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前編


「今すぐ出て行け。手切れ金は渡さないしこの家の物は一切持ち出す事は許可しない、何処へなりと行って野垂れ死にでもするんだな」



あの言葉が私の耳朶から離れない。

喉元に押し付けられた冷たい刃の感触と息が止まるまでの苦しみも。



そして――目を覚ますと、そこは5年前の私の寝室だった。


最初は何が起こったのかが理解出来ずに、切られたはずの首を抑えて呆然としてしまったが、はたと気付いて結婚して使わなくなったはずの実家の私の部屋をうろうろしたり付けていた日記帳を確認した。

そこでやっと何がどうしてこうなったのかは分からないが、どうやら5年前の様だと理解すると、死んだ瞬間の恐怖が蘇ってきて体が震えた。


「どうして…」


独り呟きながら眺めた鏡に写る16歳の自分。

結婚後、愛人の存在に神経をすり減らして荒れたはずの肌は張りがあり、鏡に映る顔にはまだ幼さが残っている。


「…今日なのね」


そう、日記によると今日は初めての顔合わせの日だ。

侯爵家の嫡子レオンハルト・フォン・シュタインベルクとの婚約が決まるはずの日。


「2度とあんな男とは結婚しない」


窓辺で呟く自分の声に、少し驚いた。

前回の人生で私はあの言葉を聞いた日、本当に何も持たずに屋敷を出た。

銀行にわずかながらも貯金はあったし、宮廷魔術師にも推薦されていた魔法の才能があればどこででも生きていけると思って。

そして路地裏で、夫の愛人のクリスティーナの差し向けた男たちに、命を奪われた。

男たちはわざと殺す前の私にレオンハルトとクリスティーナの愛を邪魔するからこうなるんだと告げてきた。

すでに家も追い出された元妻の何が邪魔だったというのか。


今回は、絶対に婚約も回避する。

レオンハルトにもクリスティーナにも近付かなければ信じた夫にあんな言葉を投げかけられて追い出される事も嫉妬したクリスティーナに男たちを差し向けられて殺される事も無いはずだ。

そして推薦を受けて宮廷魔術師として平和に暮らすのだ。


レオンハルトが好きだった。

あの少し影のありそうな冷たさを感じさせるブルーグレーの瞳も、言葉が少ないながらも舞踏会でさりげなく他の方から庇ってくれたり、私が好きだと話したものを覚えていて次に会う時に贈ってくれたりしたところも少し荒れた堅い手が触れる時に優しかった事も…

考えて慌てて首を振る。

揺れている場合ではない。命がかかっているのだ。

もう2度とあんな思いとあんな死はご免なのだ。



「エリアーヌ様、ご準備の時間です」


侍女の声に背筋を伸ばす。

顔合わせを回避しようとありとあらゆる言い訳を考えたが、父の「これは両家にとって重要な席だ。会挨拶だけでも出なさい」という一言ですべてが水の泡となった。


サロンに入ると、そこにはすでにレオンハルトがいた。

当たり前だが彼も最後に見た姿よりも若い。すらっと背の高い彼の金髪が窓から差し込む光に輝いている。

最後に見た汚いものでも見る様なあの冷酷な目は――


考えながら見たそのブルーグレーの瞳に、息が止まる気がした。

彼の視線が私に釘付けになったとでもいう様に彼も動きを止める。

それは単なる初対面の相手を見極める目ではない。

驚愕、そして何かの痛みを堪える様な後悔の様な色が、彼のブルーグレーの瞳を曇らせている。


顔合わせの形式的な会話が終わり、両親たちが別室へ移動した後、彼がゆっくりと私に近づいた。

努めて冷静を装っていたが、彼が近くなる事に恐怖を覚え少し体が硬くなる自覚がある。

それに気付いたのか、彼が少し傷ついた様に瞳を揺らすのが見えた。


「…エリアーヌ。君にも、記憶が、あるんだな?」


紡がれた声は僅かに震えていた。

それは問いかけの様でいてその目には確信が籠っていた。


「俺も…戻ったんだ。あの日、君が出て行った後全てが誤解だったと知った」


その言葉に私は息を呑んだ。

彼も、死に戻りを経験していた?


