃん」とひなたはすねながらも廊下に出た。その一秒後、


 「おはよう、悠くん」


 廊下から涼しげな声がした。月島しおりだ。二十一歳、大学二年。悠の隣の家に住む読書家の幼馴染。グレーがかった眼鏡の奥で落ち着いた瞳がこちらを見ていた。いつのまに来たのか。


 「ひなたちゃん、廊下で立ち話はどうかと思う」


 「しおりも来てたの!?」


 しおりは静かに本を一冊取り出し、(ひなたちゃんに合わせて早めに来たら案の定でした)という顔をした。


 一階に降りるとキッチンから甘い匂いがした。桜庭みくるが朝ごはんを作っていた。二十歳、大学二年。料理の腕前はプロ級で、悠家のキッチンは週三回はみくるに占領される。


 「悠くん、フレンチトースト焼けてるよ。ちゃんと卵液に一晩漬けといたやつ」


 「うちのフライパン使って申し訳ない気持ちとありがとうの気持ちが半々だ」


 「いいじゃないですかー。私も食べるんだし」


 みくるは恥ずかしそうに笑いながら皿に盛り付けた。癒し系という言葉がそのまま人の形をしたような子だ、と悠はいつも思う。


 玄関チャイムが二回鳴った。西野凛だ。二十一歳。ジャージ姿で額に汗をかいている。明らかに朝ランして直行してきた。


 「朝飯あるか。走ってきたら腹減った」


 「遠慮ってものを知らないの、みんな」


 「幼馴染に遠慮したら逆に失礼だろ」


 凛はさっぱりした顔で言い切った。ショートカットの黒髪が爽やかで、スポーツ推薦で入った陸上部のエースはいつでも堂々としている。


 そして最後に、ふわふわと東山ゆきのが迷い込んできた。二十歳、大学二年。天然で甘えん坊で、なぜか悠の家の合鍵を持っている(いつ渡したか本人も覚えていない)。


 「ゆーくん……昨日夢で食べたプリンの味が忘れられなくて……」


 「起きろ、ゆきの」


 「起きてるよ?」


 半目のゆきのはそのままみくるの作ったフレンチトーストに手を伸ばそうとして凛に止められた。


 こんな朝が、ずっと続いていた。


◆◆◆

 その日の夕方が、すべての始まりだった。


 大学の帰り道、悠はいつもの公園に呼び出された。差出人は五人全員。珍しい、と思ったが、まさか全員同時に来るとは思っていなかった。


 ベンチに座っていた悠の前に、五人が横並びで立っている。


 (なんだ、これ。何かやらかしたか俺)


 「あのさ、悠」と最初に口を開いたのはひなただった。いつもの元気な声が、少し緊張で揺れている。「ずっと言おうと思ってた。好き。付き合ってください」


 悠は固まった。


 次にしおりが一歩前に出た。普段は感情を表に出さない彼女の頬が、かすかに赤い。「私も……同じ気持ちです。悠くんのことが好き」


 (え、待って——)


 「わ、私も!」みくるが両手をぎゅっと握りながら続く。「ずっと好きだったんです、悠くんのことが。告白するつもりで今日ここに来ました」


 「私も同じだ」凛は目を逸らしながらも声はしっかりしていた。「お前のことが好きだ、悠」


 そして最後にゆきのがふらふらと一歩踏み出して、目をうるうるさせながら言った。


 「ゆーくん……好きだよ。ずっと」


 五人からの告白が、夕焼けの公園に重なった。


 悠は口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。


 (……え? え? 全員? 今日? 同時に?)


 沈黙が落ちた。五人はそれぞれの顔で悠を見ている。ひなたは強気そうに腕を組みながらも耳が真っ赤で、しおりは本の角を指でなぞって視線を泳がせ、みくるはエプロンの裾を握り締め、凛は空を見ていて、ゆきのは今にも倒れそうな顔をしていた。


 「……俺、今夢見てるか?」


 「見てない」と五人が同時に答えた。


 有栖川悠、二十歳の秋。


 平和だった日常は、この瞬間に終わった。




【第2話】

 翌朝、悠は昨日のことが夢だったんじゃないかと思いながら目を覚ました。


 (五人全員から同時に告白……普通に考えてあり得ない)


 だが夢ではなかった。証拠に、今日もひなたが突撃してきた。ただしいつもとは少し違って、ドアを開けた後に珍しく一瞬止まった。


 「……起きてる?」


 「ノックした?」


 「した。ちゃんと五回」


 昨日より二回増えている。わずかな進歩に悠はどう反応すべきか迷った。


 「昨日のこと、ちゃんと聞いてたよね?」ひなたは部屋の入り口に立ったまま、いつもより控えめな声で言う。「ゆーが返事しないから、みんなひとまず家帰ったけど。私は本気だから」


 (本気なのはわかってる。問題はそこじゃなくて五人同時ってことで……)


 「わかった。ちゃんと考える」


 「いつまでに?」


 「……そんなすぐには」


 ひなたはふくれっつらをしたが、それ以上は押さなかった。代わりに、「着替え終わったら朝ごはん食べに来なよ。うち、今日パンケーキ作るから」と言い残して先に降りていった。


◆◆◆

 ひなたの家のキッチンはいつも明るい。天野家は両親が共働きで、ひなたが家事の大半を回している。料理の腕はみくるほどではないが、得意なものは本当に美味しい。パンケーキはその筆頭だ。


 悠が天野家の勝手口から入ると、ひなたがエプロン姿でフライパンに向かっていた。


 (なんか……いつもより可愛く見えるのは昨日のせいか)


 意識してしまっている自分に気づき、悠は首を振った。


 「焼けるの待ってて。はちみつとメープルどっちがいい?」


 「メープル」


 「じゃあはちみつね」


 「なんで聞いた」


 「私がはちみつ派だから」


 ひなたはへらへら笑いながらパンケーキをひっくり返した。その瞬間、フライパンのふちにエプロンの紐が触れ、勢いよくほどけた。エプロンが落ちそうになるのをひなたが慌てて押さえたはずみに、体がぐらりと後方に傾いた。


 「っと」


ラッキースケベ悠は反射的に受け止めた。ひなたの背中が悠の胸に当たる形で、二人は一瞬抱き合うような体勢になった。ひなたのポニーテールが悠の鼻先をかすめ、シャンプーの甘い香りがした。


 「……ゆー、近い」


 声が耳のすぐそばだった。ひなたの耳が真っ赤になっている。


 「お前が転びかけたんだろ」


 「わかってる! わかってるけど!」


 慌てて飛び退いたひなたは、フライパンに戻り直し、やたらと強くパンケーキをひっくり返した。少し焦げた。


 二人でしばらく無言だった。


 「……昔さ」ひなたが唐突に切り出した。「ゆーが転んで膝擦り剥いた時、絆創膏貼ってあげたじゃん。覚えてる?」


 「……小学校二年だっけ」


 「そう。あの時から、なんかずっとゆーのそばにいたいって思ってた。気づいたら好きになってたんだよね」


 ひなたの横顔は、いつもの元気とは別の何かを持っていた。


 悠は黙って、少し焦げたパンケーキを受け取った。はちみつをかけた。


 「……美味い」


 「焦げてるのに?」


 「焦げてても美味い」


 ひなたは一瞬間を置いて、ぱっと花が咲いたように笑った。


 (駄目だ、こういう顔をされると……)


