6 初めての放課後
そして来てしまった放課後。渋々職員室へ足を向け、たどり着いて山城の席まで歩いて行くと、
「お、来たな。ほれ、手開け」
「?」
言われた通りに開くと手のひらに、ぽん、と「多目的資料室」と付属のタグに書かれた鍵を渡される。なるほど、これが使う教室の鍵か。しかし……。
「色々他の人にも使われてそうな名前の部屋ですけど、使っていいんですか?」
「問題ない。名前だけで実際はたいして使われてない部屋だからな」
「学校にそんな部屋があっていいのかよ……」
「いいんだよ。あ、それから、これも持っていくように」
山城は、自身の机の片隅に積んである日本語の教材等の本を示す。
「……これを読んで教えろと?」
「そうだ。テキストや教え方についての本もあるから、使うように。あと鍵はいつもは奥のボードにかかってるから、帰る時そこに戻してくれ。隣のノートに返却時間を書くのも忘れずにな」
窓際の鍵のかかっているボードを指しながらそう説明する山城。思ったより本格的に教えることになりそうで、いささか気が滅入る。こんなことならバイトをする時に大人しく届けを出しておくべきだったな。
「はいはい、分かりました。……それで、あの二人は後から来るんですよね?」
「そのように言ってある。じゃ、頼んだぞ~」
「はいはい……」
ひらひらと手を振る山城に背を向け、多目的資料室へ足を運ぶ。なんだか、また足取りが重くて嫌になる。
はてさて、いったいどうなることやら……。
――
……二階の多目的資料室っと、ここか。確かに使われていないというだけあって、どこか色褪せていて古びた匂いがするな。一応教育機関だよなこの学校……? そう自分の通う学び舎の耐久性を心配しながら、教室の中におそるおそる足を踏み入れる。
「失礼しまーす……ってやっぱり中々年季入ってるな」
傷んだまま放置されている壁、使われてなさそうな用具、埃っぽい空気で満たされたこの教室は、変化し続ける世界の中でまるでここだけ時が止まったかのように思える。
「まずは換気したほうがよさそうだな……」
突き当りにある窓を全開に開け、山城からの依頼について考える。いったい、日本語を教えるっていっても何をしたらいいのだろうか。そもそも俺はちょっと国語ができるだけだし、普通に学外で教えてもらえる機関とかの方が効率的だと思うんだがな……。
そんな思考を巡らせていたら、ガラッと扉が開かれる音がした。
「おはようございまーす!」
そう快活に挨拶をして、柔らかそうな髪を揺らしながら教室に入ってきたのは佐倉だった。十五時を過ぎた今の時刻の挨拶にしては、いささかずれている気もするがこれも文化の違いなのだろうか。
「ああ、お、おはよう……?」
「あれ? 『日本の挨拶はとりあえずおはようございますで大丈夫よ』ってママから聞いたんだけど、違った?」
「いやそれは芸能界の常識だ」
俺の疑念を表情から察し、不思議そうな顔で尋ねてくる彼女に思わず反射で答えてしまう。母ちゃんは一体どこでその知識を入手したんだ。
「? げーのーかい?」
「悪ぃ。忘れてくれ。今の時間だと『こんにちは』だな」
「あ! それ聞いたことある! そうなんだっ。ねえ、何時から何時までが『こんにちは』なの?」
「あーっと、正確な時間はだな……」
きらきらと好奇心に満ちた目で眼前に迫ってくる佐倉にどう答えたものか逡巡していたら、カーディガンの裾を後ろからちょんちょんと引っ張られた。あれ、誰か入ってきたのか……? と、おそるおそる背後を確認すると、
「ひ、柊⁉ いつの間に入ってきたんだ?」
眉毛をハの字に下げ、片手で俺の制服の裾、片手で小さなホワイトボードとペンを持つ柊の姿があった。
「…………さっき」
やはり会話が苦手なようで恥ずかしそうにぼそっと端的にそう答えるのみだ。そして、見てほしいとでも言わんばかりに持っているホワイトボードを俺と佐倉の眼前にぬっと差し出す。
『「こんにちは」は、だいたい午前十時ごろから日没まで使うよ。それより早い時間は「おはようございます」で、遅い時間は「こんばんは」が一般的かな』