「いや…誤解、ではないな。全て俺が素直になれなかった事が原因だ。すまなかった」


彼の手が、無意識に私の腕を掴もうと伸びるが、私が身を縮めるのに気付いて手を止めるのが見えた。


「許して欲しいと、言える立場じゃないのは分かっている。だが、お願いだ。やり直すチャンスが欲しい。君だけを愛している。今度こそ幸せにしたい。…クリスティーナからも、君を守る」


その名を聞いて、私は体が冷たくなる。

信じられない。あなたの愛人であるあの女が、私を殺させたのだ。

それから私を守る?元凶であるあなたがそれを言うのか…!


「…婚約は、お断りします」


混乱して次々と恨み言の様な言葉が浮かんでしまうのを抑え、力を振り絞って、そう言い放った。

彼の表情を見る勇気は無かった。



その日の婚約は、なんとか回避した。

自室に戻ると一気に疲れを感じて、はしたないと分かっていながらもそのままうつ伏せにベッドに倒れ込む。


「私だけじゃ…なかった」


倒れ込んだ後で布団に化粧が付くないた…などと気付いて浄化魔法の応用で自分の化粧を落としてから布団にも浄化をかけておく。

化粧落としは死に戻る前に結婚した後で編み出した魔法だったが使えるらしい。


それにしても…レオンハルトも死に戻っているなんて…

あの日、死んだのは私だけだったはずだ。

屋敷は出てしまっていたからレオンハルトがどうしていたかは知り得ないが、何かしらの理由で死んでしまっていたという事か。

だとしても2人共記憶を持ったまま今に戻っているだなんて…


即撤退して悠々自適のはずだったのに。

というか、記憶があるならば余計に婚約を結ばない方が向こうにとっても良いはずなのに。

何か、今はクリスティーナと結婚出来ない理由でもあるのか…そう考えると前回も同じだったのかもしれないと思いいたる。

何かしらの理由で、隠れ蓑が必要だった…いや、特に爵位も年も障害になりそうなものは思いつかない。

両家は繋がりも強く、2人は幼少期から一緒に居たしいつでも家に出入りしていたとクリスティーナが自慢していたし。

とすると、政略で生まれる旨味もクリスティーナへの愛も両方取りたかっただけか。


政略を逃さない為に愛しているだなんて…そこまで考えて布団にぐりぐりと頭を擦り付ける。

クリスティーナから守るだなどと、男たちを差し向ける事だけ防がれたって、私に待っているのはあの2人の為だけに神経をすり減らす結婚生活だけだ。

その上またあの言葉を浴びせられろとでも言うのか…

そんなのはお断りだ。


「絶対に逃げ切ってあんな人生からは撤退するんだから」




しかしレオンハルトが諦める事は無かった。


作法に則った、けれど心の籠った手紙が届く様になり、時折花束も届けられた。

知らなかった花言葉を学んだというメッセージカードと共に。


前回、婚約者であった頃にはほぼ季節の挨拶のみだったし、夫婦になった後は顔を合わせても会話らしい会話も最低限だったのに…


あの初対面の会話以降、レオンハルトは死に戻る前の話を手紙でも街で偶然会った時でも口にする事は無かった。

本当に、前などなかったかの様に、初対面のゼロからのスタートの様に。

丁寧に手紙に想いを綴り、強引に距離を縮める事もこちらに許しや何かを強制する事も無い。


前回で懲りたはずなのに。

しつこい恋心が復活して来ようとするのを自制する日々が続いた。

ところが半年を過ぎた頃に手紙と花束がぱたりと途絶えた。


…あぁ、諦めたのか。

そう思って、やっと前回とは別の道へと進めるはずなのに、心に広がったのは少しの失望感と大きな喪失感だった。

これでいいはずなのに。これで、あんな酷い結婚生活も、あの野垂れ死ねという言葉も回避出来たはずなのに。

それでも潤みそうになる目を瞬きする事でなんとか誤魔化して自室のイスから立ち上がる。

今回は、起こりもしていない婚約や結婚にいつまでもすがっていちゃいけない。



気持ちを振り切る為に出た街で、偶然今一番会いたくない人に出会ってしまったのだ。


「貴女が、レオンについた害虫だったのね。婚約も結んでいなかったから見落としていたわ」


どうして私がここに居る事を知ったのか、喫茶店のオープンテラス部分でゆっくりとお茶をしている所に、横に立って陽を遮る人物が現れ誰かと見上げると開口一番に告げられた言葉がそれだった。