 有栖川悠は、この春が長くなりそうだと覚悟した。




【第3話】

 月島しおりと本の話をすると、時間が溶けていく。


 悠は昔からそれを知っていた。しおりが語り始めると止まらない。普段は寡黙な分、好きな話になった瞬間に目が輝いて言葉があふれてくる。その落差が、ちょっとずるいと思う。


 大学の図書館で、悠はしおりと隣り合って座っていた。しおりがレポートを書いているというから付き合っていたのだが、気づいたら本の話になっていた。


 「この作家のデビュー作、読んだことある?」しおりが一冊の文庫本を開いたまま悠に向けた。「文体がね、最初の三行で世界に引き込まれる感じがして」


 「読んでない。でも貸してくれ」


 「……本当に読む?」


 「しおりが面白いって言う本、外れた試しがない」


 しおりは少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。


 (あ、やっぱりこういう顔が好きだ。なんで気づかなかったんだろうな、ずっと)


◆◆◆

 閉架書庫に入ることになったのはしおりが探している資料があったからだ。司書さんに許可をもらい、二人で棚の間に分け入った。


 古い本の匂いのする薄暗い空間で、しおりは背伸びして高い棚を探している。


 「……あそこかな」


 つま先立ちになっても届かない。眼鏡がずり落ちそうになるのを押さえながら、しおりがさらに背伸びした。


ラッキースケベ 悠が後ろから手を伸ばして本を取ってあげようとした瞬間、しおりが重心を崩した。悠はとっさに支えようとしたが、狭い棚の間で体が接触し、しおりの背中が悠の胸に密着する形になった。眼鏡が外れ、悠の手の上に落ちた。


 至近距離で、しおりの横顔が見える。


 「……眼鏡、落ちました」しおりが囁くように言った。


 「持ってる」


 「……悠くん、近い」


 「棚が狭いんだ」


 「……そうですね」


 しおりは動かなかった。耳まで赤くなっているのに、逃げない。悠は眼鏡をそっとかけ直してあげた。


 「……昨日の告白」しおりが静かに言い始めた。「私、みんなと一緒に言ったから、なんか埋もれちゃった気がして」


 「埋もれてない。ちゃんと聞いてた」


 「……本当に?」


 「声が一番静かで、でも一番まっすぐ届いた」


 しおりは三秒ほど黙ってから、悠から少し離れて本棚のほうを向いた。


 「……それを言われると困ります」


 「なんで?」


 「嬉しすぎて、レポートに集中できなくなる」


 悠は小さく吹き出した。しおりはむっとしたように本を抱えて書庫を出ていった。その後ろ姿の、耳の赤さだけが残った。


 (月島しおり。俺は昔からお前のことを知っていると思っていた。でも、本当に知っていたのか?)


 悠は棚に残った本の背表紙を一冊なぞって、静かに書庫を後にした。




【第4話】

 桜庭みくるのエプロン姿は、世界の平和を象徴している——そう悠は本気で思っている。


 この日、みくるは悠のために夕食を作りに来た。「告白のお返しに手料理でもどうかと思って」という理由だったが、告白のお返しが手料理というのがいかにもみくるだ。


 「今日はポトフと、あと悠くんの好きなコロッケも」


 「どこで好物覚えたんだ」


 「えっ、覚えてて当然じゃないですか。好きな人の好きなもの」


 さらりと言うものだから悠は言葉に詰まった。みくるはそのことに気づかない様子でコロッケの成形を始めた。


 キッチンの光の中で、みくるの栗色の柔らかな髪が揺れる。普段から穏やかな雰囲気を持つ彼女は、料理中が一番「みくる」という感じがする。


 「手伝う」


 「いいですよ、見てて」


 「遠慮しなくていい」


 「遠慮じゃなくて……悠くん、包丁持ちかたが怖いので」


 そんな事情があったか。悠は大人しくコロッケのパン粉つけを担当させてもらった。


◆◆◆

 問題は夕食後の片付けの時に起きた。


 みくるが洗い物をしていて、悠が横でふきんを用意していた。洗い終わった皿を受け取ろうとした瞬間、二人の手が重なった。みくるが驚いて皿を取り落としそうになり、


ラッキースケベ 悠はとっさに皿を支えた。勢いで二人は向き合う形になり、みくるのやわらかな体が悠の腕に収まる格好になった。石鹸の清潔な香りと、みくるの甘い匂いが混ざった。


 「……皿、大丈夫でした」みくるがか細い声で言った。


 「よかった」


 「……でも悠くんが近い」


 「お前が落としそうになったからだ」


 「わかってます。でも……もう少しだけ、このままで」


 その小さな言葉に悠は固まった。みくるは悠の胸のあたりに視線を落として、ほんのりと頬を赤く染めている。


 「……みくる」


 「ちょっとだけです。五秒で離れます」


 みくるは心の中で数を数えているのか、少しして静かに離れた。悠に皿を渡して、また洗い物に戻った。後ろ姿の耳が赤い。


 「……悠くん、私ね」蛇口の音の向こうでみくるが言った。「告白して後悔はしてないんです。でも五人全員にしたってわかったとき、ちょっと恥ずかしくて」


 「なんで」


 「なんかこう……一人じゃないって、特別感がないじゃないですか」


 悠は少し考えてから答えた。


 「みくるの気持ちはみくるだけのものだろ。人数は関係ない」


 みくるが振り返った。目が少し潤んでいる。


 「……悠くんって、ときどきそういうこと言うからずるい」


 「ずるくない」


 「ずるい。コロッケ、おかわりありますよ」


 みくるは笑いながら鍋のふたを開けた。ポトフの湯気が台所に満ちた。


 (この子のそばにいると、なんかあったかい。それだけは昔から変わってない)




【第5話】

 西野凛に誘われてランニングに付き合ったのが間違いだった——いや、間違いではないが、普通の体力の人間が誘いに乗るべきではなかった。


 「ほら、遅い」


 「凛……ペース……速すぎ……」


 「これ私の普通ペースだぞ」


 朝六時の河川敷。凛は軽快なフォームで走りながら時々後ろを振り返る。運動習慣のない悠には地獄のようなペースだが、凛にとっては散歩感覚らしい。


 (……なんで俺は来てしまったのか)


 答えは明白で、「朝練付き合ってくれたら話したいことがある」と昨日凛に言われたからだ。


 三キロ走って堤防の草の上に倒れ込む悠のそばに、凛がゆっくりと腰を下ろした。


 「昨日のこと」凛が前を向いたまま言った。「みんなと一緒になっちまったのは正直失敗だったと思ってる」


 「失敗って」


 「本当は一人で言いたかった。ひなたが『みんなで言おう』って言い出して、流れで参加したけど……あれじゃ私の気持ち伝わらないよな」


 凛らしい率直さだった。


 「伝わってる」


 「ほんとか」


 「凛が赤面して空見てたのは初めて見た」


 「……言うな」凛は素直に恥ずかしそうにした。


◆◆◆

 帰り道に問題は起きた。


 河川敷の土手の段差、悠が足を踏み外して盛大に転んだ。


ラッキースケベ 凛がとっさに手を引こうとしたが勢いで一緒に倒れ込み、二人は草の上に重なった。凛の上に悠、という形になる一秒手前で体勢が入れ替わり、今度は悠の胸の上に凛が倒れ込む形になった。凛のショートカットの黒髪が悠の頬に触れ、ジャージ越しに細い体の感触があった。