「お、おお……説明ありがとう」
「え、待って待って! 漢字がいっぱいで分かんないんだけどっ」
佐倉は柊の書いた説明を読めなかったのか、当惑したような表情を俺に向けてくる。
「えーっとな、『こんにちは』は午前十時ごろから日没までの時間に使われて、それより早い時間は『おはようございます』が使われるって話だ」
「へー! そうなんだ! 説明ありがとうっ。セレナと……えーっと……ごめん! 君の名前出てこないやっ。同じクラスってことは分かるんだけど……」
あっけらかんとそう俺に向かって言い放つ佐倉に思わずどてっ、とこけそうになるのをすんでのところで堪える。でもまあ、俺の存在感はそんなもんか……。
「あー、それもそうだよな。自己紹介しとくか。俺は、初霜双葉だ。出席番号は28番。よろしくな」
「双葉って言うんだ! よろしくっ。あたしはルドヴィア・佐倉・リリアーネ。出席番号は35番。リリーって呼んでねっ」
『アメリア・柊・セレーナ。出席番号は2番。よろしく……』
柊はホワイトボードにササっと書いて見せてくる。そしてその文字には、佐倉のためを思ってか今度はふりがなが振ってある。
「よろしく。佐倉、柊」
「リリーって呼んでっていたじゃん!」
「日本ではいきなり下の名前や愛称で呼ぶのはハードルが高いんだよ……」
初対面から親しみを込めてニックネームで呼ぶのは珍しくないから、俺基準だけどな。
『…………シャイな人、親近感湧く……』
「確かに柊もこっち側だとは思うが……」
「ちょっとー、なんか二人だけで通じ合ってない? ま、それはともかく。あたしたち山城先生から『この教室に来れば、超優秀な生徒が分かりやすく日本語を教えてくれる』って聞いたんだけど……合ってる?」
『山城先生、自信満々に言ってたね』
「全然合ってないんだが……」
山城のやつ、無駄にプレッシャーかけやがって……。絶対後で文句言ってやる。それはそれとして、俺は佐倉の今の言動に、一つ気になるものを感じていた。
「ていうか佐倉、お前……柊の文字読めるのか?
「ふりがな振ってくれればなら、なんとなく?」
「なんで疑問形なんだよ」
「だって、それでも分かってない時の方が多いし。漢字はほとんどお手上げだもんっ」
「それ、読めるって言っていいのか?」
「うーん、言わないかも? だから、優秀な双葉がビシッと教えてくれると嬉しいな~」
期待の入り混じった声音でそう言う佐倉と、きらきらとした目を俺に向けてくる柊。ま、眩しい。でも残念ながら現実はそうじゃない。
「あいにく、俺は日本語を教えるのは初めてだ。だからあんまり期待するなよ」
「あらら、そうなんだ……。ま、多分どうにかなるよ! ね? せーんせいっ」
『大丈夫大丈夫……?』
教える側のはずなのに、なぜか励まされている気がする。
……それでも、ここまで二人と話してみて、なんとなく見えてきた。こいつらは、互いに正反対の存在なのかもしれない。
「と、ともかく。ひとまず、二人は日本語の何が分からなくて困っているんだ? まあ、薄々察してはいるが……」
「読み書きが苦手です!」
『お察しの通り……話せないこと、です』
ビシッと手を挙げて堂々と言い放つ佐倉と、対照的にばつが悪そうに目をそらしながら、ホワイトボードを提示してくる柊。
「……うん。やっぱりそうか。二人とも思った通りの課題だな」
「街中でも読めないと意外と不便なんだよねー。この前なんてね、帰るのと逆方向の電車乗っちゃってー、最後の駅まで気づかなかったの! だから、1時間で帰れるところを3、4時間ぐらいかかっちゃった。へへ」
「いや、それ『へへ』って流していいエピソードかよ」
あくまでも軽い調子で、自分の失敗談を話し始める佐倉。彼女は笑って済ませているが、そんなことが日常的に起こればいつか大きなミスにつながってもおかしくないと思う。
「あ。それに、スマホで調べれば分かりそうな気もするが……ちゃんとイタリア語で教えてくれるだろうし」
「それがねー、日本の駅名とかあんまりまだピンときてなくて、イタリア語でも読み書き苦手で。へへ」