クリスティーナ。前回の私を殺させた張本人。

この気分が滅入っている時に一体何なのか。

害虫も何も…


「レオンはいつだって私に優しかったし屋敷にだっていつでも出入りさせてくれたのに。貴女と顔合わせをしてから急に会ってくれなくなったのよ。屋敷への出入りも制限されるし!婚約は成立してないくせに貴女レオンに何を吹き込んだのよ」


クリスティーナの言い分に首を傾げつつも、あぁやっぱりこの頃からクリスティーナとの仲はあったのかと腑に落ちる。


「どなたか存じませんが、人違いではございませんか?」


「なんなのよ!お高くとまってるんじゃないわよ!」


護衛に目配せしつつ答えると、自分の求める答えでない事に苛立った様子のクリスティーナがバシッと机を叩いた。

それを見て離れていた護衛がすぐ私の脇へと来てくれる。


「どうせこれから2度とあんたのところに手紙も花も届かないんだから!ざまぁみろ!」


護衛の姿にビクリと体を揺らしたクリスティーナは捨てセリフを吐き捨てるとさっさと走り去って行った。

淑女らしからぬ暴言からの走り方とスピードにあっけに取られているうちに姿は見えなくなった。


台風の様な性格とマナーのなっていなさは前回と全く変わらないらしい。

あぁいう方がタイプなら、それは私などつまらない女に見えるのだろう。

本当に、人の心を振り回さないで勝手に見えないところで2人で居てくれればいいものを。

考えながら紅茶をもう1口と口に運ぶが、ぬるくなった様な気がして美味しく感じられないそれに溜息が出る。

…それにしても、どうして手紙と花束の事を知っているのか。



その謎は翌日すぐに解けた。

レオンハルトの突然の来訪によって。


「事前に訪問のお伺いをたてていたのですが、ご返答いただけなかったので」


レオンハルトの言葉に、家令のスチュワートが確認するがその様な手紙が見当たらない。

レオンハルトも家に使いを走らせて手紙を届けた者を連れて来て確認を取った。

そうして…なんと我が家のフットマンが買収されてレオンハルトから届く手紙と花束をクリスティーナに渡していた事が判明したのだ。

あぁ…街へ出た日も連れていたフットマンだったと頭の中で繋がる。


それにしても来訪の伺いまで取って行ってはこうしてすぐにばれてしまう事は考えなかったのだろうか。

あまりにも考えなしなクリスティーナとフットマンに呆れしかない。

フットマンは当家の傍系の者だそうだが、そんな人間を雇っていただなんてと父は項垂れていたが、

すぐさま切り替える様にフットマンとクリスティーナの家へ書面をしたためていた。

レオンハルト様も我が家からも抗議と共に告発する通告をしておこうと、苦虫を嚙み潰した様な表情で言っていた。




「前回も、手紙やプレゼントを取られていたのかしら…」


部屋に戻ってつい口を出た自分の独り言に、自嘲してしまう。

ここまで来て、また希望を見出そうとしてしまう。



前回は、直接会ってもほとんど会話もして貰えて無いじゃない。


しっかりしてエリアーヌ。


両手で頬をペシリと叩き気合を入れる。

今回のレオンハルトがどうして上手くいかなかった結婚をまた繰り返そうとしているのかは分からないが、流されたらまた野垂れ死ねと言われて家を追い出されて殺されるのだ。

あの言葉を言われた時を忘れてはいけない。


それはもう、言われたショックや嫌悪感を思い出してなんとか流されない為の呪文の様になっていると、自分でも自覚はしていた。

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