 二人とも動けずに一瞬止まった。


 「……重いか」凛が平坦な声で言った。


 「重くない」


 「……そうか」


 凛は起き上がりながら「怪我はないか」と確認した。悠も「ない」と答えた。二人ともなんとなく草を払って立ち上がり、しばらく黙って歩いた。


 「悠」


 「なに」


 「……告白の返事、急かす気はない。でも忘れるな」


 「忘れない」


 「よし」


 凛はそれだけ言って、また軽快に走り始めた。


 (西野凛、お前は昔から真っすぐで、そこが一番難しい)


 悠は少し遅れて、追いかけた。




【第6話】

 東山ゆきのは、悠が昔から一番心配してきた幼馴染だ。


 天然で甘えん坊で、どこかぼんやりしていて、よく道に迷う。財布を忘れる。傘を持って出ない。気づいたら誰かの家で昼寝している。


 でも——それだけじゃない、と悠はわかっていた。


 ゆきのはひとりの時間に、泣いている。


 それを知ったのは中学の頃、偶然見かけたからだ。理由は聞かなかった。ゆきのが「なんでもない」と笑ったから。でもその時から悠は、ゆきののことを少し別の目で見るようになった。


◆◆◆

 告白から三日後の夜、悠の部屋の窓の外に小石がぶつかる音がした。


 見下ろすとゆきのが立っていた。夜の九時。パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの格好で、顔が少し腫れていた。


 悠はすぐに一階に降りて玄関を開けた。


 「……来ちゃった」ゆきのが小さな声で言った。


 「来ていい。上がれ」


 ゆきのはそっと家に入った。台所でお湯を沸かしてコーヒーを淹れていると、リビングのソファでゆきのがぼんやりと膝を抱えて座っていた。


 「どうした」悠はコーヒーを持っていって横に座った。


 ゆきのはしばらく黙っていた。それから、


 「……ゆーくん、誰かを選ぶことになったら、私、笑えるかな」


 言葉が小さく落ちた。


 「もし……私じゃない誰かになっても。ひなたちゃんやしおりちゃんや凛ちゃんやみくるちゃんのことは好きだから。でも……怖い」


 悠はコーヒーカップを置いた。


 「ゆきの」


 「なに」


 「今日、ちゃんと泣いていい」


 ゆきのの目がうるんだ。それからこらえるようにまばたきしたが、間に合わなかった。涙がひとつ、頬を伝った。


 「……泣いたら変だよ」


 「変じゃない」


 「だって告白した側が泣くなんて……」


 「関係ない。怖いなら怖いって言っていい。俺は昔からゆきのがひとりで泣いてるのを知ってた」


 ゆきのが息をのんだ。それから、ずっとこらえていたものが崩れるように、静かに泣き始めた。声はほとんど出ない。ただ涙だけが流れた。


 悠は何も言わずに、ゆきのの隣にいた。


 しばらくして、ゆきのが深呼吸をした。


 「……ゆーくん」


 「うん」


 「好きな気持ちは本当。でも……みんなのこともちゃんと好きで、それで苦しいのも本当」


 「わかった」


 「……答えが出るまで、そばにいていい?」


 「最初からそばにいるだろ、俺たちは」


 ゆきのがくすりと笑った。目が赤い。でも笑っている。


 (東山ゆきの。お前のそういうところを、俺はずっと知っていた。そしてずっと、放っておけなかった)


 夜が更けるまで、二人はソファに座ったままだった。ゆきのはいつのまにか肩を預けて眠っていた。悠はその重さを受けながら、五人それぞれの顔を思い浮かべた。


 答えは、まだ出ない。でも今夜だけは、それでよかった。




【第7話】

 「温泉に行こう」とひなたが言い出したのが発端だった。


 「なんで急に」


 「みんなでリフレッシュすれば関係がリセットされてうまくいくと思う」


 「むしろ悪化しそうだ」


 しかし気づいたら話がまとまり、六人で一泊二日の温泉旅行になっていた。


 行先は栃木の小さな温泉宿。貸し切り露天風呂があるのがひなたのお気に入りポイントらしい。


 道中の車内はなぜか微妙な雰囲気で、ゆきのだけがのびのびと外の景色を見ていた。


◆◆◆

 夜、男女で露天風呂の時間帯を分けることになった。悠が先に入り、あがったところで廊下を歩いていると、


ラッキースケベ 角を曲がった瞬間、脱衣所から出てきたひなたと正面衝突した。ひなたはバスタオル一枚を体に巻いたところで、濡れた髪が肩にかかっている。二人は至近距離で硬直した。


 「……出るの早っ!」


 「お前が遅い!」


 「見た?!」


 「見てない! 目閉じた!」


 「絶対見た!!」


 ひなたは真っ赤になって廊下を走り去った。脱衣所の扉がバンと閉まった。悠はその場でしゃがみこんだ。


 (……心臓に悪い)


 夕食の席でひなたは悠の真向かいに座り、ずっと顔が赤かった。でも途中から悠を睨みながら唐揚げを食べていた。凛がそれを見て「何があった」と首を傾げ、みくるが「ふたりとも仲良しですね」と微笑んだ。しおりが静かに本を開き、ゆきのが「つくねおいしい」と言った。


 夜の宴会でゆきのが間違えて大人用の飲み物を飲み(ノンアルだったが気持ちだけで酔った)、みくるが泣きそうになりながら「全員仲良くいられますように」と言い、凛が「そういうことは神社で言え」と突っ込み、しおりが「でも、私もそう思います」と静かに言い添えた。


 (この関係を壊したくない。でも答えも出さなきゃいけない。)


 夜の露天風呂に一人入りながら、悠は月を見上げた。誰かを選ぶということは、他の誰かを傷つけるということだ。でも誰も選ばなければ全員が傷つく。どこかで悠はその答えを出さなければならない。


 ただ今夜は、六人で笑っていた。


 それだけでいいと思った。




【第8話】

 月島しおりが本を書いていることを、悠は知らなかった。


 知ったのは偶然だ。しおりがカフェで開いていたノートに、文章がびっしりと書き込まれているのを見かけた。


 「……小説?」


 しおりはノートを素早く閉じた。


 「見た?」


 「最初の三行だけ」


 「……何行でも見ないでほしかったです」


 しおりは眼鏡を少し直して、カフェのテーブルの木目を見つめた。


 「ずっと書いてるんです。誰にも言ってなかったけど」


 「読んでいいか」


 「……駄目です」


 「なんで」


 「……恥ずかしいから」


 しおりは静かに続けた。「あなたのことを書いてるので」


 悠は一瞬思考が止まった。


 「俺の……」


 「主人公のモデルです。気づいてますか、あなたは。人の話をちゃんと聞く。誰かが困ってたら黙って側にいる。それってすごいことだと私は思うので、書いてしまいました」


◆◆◆

 帰り道、本屋に寄った。しおりが「参考に」と言って棚を眺めていた。悠はその隣に立って、しおりが迷うように棚を往復する手元を見ていた。


ラッキースケベ 同じ本に手が伸びた。しおりと悠の指が、文庫本の背の上で重なった。二人が互いに気づいて動きを止める。しおりの指が細くて冷たい。悠は手を引こうとしたが、しおりが引っ込めなかった。


 「……取っていいですよ」しおりが静かに言った。


 「しおりが先に触れた」


 「でもあなたのほうが読むと思う」


 「なんで」


 「……私は持ってるので」


 しおりは静かに手を引いた。耳が少し赤い。


 悠はその本を買った。帰ってから読み始めて、気づいたら夜中の二時になっていた。しおりが言った「最初の三行で引き込まれる」というのが、やっと実感としてわかった。


 翌日、悠はしおりに言った。


 「お前の本の読み方で好きな本って、外れない」


 「……それ昨日も言いましたよね」


 「もう一回言う価値があった」


 しおりは少し間を置いて、微笑んだ。普段の静かな微笑みより、少しだけ大きく。


 (月島しおりの笑顔を引き出すのは難しい。でも引き出せたとき、なんかすごくいい気分になる。これがどういう気持ちなのか、俺はまだうまく言語化できていない)