そう言って再びはにかむ佐倉。その姿は可憐な容姿と相まってとても魅力的な姿だ。若干危なげなミスでも、しょうがないか、と割り切ってしまえるぐらいに。
「……まあ、そうか。これから徐々に覚えればいいか」
「うん! 頑張って覚える!」
キラキラした目でそう答える佐倉は、元気でどことなく眩しい。
「だが、母語での読み書きは知らんけどな」
「えー、まーそれはそれ、ってことで、今はいったん……水に流すって言うんだっけ?」
「その使い方は微妙に意味が違うな……」
『「水に流す」は嫌なことを忘れるって意味だから、確かに違うね……』
俺と佐倉のやりとりをくすくすと笑いながら、柊が意味を訂正する。
「うぅ、日本語難しいね……。で、でもゆっくり覚えればいいもんね! そうそう、セレナも日本で困ったこととかなかったー?」
『私は……この前迷子になっちゃって困ったことかな。しかも繁華街の中で迷っちゃったから「栗カッテオネエサン」って露店のお兄さんに言われて圧に押されて買っちゃって、他にも投資とか占いとか道行く人に話しかけられて……』
「お、おう……確かに柊は引っかかりそうだな……。で、でも流石に怪しい投資は断ったよな?」
『サインしそうになったところで、通りがかった綺麗なお姉さんが「この子、私の妹なんで」って言って連れてってくれたから大丈夫だったよっ』
「おいおいサインしそうになるなよ……」
『お、押しに弱くて……面目ない』
気が弱いのは分かる。俺もどちらかと言えばそういうタイプだ。だけど、それにしても危機感が欠けているように思う。まぁ、知らない土地でそんなことに巻き込まれたら流されてしまいそうになるのは分かる。分かるけど……。とにかく心配になる。
二人のようなレベルのエピソードはともかく、確かに最近駅や町中で地図を片手に迷っている外国人をよく見かける気がする。知らない国の、見慣れない人々の行きかう街で、知らない言語ばかりの環境。困ることも多々あるだろう。
「ま、二人とも……かなり困ってるようだな」
「そーなの。それに、日本では読み書きできないとテストで点が取れなくて、落第しちゃうんでしょ?」
「『日本では』って、イタリアは違うのかよ?」
『イタリアでは口頭試験をすることが多いんだ』
「そ、そうなのか……。そりゃまた大きな違いだな」
「そうなの! しゃべる方が絶対簡単なのに~!」
「そんなことは無いと思うが……」
俺の言葉にこくこくと頷く柊。こいつはやはり同士かもしれん。
「ともかく! あたしは日本のむずかし~いテストを乗り切るのが目標! さもないと……」
「さもないと?」
「?」
「イタリアに帰されちゃう……」
濡れた鼠のようにしょげた様子でそうつぶやく佐倉。
「そ、それはまた急な話だな……」
「そうなの! 『ちゃんとこっちの勉強に追いつけないなら、慣れた環境に戻りなさい』って……。でもせっかく新しくて面白そうな環境に来たのに、そんなの嫌っ」
「お、おう。まあそうかもしれないな……。でも、慣れた土地に帰れるのは悪いことじゃねえだろ。イタリアが恋しくないのか?」
親の都合で知らない土地、ましてや海外に来たら俺だったら毎日ホームシックを起こしそうなものなんだが……。味噌汁の飲めない生活なんて考えられないし。
「それは懐かしいし、友達に会いたいなあとは思うけど……、あたしたち学生が国を超えた経験をする機会なんてなかなか無くない? どうせなら日本のことをいっぱい知って、楽しんでみたいんだっ」
なるほど。そういう考え方はしたことなかったが、確かに好奇心を満たすうえではチャンスかもしれないな。このポジティブな精神からは、何か見習うものがあるかもしれん。
「お前、前向きですげぇな……」
「そうかな。えへへっ。というわけで、読み書き教えてねっ」
照れくさそうにはにかむ姿に、心臓が跳ね上がりそうになってしまう。いかん、気を引き締めなければ。
「……善処する。で、柊は話すこと、会話全般か。聞き取りは問題なさそうだが……」
『余程の早口でなければ聞き取れる。けど、発話がさっぱりできなくて……』
「そうか。読み書きはどのくらいできるんだ?」