【第9話】

 桜庭みくるのお弁当は、いつも二人分ある。


 それに気づいたのは大学一年の頃だったが、当時の悠は「お腹が空いてたんだな」ぐらいにしか思わなかった。今考えると完全に鈍感だったと思う。


 「はい、悠くん。今日はから揚げとだし巻き」


 大学のキャンパスのベンチ。みくるは白いハンカチを広げてお弁当箱を二つ並べた。一方は明らかにから揚げが多い。悠の好物だ。


 「また多くないか、俺のほう」


 「食べてもらいたいので」


 「じゃあ一つもらう」


 「あ、じゃあこれも」


 「全部やろうとしてる」


 「やだ……気づいてた?」


 みくるは恥ずかしそうに箸を止めた。


 春の風が吹いてみくるの柔らかな髪が揺れた。


◆◆◆

 お弁当を食べ終わって片付けていた時、みくるが唐突に言った。


 「ねえ、悠くん。私……料理人になりたいって夢、ちゃんと言ったことなかったな」


 「聞いてたことある気がする」


 「じゃあ、怖いって話は?」


 悠が黙ると、みくるは続けた。


 「お店を出したいって思ってる。でも怖い。失敗したらって。だから料理は好きだけど、踏み出せなくて……ずっと誰かのために作ってる。それなら怖くないから」


 (そういうことか。みくるの料理はいつも誰かのためで……それが彼女の逃げ場でもあるのか)


 「怖いのは悪いことじゃない」悠が言った。


 「うん」


 「でも、みくるの作るものを食べた人が全員笑顔になるのを俺は知ってる。それはただの才能じゃなくて、お前が誰かを思って作るからだ」


 みくるが少し下を向いた。


ラッキースケベ ちょうどその時、風でお弁当箱の蓋が飛んだ。悠が慌てて掴もうとしてみくると同時に動き、二人の体がもつれてベンチから立ち上がりかけたみくるが悠の胸に倒れ込んだ。お弁当箱の蓋は飛んでいった。


 「……蓋、飛んでいきましたね」みくるが悠の胸元に顔を埋めたまま言った。


 「うん」


 「悠くん……心臓の音、速い」


 「そりゃあな」


 「……私も、です」


 みくるはそっと離れた。蓋を拾いに行って戻ってきた時、目が少し赤かった。


 「悠くんに言われた言葉、ちゃんと受け取りました。……ありがとう」


 「俺も毎日食べさせてもらってありがとう」


 みくるはくすりと笑って、また弁当箱を丁寧に包み始めた。




【第10話】

 西野凛が陸上の大会に出ると聞いたのは、前日だった。


 「なんで先に言わないんだ」


 「別に来なくていい。一人でできる」


 「行く」


 「……勝手にしろ」


 凛はさっぱりした顔でそう言ったが、当日スタジアムのスタンドから悠を見つけた瞬間、一瞬だけ表情が揺れた。悠はそれを見逃さなかった。


 凛の走りは、本当に美しかった。


 スタートの構えから、フォームの一つ一つが無駄なく、しなやかで力強い。三千メートルのレースで凛は前半を抑え、後半の直線でじわじわと前に出て、最後の百メートルで一気に差し切った。


 一位でゴールテープを切った凛に、悠はスタンドから声を上げた。


◆◆◆

 レース後、アップゾーンの端で凛を待った。凛は少し汗ばんで息を整えていた。


 「格好よかった」悠が言った。


 凛は一拍置いた後で、


 「……見てたのか」


 「全部」


 「……そうか」


 凛は少し遠くを見た。


 「本当は怖かった。今日、タイム出なかったら引退しようと思ってた」


 「引退? なんで」


 「ひざが去年から痛くて。騙し騙し走ってたが……限界があると感じてた」


 (知らなかった。ずっと元気そうに見えて、そんなことを抱えてたのか)


 「だから、誰も来なくていいって言ったのか」


 「……負けたら恥ずかしいだろ」


ラッキースケベ その時凛の足がふっと力を失った。疲労と緊張の反動で膝が折れ、悠がとっさに受け止めた。凛の体を支える形で腕が回り、凛の額が悠の肩に当たった。凛の体が想像より細くて、悠は少し驚いた。


 「……すまない」凛が小さく言った。


 「どこ痛い」


 「右膝。でも今日は大丈夫だ」


 「ベンチ行こう」


 凛は少しの間黙ってから、「お前に見られたくなかった」と言った。


 「弱いところを?」


 「……強いと思ってほしかった。お前には」


 悠はベンチに座った凛の横に腰を下ろした。


 「今日の走り見て、弱いなんて思うわけないだろ」


 凛は黙った。それから、


 「……ありがとう」


 西野凛が素直に礼を言うのは珍しい。悠はそれを受け取って、二人でしばらく黙ってグラウンドを眺めた。それが悠には、ちょうどよかった。




【第11話】

 「ゆーくん、今夜、星が見えるって天気予報が言ってた」


 ゆきのが言い出したのは夕食後のことだった。


 「だから?」


 「だから……見に行こうよ。ふたりで」


 ゆきのはにこにこしているがその目が少し緊張している。デートに誘っているという自覚があるのだとわかった。


 (ゆきのが珍しく計画してる……)


 「わかった。行こう」


 ゆきのがぱっと顔を輝かせた。


◆◆◆

 丘の公園は夜になると人が少なく、空が開けていた。ゆきのは大きなブランケットを持参していて、草の上に広げた。二人でそこに寝転がった。


 星は本当に綺麗だった。都会でも、この公園は少し高い位置にある分、光害が少ない。


 「あれがオリオン座」ゆきのが指を差した。


 「逆じゃないか? そっちはカシオペア」


 「えっ、そうだっけ」


 「星座の名前、ちゃんと覚えてない人が連れ出さないでくれ」


 「でも来てくれたじゃん」


 論破された。悠は黙って夜空を見た。


ラッキースケベ ゆきのが「こっちの星は?」と言いながら悠の袖を引いて身を乗り出した瞬間、体のバランスを崩してそのまま悠に倒れ込んできた。ゆきのの頭が悠の首元に、体が胸の上に重なる形になった。ふわふわとした柔らかい感触と温度。ゆきのの淡い香りが漂う。


 「……ゆーくん」


 「なに」


 「……離れた方がいい?」


 (……正直に言うとそのままでいてもいいが、それを言うと全部が変わってしまう気がして)


 「……もう少しだけいい」


 ゆきのが少し驚いた顔をして、それからゆっくり目を細めた。


 しばらく二人で夜空を見上げた。ゆきのがぼんやりした声で言った。


 「星ってさ、本当は今見えてる光が何千年も前のものらしいじゃん」


 「そうだな」


 「私たちの幼馴染も、ずっと昔から続いてるんだよね。記憶って、星みたいだな」


 (……なんかゆきのって、こういうことをふっと言う。ぼんやりしてるのに、たまに核心を突く)


 「ゆきの」


 「なに?」


 「お前、思ったよりちゃんとしたこと言う」


 「……失礼だよゆーくん」


 ゆきのがすねたように言って、それでも離れなかった。


 夜が少しずつ更けていく。ブランケットの中で二人の体温が混ざっていた。




【第12話】

 六人の共通の思い出は、小学三年の夏にある。


 あの年、悠の父親の仕事の関係で「引っ越すかもしれない」という話があった。結果的には立ち消えになったが、当時の悠はそれを友達に言えなくて、一人でずっと黙っていた。


 ひなたが気づいた。「なんか元気ない」と。


 しおりが本を持ってきた。「気が紛れるかと思って」と。


 みくるがお弁当を作ってきた。「食べれば元気出るから」と。


 凛が「外行こう」と言って、一緒に走った。


 ゆきのは何も言わずに手を握った。


 誰も理由は聞かなかった。ただそばにいた。あの夏から、この六人はずっと一緒にいる。


◆◆◆

 告白から半月後、六人で昔の公園に集まった。特に誰かが呼んだわけではなかったが、気づいたら全員がそこにいた。夕暮れに染まったブランコと砂場。子供の頃と変わらない公園。


 「ここで告白されたんだよな」悠は言った。


 「したんだよ」ひなたが訂正した。


 しおりが静かに「あの日、緊張しすぎて前の晩眠れなかった」と言い、みくるが「私は三回練習した」と言い、凛が「一回も練習してない」と言い、ゆきのが「私もしてない……どうしよう」と今更言った。


 悠は全員の顔を順番に見た。


 「……俺さ、まだ答えが出てない」


 「知ってる」とひなたが言った。


 「わかってます」としおりが言った。


 みくるは「急かしてないですよ」と言い、凛は「時間が必要ならいい」と言い、ゆきのは「ゆーくんが決めるまで、みんなでいようよ」と言った。


 悠は少し沈黙して、それから言った。


 「でも一つだけ言える。お前ら五人がいなかったら、俺の今はなかった」


 夕焼けが公園に差し込んでいた。


 ひなたが「なんか告白みたいなこと言うじゃん」と笑い、しおりが「少し違うかな」と静かに言い、みくるが「でも嬉しい」と目を潤ませ、凛が空を向き、ゆきのがぴったり悠の腕に寄り添った。


 悠の中で何かがゆっくりと変わり始めていた。


 (俺の気持ちは、一体誰に向かっているんだろう。でもその答えを出す前に、もう少しだけ——この時間が続いてほしいと思う自分がいる)


 六人分の影が、夕暮れに長く伸びた。


 第一期前半、ここに幕。



【第13話】

 天野ひなたが泣いているところを、悠は二度しか見たことがない。


 一度目は幼稚園の頃、ブランコから落ちた時。二度目は中学二年の冬、祖父が亡くなった夜。


 三度目は、この日になった。


 きっかけは他愛もないことだった。大学の課題発表でひなたが準備してきたプレゼンを、同じゼミの学生に「データの引用がずさん」と指摘された。ひなた自身もわかっていたミスで、言い返せなかった。


 悠がそれを知ったのは夜、ひなたの家の前を通りかかった時だ。いつも明るい天野家のリビングの窓の灯りが、今日は消えていた。


 インターホンを押すと、ひなたが出た。目が赤かった。


 「……なんで来たの」


 「窓が暗かったから」


 「それだけで来るの」


 「それだけで十分だろ」


 ひなたは少し間を置いて、扉を開けた。


◆◆◆

 リビングの電気をつけて、悠がお茶を淹れた。ひなたはソファに横になって天井を見ていた。


 「ゆーって、私のことどう思ってる?」突然ひなたが聞いた。


 「どうって」


 「明るくて強引でうるさいって思ってるでしょ。みんなそう思ってる」


 「思ってない」


 「嘘つかないで」


 「嘘じゃない。俺はひなたのことを、誰より先に動ける人間だと思ってる」


 ひなたが天井から悠に視線を移した。


 「……誰より先に?」


 「小学校の頃、いじめられてた子を最初に助けに行ったのお前だった。誰も動けない時にひなただけが動いた。あれを俺はずっと格好いいと思ってる」


 ひなたがまばたきした。


 「……覚えてたの、そんなこと」


 「覚えてる」


 ひなたは両手で顔を覆って、くぐもった声で言った。


 「……泣いてないから。ほんとに」


 「うん」


 「ちょっと目が乾燥してるだけ」


 「そうだな」


ラッキースケベ しばらくして、ひなたが「お茶ちょうだい」と言いながら上体を起こした拍子に、隣に座っていた悠のほうに倒れかかった。ひなたの顔が悠の肩に埋まる。温かい。ひなたは起き直そうとしたが、体が半分悠にもたれたままの格好になった。ひなたの髪が解けていて、ほどけたポニーテールが悠の首元にかかった。


 「……ごめん」ひなたが言った。


 「いい」


 「……ちょっとだけ、このままでいていい?」


 「いい」


 ひなたは静かにしていた。さっき泣いていた気配が、少しずつ収まっていくのがわかった。


 「ゆー」


 「なに」


 「……また明日から頑張る」


 「知ってた」


 ひなたがくすりと笑った。悠の肩でその笑いが揺れた。


 (天野ひなた、お前は誰かを元気にする前に、たまには自分が元気になっていい。それを俺に見せてくれることが、俺には嬉しかった)




【第14話】

 月島しおりが「話があります」と言ってきたのは、珍しかった。しおりはいつも来るなら「来てもいいですか」と聞く。「話がある」という言い方をしたことが、これまでほとんどなかった。


 悠が「いいよ」と返すと、しおりは夕方に現れた。手に文庫本を一冊持っていた。


 「これ、渡したくて」


 渡された本の表紙に付箋が貼ってあった。付箋には小さな文字で一文だけ書いてあった。


 「好きな人に好きな本を渡せたら、それだけでいい、と思っていた時期がありました」


 「……どういう意味」


 「昔はそれだけで満足できると思っていたけど、今はそれじゃ足りないと気づいた、という話です」


 しおりは普通の声で言ったが、耳が赤い。


 「……つまり?」


 「つまり、本を渡すだけじゃなくて、あなたの隣で一緒に読みたい。それを改めて言いたかった」


 二度目の告白は、静かで真っすぐだった。


◆◆◆

 その夜、二人で同じ本を並んで読むことになった。しおりが前に持っていた一冊と今日渡した一冊、同じ本が二冊あるからだ。


 悠の部屋のソファに、少し距離を置いて座った。しばらくページをめくる音だけがあった。


ラッキースケベ しおりがページを繰った拍子に眼鏡が滑り、落ちそうになって手を出した。その勢いで本が悠のほうへ滑り、拾おうとした二人が中央でぶつかった。しおりの頭が悠の頬に当たり、そのまま肩に凭れる格好になった。眼鏡が悠の胸元に落ちた。


 しおりは眼鏡なしで、少し焦点の合わない目で悠を見た。


 「……見えないです」


 「ここにある」悠が眼鏡を渡すと、しおりはかけ直して、それでも動かなかった。


 「……もう少し、いいですか」


 「いい」


 しおりが静かに言った。


 「私、感情を言葉にするのが苦手で。でも本の話をしている時だけは、言いたいことが出てくる。あなたはそれをちゃんと聞いてくれる。それが……好きな理由の一つです」


 「一つ?」


 「……他にもたくさんあります。全部言うと夜が明けます」


 悠は少し笑った。しおりも、ほんの少し、笑った。


 本のページが、夜風でそっとめくれた。




【第15話】

 傘を忘れたのはみくるのほうだった。


 買い物帰りにスーパーの軒先で雨に降り込められたみくるに、悠が偶然通りかかった。みくるは大きなエコバッグを胸に抱えて、空を見上げていた。


 「悠くん! 傘!」


 「持ってる。入れ」


 みくるは「ありがとうございます」と言いながら悠の傘の下に収まった。二人で並ぶと傘が少し小さかった。みくるの肩が悠の腕に触れる距離になる。


 「濡れます、悠くん」


 「少しくらいいい」


 「駄目です。もっとこっち寄ってください」


 みくるが悠の腕をぐっと引いた。傘が二人の中央に来て、代わりにみくるの体が悠に密着した。みくるの髪が雨の匂いと彼女自身の甘い香りを混ぜて漂った。


 (……この距離は少し、困る)