『一通りはできると思う。日本の小説、面白いから読んでいて楽しいし』
「おお、もう小説読めるのか。どんな本読むのか?」
確か外国語で小説を読むのは結構な難易度だと聞いた気がする。
『最近は太宰治の「斜陽」を読んだよ。あと三島由紀夫の本とかかな』
「文豪じゃねぇか! すごいな⁉ 教科書を除けば、日本人でも読まないやつ多いだろうに……」
「ほえー。すごいねセレナっ」
やっぱり同士とか言ってる場合じゃないかもしれん。少なくとも俺は外国語で文豪の文章なんて読めはしない。読めたら『かっけえぇぇぇぇ俺!』と心の中で厨二病決めかまして若
葉に自慢する自信がある。
『読書が元から好きなだけで、全然すごくないよ』
新たに文字を書いたホワイトボードで顔を隠しつつ答える柊。だが、そこから見え隠れする耳は真っ赤だ。どうやらこいつは褒められると照れ隠しをする習性があるらしい。なるほど。クラスのやつがマスコット扱いするだけのことはあるな……。
「でもそんだけ読めるならテストは問題ないだろうし、佐倉みたいに『話せないと帰国!』みたいに急な必要性はないんだろ?」
俺が一言放った瞬間、ホワイトボードを顔から離した柊の顔がさぁーっと青ざめていく。
『私もある程度話せるようになってコミュニケーションが取れなかったら、次の夏休みにはイタリアの親族の家に預けるって言われてるんだ……』
「なんだって⁉ せっかく日本に帰国したのになんでいきなりそんなことになるんだよ」
『おじいちゃんが厳しい人で、ちゃんとある程度話せるようになって日本に馴染めないなら、親戚の家に送るから慣れ親しんだイタリアで暮らしなさいって言うの……』
これまた家族の事情か……。高校生という都合上、自分の意思で住む場所を決めることは成年よりはまだ難しい俺らだ。だけど、馴染めなかったらとんぼ帰りだなんてあまりにも勝手すぎるのではないだろうか。
「人それぞれ事情はあるからしょうがないか……。ただ、それなら少なくとも今よりは話せるようになる必要があるな」
『そうだよね……。頑張らなきゃ』
「それと、佐倉はテストっていう明確な目標があるが、柊はどうなんだ? おじいさんとテストでもするのか?」
『うん。家のパーティが来月のテスト終わりぐらいの時期にあるから、その時にきちんとお客さんの対応を日本語でできたら、こっちに居てもいいって言われたんだ』
「家でパーティって……、もしかしてお前、お金持ちなのか?」
でも、海外って資産規模にかかわらずしょっちゅうパーティしてそうなイメージがあるな……。あくまでも想像だが。
『そ、そんなことはないよ? お手伝いさんはいるけど』
「あ、この前セレナと一緒に帰ったけど、すーっごい大きな家だったよ! 噴水がシャーって流れてて、きらきらして……素敵なおうちだったなあ」
「いやすげえお金持ちじゃねえか」
どうやら相当なお嬢様らしい。噴水が自分の家にある人間なんて、そうそういやしないだろう。なら、なおさら家庭教師とかつけて勉強した方がいいように思えるんだが……。そんな俺の表情を読んだのか柊は、
『「家庭教師をつけてやるのは簡単だが、学校で自分の力で日本語を身につけなさい」って話で……』
と補足を入れる。なるほどな。可愛い子には旅をさせよってことか。手ごわそうなじいさんだな、と勝手に見たこともない柊のじいさんに思いを馳せる。
「でも、あたしはさっぱり読み書きができないからセレナのこと憧れちゃうなあ。本当に難しいよね~。日本語って」
『流暢に話せるリリーの方がすごいよ……。難しいのは本当にそう。修飾詞の順番結構変わるし、そもそも文字が三種類あって混乱する……』
確かに、文字がアルファベットに統一されている言語から見たら、ひらがなカタカナ漢字の三つを使い分ける日本語は特殊に見えるかもしれないな。
ただ、いくら日本語が難しい言語だとしてもこの二人ぐらい極端に発達の違いがあることは中々無いように思えるんだが。
「お前らを足して二で割るぐらいでちょうどいいのかもしれないな……」
二人とも、どうしてこうも能力の発達が極端なんだろうか……。