◆◆◆

 雨が少し強くなったので、近くの軒が深い商店街のアーケードで足を止めた。人通りが少なく、雨音だけが響いている。


 みくるはエコバッグを覗き込んで「卵が無事でよかった」と安堵していた。


 「今日、何作るつもりだったんだ」


 「シュークリームと、あとカルボナーラ」


 「デザートから作るのか」


 「シューの生地は先に作っておかないと時間かかるので。……ちゃんと理由があります」


 みくるはむっとしながらも教えてくれた。料理のことを話す時のみくるは、普段の癒し系な雰囲気が少し変わって、きりっとした顔になる。


ラッキースケベ アーケードの柱の陰に入ったとき、後ろから来た自転車を避けようとして、二人は柱と壁の間の狭いスペースに押し込まれた。みくるが壁に背をつけ、悠がその前に立つ形になった。顔が近い。雨の音の中で、みくるの目が大きくなった。


 「……悠くん」


 「自転車が」


 「知ってます。でも……近い」


 「もう行った」


 「……知ってます」


 みくるは動かなかった。悠も動けなかった。雨音が二人を包んでいる。みくるの頬がうっすら赤くなっている。


 「……悠くん、さっき言いかけてやめたこと、あります」


 「なに」


 「お料理を誰かのために作るって言ったじゃないですか。その、誰かって……ずっと悠くんのことを一番に思ってた、という話です」


 みくるの声は小さかったが、雨音の中でちゃんと届いた。


 悠はすぐには答えられなかった。でも、その代わりに言った。


 「シュークリーム、楽しみにしてる」


 みくるが目を細めて笑った。


 「……絶対おいしく作ります」


 雨が少し弱まった。二人はゆっくりアーケードを出た。




【第16話】

 西野凛が練習を休んだと聞いた時、悠は嫌な予感がした。


 凛は休まない。雨でも風邪気味でも、朝ランだけは欠かしたことがない。それが五日連続で姿を消したとなれば、理由は一つしかない。


 連絡すると「家にいる」とだけ返ってきた。


 悠は迷わず凛の家に向かった。


 凛はリビングで膝に湿布を貼って座っていた。足首にも包帯が巻いてある。


 「……来たのか」


 「来た。どうした」


 「少し、悪化した」


 右膝の古傷だった。大会後も無理をして走り続けた結果、炎症が広がっていた。医者からは「一ヶ月は走るな」と言われているという。


 凛は窓の外を見ていた。その横顔が、珍しく沈んでいる。


 「……走れない期間が一番しんどい」


 「そうか」


 「頭の中に走ってる自分がいるのに、体が動かせない。それがこんなに辛いとは思わなかった」


◆◆◆

 悠は「じゃあ話し相手くらいにはなれる」と言って隣に座った。凛は少し表情を緩めた。


 「お前、こういう時に来てくれるよな、昔から」


 「そうか?」


 「うん。中学の時、部活で負けた夜も来てくれた。覚えてないか」


 「覚えてる。お前、一言も話さなかった」


 「……だって泣いてたから」


 初めて聞く話だった。


 「泣いてたのか」


 「泣いてた。でもお前は何も言わないで隣にいてくれたから、泣けた。言葉かけられてたら泣けなかったと思う」


ラッキースケベ 凛が体の向きを変えた拍子に、膝に貼っていた湿布がずれた。凛が「あ」と声を出して手を伸ばすと体が傾き、悠の肩に頭を預ける格好になった。凛は慌てて起き上がろうとしたが膝が痛くてうまく動けず、しばらく悠にもたれた状態のままだった。


 「……お前の肩、昔より広くなったな」凛が静かに言った。


 「そうか」


 「……安心する」


 西野凛が「安心する」と言った。その言葉の重さを悠は受け取った。


 「一ヶ月、俺が毎朝来る」


 「何しに」


 「話し相手。走れない間くらい、話せる人間がそばにいたほうがいい」


 凛はしばらく黙った。それから、


 「……来なくていい」


 「来る」


 「……来てもいい」


 凛は窓の外を見た。今日は空が青かった。走れない凛には、少し残酷な青さだったかもしれない。でも悠の隣で、凛の肩が少しだけ下がった。




【第17話】

 東山ゆきのが料理を練習しているという情報は、みくるから入ってきた。


 「ゆきのちゃん、最近うちに来てレシピ聞いてくんですよ。内緒にしてって言われてますけど、悠くんには言っちゃいます」


 「なんで俺には」


 「悠くんのために練習してるんだから、本人が知っといたほうがいいと思って」


 みくるはにこにこしていたが、目が少しだけ寂しそうだった。


◆◆◆

 翌日、ゆきのが「今日ごはん作っていい?」と来た。手にレシピのメモを持って、目が真剣だった。


 「どうした急に」


 「好きな人のためにごはん作れたら……ちょっと特別じゃないかなって思って。練習した」


 作ったのは肉じゃがだった。みくる直伝のレシピで、でも少し味付けが濃い。じゃがいもが一個だけ固い。人参が若干焦げている。


 ゆきのは悠の顔を見ながらスプーンを持っていた。


 悠は一口食べた。


 「……美味い」


 「え、本当に? 固くない?」


 「固いじゃがいもが一個あるけど、それ以外は本当に美味い」


 「一個あるじゃん!!」


 「でも美味い」


 ゆきのは「もう」と言いながら、でも嬉しそうに自分の分を食べ始めた。


ラッキースケベ 食後に片付けをしていた時、ゆきのが洗い物をしながらバランスを崩してびしょびしょのまま悠に突進してきた。「きゃっ」という声と同時に悠の腕の中に飛び込む格好になり、ゆきのの濡れたエプロンが悠のシャツに張り付いた。ゆきのの柔らかい体の重みが悠の腕にかかった。


 「……足が滑った」ゆきのが悠の胸元から言った。


 「床が濡れてた」


 「ごめんなさい、ゆーくんのシャツ濡れた」


 「いい。怪我なかったか」


 「……ない。でも、このまましばらくいていい?」


 「またそれ言う」


 「だって……気持ちいいんだもん、ゆーくんの腕の中」


 悠は返せなかった。ゆきのは素直すぎる。それが時々、刃になる。


 「ゆきの」


 「なに」


 「肉じゃが、来週また作ってくれ。じゃがいもが全部やわらかくなったやつを食べたい」


 ゆきのが顔を上げた。目が少し潤んでいる。


 「……うん。練習する」


 台所に夕日が差し込んでいた。ゆきのの影が悠の影に重なった。




【第18話】

 大学の文化祭は、悠にとって毎年穏やかなイベントだったが、今年は違った。


 五人全員から「一緒に回って」とLINEが来た。それぞれ別々に。


 (どう考えても同時には無理だ。でも順番を決めたら順番の意味を問われる)


 悠が悩んでいると、なぜか五人が自分で鉢合わせて「じゃあ六人で回る」という結論になった。


 「結局みんないるじゃん」と凛が言い、「でも楽しいからいい」とひなたが言い、みくるが「屋台のご飯食べたい」と言い、しおりが「古本市が出ているらしい」と言い、ゆきのが「わたがしたべたい」と言った。


◆◆◆

 屋台エリアでみくるが唐揚げを選んでいたとき、後ろから来た人混みに押されて全員がまとめて押し寄せた。


ラッキースケベ 悠の左右と前後に五人が密着する形に一瞬なった。ひなたが悠の右腕に体重をかけ、みくるが正面からぶつかり、しおりが左から押し込まれ、ゆきのが後ろからしがみつき、凛だけが「なんだこれ」と言いながら離れようとしたが人混みで動けなかった。悠は五人に同時に囲まれる珍しい状況に言葉を失った。


 「ゆーくん、サンドイッチになってる」ゆきのが後ろから言った。


 「五人サンドは呼び方が違う」と凛が真面目な顔で言った。


 人混みが流れて距離が戻ると、五人とも少し顔が赤かった。悠も赤かった。


◆◆◆

 夕方、キャンパスのイチョウの木の下で六人が座った。みくるが買ってきたたこ焼きを分け合った。


 ひなたが「楽しかったな」と言い、しおりが「古本市で三冊買えた」と言い、みくるが「屋台のクレープが上手だった」と言い、凛が「模擬店の後輩を手伝ってた」と言い、ゆきのが「わたがし食べすぎた」と言った。


 悠は全員を見回した。


 (この五人はみんな違う。でも一緒にいる時の空気は、他のどこにもない)


 「また来年も来よう」悠は言った。


 「来年も六人でか?」ひなたが意地悪そうに聞いた。


 「……どうなってるかわからないけど」


 「まあ、どうなってても友達は友達だし」と凛が言った。その言葉は、少しだけ寂しかった。


 イチョウが一枚、悠の肩に落ちた。




【第19話】

 ひなたが「昔の約束を覚えてるか」と言ってきたのは、夜の散歩の途中だった。


 「約束?」


 「小学四年の時。ゆーが『大人になっても友達でいよう』って言ったやつ」


 (そんなこと言ったっけ……言ったかもしれない)


 「覚えてる……気がする」


 「気がするじゃ駄目! ちゃんと覚えといて!」


 ひなたが少し怒った。夜の商店街のアーケードで、ひなたの声が反響した。


 「私はずっと覚えてたんだよ。その約束したのが嬉しくて、日記に書いた」


 「日記に……」


 「恥ずかしいから笑わないで」


 「笑ってない」


 ひなたは少しはにかんで歩いた。夜の空気が少し冷えていた。


◆◆◆

 帰り道、石畳のところでひなたがヒールの細い靴を履いていて石の目地に足を取られた。


ラッキースケベ 悠が反射的に手を出すと、ひなたが体ごと預けてきた。ひなたの体が悠に正面から密着し、悠がひなたの腰に手が回る格好になった。ひなたの顔が悠の首のそばにある。ひなたの髪の甘い匂いがした。


 「……こけてない」ひなたが言った。


 「こけかけてた」


 「こけてない」


 ひなたはなかなか離れなかった。悠の胸のあたりに顔をうずめるようにして、小さな声で言った。


 「……ゆー、答えを急かすのは違うと思ってる。でも一個だけ言わせて」


 「言え」


 「どんな答えが出ても、友達の約束は壊したくない。でも……ゆーのそばにいたい気持ちは、友達以上なの。それだけは知っといて」


 悠は答えなかった。でも腕を、少しだけ、きつくした。


 ひなたが静かに「ありがとう」と言った。


 二人で夜道を歩いて帰った。並んで歩く影が、一つに重なりそうだった。




【第20話】

 しおりから「原稿を読んでほしい」と連絡がきたのは、深夜の一時だった。


 「今から?」


 「……朝まで待てなくて。ダメなら明日にします」


 「行く」


 悠は着替えてしおりの家に向かった。


 しおりの部屋はいつも本で埋まっている。机の上にノートパソコンと、びっしり書き込まれた原稿用紙の束があった。


 「これ……全部書いたのか」


 「三年かけて。ずっと誰にも見せてなかったけど、あなたに見せたくなって」


 悠は床に座って読み始めた。しおりは椅子に座って、膝を抱えて待っていた。


 二時間かかった。


 読み終えて顔を上げると、しおりが眠そうにしながらも目を開けて待っていた。


 「……どうでした」


 悠は少し考えてから言った。


 「面白かった。それだけじゃなくて……しおりの文章は読んでて体温が上がる感じがする」


 しおりが目を瞬かせた。


 「……体温が」


 「感情が文字になってる。技術じゃなくて、気持ちで書いてる感じがした」


 しおりが深く息を吐いた。


 「……読んでもらえてよかった。正直、怖かったです」


◆◆◆

 夜明けが近づいてきた頃、しおりが「眠い」と言いながらうとうとし始めた。悠は帰ろうとしたが、


ラッキースケベ しおりが立ち上がりかけたまま睡魔に負けて、そのまま悠の肩に倒れ込んできた。眼鏡が傾く。悠はとっさに受け止め、しおりが肩に寄りかかる形になった。しおりの髪が悠の顎に触れる。夜明けの薄い光の中で、しおりの横顔が近い。


 「……寝てるか」悠が小声で聞いた。


 「……起きてます」しおりがさらに小声で答えた。「でも動けない」


 「眼鏡ずれてる」


 「……いいです、このままで」


 しおりが静かに言った。


 「……悠くん。私の書いたもの、主人公はあなたがモデルです。でも……ヒロインは私がモデルです」


 悠は何も言えなかった。


 「ヒロインは最後、気持ちを伝えます。うまくいくかどうかはわからないけど、伝えます。それが……私の答えです」


 夜明けの光がしおりの部屋に差し込んできた。二人の影が窓に長く伸びた。


 しおりはそのまま、静かに眠った。悠はしばらく、その隣にいた。




【第21話】

 桜庭みくるが料理コンテストに出ると言ったのは、十一月の初めだった。


 「学内のやつですけど……出てみようと思って」


 「出ろ。絶対勝てる」


 「そんな簡単に言わないでください……緊張するんですよ」


 みくるは困ったように笑ったが、目が真剣だった。


 悠は「練習に付き合う」と言った。みくるは「試食してくれるんですか」と言い、「喜んで」と答えると「ずるい言い方」と言いながら笑った。


◆◆◆

 練習は三週間続いた。みくるは毎回メニューを変えて、悠に食べさせながら「どうですか」と聞いた。悠は毎回正直に答えた。「少し酸味が強い」「香りが先にくるといい」「これは完璧」。


 みくるはその度にメモを取り、次回に活かした。


 コンテスト当日、悠は客席で見ていた。みくるはキッチンに立って、いつもより背筋を伸ばしていた。緊張しているのが遠くからでもわかった。でも包丁を持った瞬間、表情が変わった。迷いが消えた。


 みくるは金賞を取った。


 表彰された後、控え室で悠を見つけたみくるが走ってきた。目が赤い。泣いていた。


 「……勝てました」


 「見てた」


 「恥ずかしいですね、泣くのは」


 「恥ずかしくない」


 みくるは袖で目を拭って、それからまた泣いた。


 「……悠くんが食べてくれる人でよかった。食べてくれる人がいたから、頑張れた」


 悠はその言葉を静かに受け取った。


 (みくるの料理は、いつも誰かのためにある。そして今日、それが実を結んだ。俺はその「誰か」の一人でいられて——本当によかったと思った)


 みくるはもう一度「ありがとうございます」と言って、今度は笑っていた。


 その笑顔が、悠の心に静かに刻まれた。




【第22話】

 凛が「また走れるようになった」と報告してきたのは、一ヶ月の療養が明けた日だった。


 「明日の朝、来るか」


 「行く」


 翌朝、凛のペースはいつもより遅かった。慎重に足を置くような走り方だった。でも二キロを走り切った凛の顔は、以前より穏やかだった。


 「どうだ」悠が聞くと、


 「……走れる。それだけで、今は十分だ」


 凛が空を見た。冬の朝の空気が冷たく澄んでいた。


◆◆◆

 夜、凛から「もう一回走るか」と連絡が来た。夜ランは初めてだった。


 河川敷に外灯がまばらに灯っていた。二人で並んで走った。凛はゆっくりで、悠にも追いつける速さだった。


 走りながら、凛が言った。


 「一ヶ月、毎日来てくれたな」


 「約束したから」


 「……嬉しかった。素直に言うと」


 凛が素直に「嬉しかった」と言った。悠はペースを崩しそうになった。


ラッキースケベ その瞬間、外灯の届かない暗い区間に入り、凛が足元の段差を見落とした。「あ」という声の後に凛がバランスを崩し、悠が手を掴んだ。が、二人の体重が重なって土手の斜面を一緒に転がり、草の上に着地した。凛が悠の上に重なる形になった。至近距離で凛の顔がある。冬の夜に凛の息が白く見えた。


 「……怪我は」凛が先に確認した。


 「ない。膝は?」


 「……大丈夫だ」


 凛はすぐには動かなかった。夜空を見ているような、悠を見ているような、不思議な目をしていた。


 「悠」


 「なに」


 「……俺、走り続けるのが怖かった。やめたら楽だと思ってた。でも走れない一ヶ月でわかった。俺には走ることが必要で、そしてそばにいてくれる人間が必要だ」


 「うん」


 「……それがお前だと、気づいた」


 凛は静かに立ち上がり、悠に手を差し伸べた。


 「行くか」


 「行こう」


 二人は夜の河川敷を、また並んで走った。今度は凛のペースが少しだけ上がった。




【第23話】

 東山ゆきのには「はじめて」が多い。


 はじめて電車に一人で乗った時、終点まで行ってしまった。はじめて料理した時、コンロをつけ忘れたまま三十分待った。はじめて告白した時——それが悠で、五人同時だった。


 今日も「はじめて」がある。ゆきのが「プレゼントを買いたい」と言って悠をショッピングモールに連れてきた。


 「誰への?」


 「……ゆーくんへの」


 「俺と一緒に来てどうするんだ」


 「好みがわからないと選べないから、一緒に来てもらって反応を見ようと思って」


 ゆきのは真面目な顔で言った。悠は「それはプレゼントの意味が……」と言いかけてやめた。ゆきのらしい。


◆◆◆

 雑貨屋でゆきのは一時間かけた。「これは?」「これは?」と悠に見せ続けた。悠は正直に答えた。


 結局ゆきのが選んだのは、シンプルな革のしおりだった。本のしおり。


 「ゆーくん、最近本読んでるから。しおりちゃんから借りたりしてるでしょ」


 「よく知ってる」


 「観察してるから」


 ゆきのは真剣な顔で言った。ぼんやりしているようで、よく見ている。


 ラッピングしてもらったしおりを、ゆきのは「はい」と差し出した。


 「……ありがとう」


 「使ってね」


 「使う」


ラッキースケベ 帰り道のエスカレーターで、ゆきのが一段下に立っていた。振り返った瞬間、足が絡まってバランスを崩した。悠がとっさに腕を引いたが勢いで体が寄り、ゆきのが悠の胸元に顔を埋める格好になった。エスカレーターが動いているので二人はそのまま一段分降りた。ゆきのの頭が悠の顎のすぐ下にある。ふわふわとした黒髪の匂いが近い。


 「……また転んだ」ゆきのが言った。


 「また転んだ」


 「……ごめんなさい」


 「謝らなくていい」


 エスカレーターを降りてから、ゆきのが上目遣いで悠を見た。


 「……ゆーくん」


 「なに」


 「プレゼント、使ってくれたら……もっとたくさん選んであげたい。ゆーくんのこと、もっとよく知りたい。それが私の……お願い」


 ゆきのの目が真剣だった。天然でぼんやりしていて、でも今この瞬間だけは、真っすぐ悠を見ていた。


 (東山ゆきの。お前のことを、俺はまだ全部知らない。でも——全部知りたいと思っている)


 「使う。また一緒に来よう」


 ゆきのが笑った。今日一番の笑顔だった。




【第24話】

 十二月の初め、悠は一人で公園のベンチに座っていた。


 あの夕暮れの公園、五人から告白された場所だ。今は夜で、街灯がオレンジ色に落ちている。手には、ゆきのにもらった革のしおり。胸の中には、三ヶ月分の記憶がある。


 (ひなたは泣く顔を見せてくれた。しおりは三年分の原稿を見せてくれた。みくるは夢を動かした。凛は弱さを見せてくれた。ゆきのは真剣な目をくれた)


 五人はそれぞれ、悠に何かを開いた。


 悠もその度に動かされていた。


◆◆◆

 「ここにいると思った」


 振り返ると、ひなたが立っていた。その後ろに、しおりが、みくるが、凛が、ゆきのがいた。


 五人が揃っている。


 「なんで来た」悠は言った。


 「ゆーが連絡しなくなると、ここにいるって昔から決まってるから」ひなたが言った。


 「……そうだったか」


 「そうです」としおりが静かに言った。「小学校から変わってません」


 五人が近づいて、悠を囲むように腰を下ろした。ベンチと地面に、それぞれが落ち着く場所を見つけた。みくるがコンビニの肉まんを全員分持ってきていた。


 「答え、出た?」ひなたが聞いた。


 「……出てない」


 誰も責めなかった。


 「じゃあ今夜は答えなくていい」と凛が言った。


 「うん、今夜はただいるだけでいい」とゆきのが言った。


 しおりが静かに言った。「でも、答えが出た時は、ちゃんと教えてください。どんな答えでも、受け取ります」


 みくるが「肉まん冷めますよ」と言って一つずつ配った。


◆◆◆

 六人で肉まんを食べた。湯気が夜空に上っていった。


 ひなたが「寒い」と言って悠の腕に引っ付き、しおりが「それは反則です」と言い、みくるが「私も寒いです」と反対側に寄り、凛が「密集するな」と言いながら少し近づき、ゆきのがすでに悠の肩に頭を預けて目を閉じていた。


 (俺は今、五人に囲まれている。三ヶ月前と同じ構図で、でも今は全然違う感触がある。この五人の一人一人を、俺は知っている。ひなたの弱さも、しおりの言葉も、みくるの夢も、凛の傷も、ゆきのの真剣な目も、全部知っている)


 悠は夜空を見上げた。


 答えはまだない。でも、答えに向かって歩いている気がした。


 「……ありがとう」悠は言った。


 「何が?」ひなたが聞いた。


 「来てくれて」


 ひなたが「当たり前じゃん」と言い、しおりが「当然です」と言い、みくるが「絶対来ます」と言い、凛が「そういうもんだ」と言い、ゆきのが半分眠りながら「ゆーくんのそばがいい」と言った。


 街灯が五人の影を公園に映した。


 悠の心の中で、何かが静かに、決まりかけていた。


 ——有栖川悠の、長い冬が始まる。そして答えは、もうすぐそこにある。


  


    第1期 完


    ── 第2期へ続く ──





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