とある途絶えた物語
夜が明けても、誰も声を出さない家だった。
扉の隙間から射し込む光は、土の床を斜めに照らしていた。藁の上には、寝具のようなものが散らばっている。擦り切れた布、焦げ跡のある麻袋、臭く湿った獣の皮。どれもくたびれていて、十分に暖をとれるような代物ではない。
床の隅には、溶けかけの雪が染みをつくっていた。屋根の隙間から落ちたものだろう。壁には煤が這い、古びた梁には埃が積もっていた。
屋内の空気は冷たく、息をすると胸の奥がじわりと痛んだ。静寂は厚く、時折聞こえるのは風が梁を鳴らすかすかな音だけだった。
ヴァルクは、目を覚ましていたが、しばらくは動かなかった。
音を立ててはいけない。義父が起きるまでは。
布の中で膝を抱えた妹リリアの息遣いが近くにある。布の下の体温が、微かに熱を帯びていた。夜中に何度か咳き込んでいた。額に手を当てると、熱が籠もっているのが分かった。
彼女は、昨日義父に殴られた。そのときの胸の痣はまだ薄紫に残っていた。小さな体には、殴打の衝撃が強すぎたのだ。息を吐くたび、胸が上下し、そのたびに布がかすかに揺れた。
ヴァルクは、慎重に布から這い出た。
床は冷え切っていて、靴の底からしみるようだった。靴には穴があり、内側には乾いた藁が詰められていたが、凍った地面の冷たさを防ぎきるには不十分だった。
納屋に向かう。
裏手の雪は固く締まっており、歩くたびに靴底が軋んだ。
扉の金具に触れると、指先が痛んだ。冷たさが皮膚を裂くようだった。納屋の扉を開け、薪を三本抱える。凍りかけの木片は手に馴染まず、指の感覚がなくなりかけた。
吊るされた獣の皮に触れると、乾きかけた繊維がばさりと音を立てた。冬のあいだ凍っていた毛皮は、今は屋内に取り込まれ、かろうじて柔らかさを取り戻していた。湿ってはいたが、濡れて重いままではなかった。
家へ戻ると、まだ誰も起きていない。ヴァルクは火打ち石を取り、暖炉に薪を並べた。焦げた煤の匂いが鼻をつく。火花が散り、何度目かでようやく火がついた。
炎の色が、暗い室内に滲み始める。
その光に照らされて、リリアが目を開けた。
「……火、ついたの?」
「うん。もうすぐお湯も沸く」
「……うん」
義父を刺激しないよう耳元で、聞こえないほどの小声で言った。声はかすれていた。
ヴァルクは鍋に雪を詰め、火にかけた。鉄の底が熱を帯び、じりじりと音を立てる。部屋に湿った温かさが戻り始めた。
リリアは咳をこらえて布の中にうずくまっていた。
義父が起きるまでに、湯を沸かし、食器を並べ、朝の準備をすべて終えておかなければならない。
窓の外はすでに白んでいた。村の屋根には昨夜の雪が薄く積もり、斜めにかかった朝の光をわずかに反射していた。村人の姿がちらほらと見え始める。大人が薪を抱えて移動し、子どもが何人か走っていく。声を上げる者もいるが、快活な笑い声は聞こえない。
この村では、誰もが助け合って生きていた。表向きは。
祭りの季節には広場で歌が響き、焚き火の周りで踊る者たちがいた。助けが必要なときは手を差し伸べる者もいた。だが、それはあくまで、その人間を「村の一員」として受け入れていればの話だった。
移住してきた者が多いこの村では、血の繋がりも、土地への帰属意識も薄かった。笑顔の裏に一歩の距離がある。
挨拶は交わす。作業も手伝う。だが、そこに信頼はない。
ヴァルクはそれを知っていた。知りながらも、誰かの家の前を通れば、軽く会釈をすることもある。それに返してくれる者もいる。それ以上はない。
その日は静かな朝だった。
やがて義父が起きる気配がした。火が十分に燃え、家の中に匂いが広がり始めた頃だった。奥から寝台の軋む音と共に、重い足音が床を伝ってくる。
ヴァルクはすでに粥を火にかけていた。昨晩の残りを少しの水でのばし、鍋の底を焦がさないようかき混ぜていた。塩は少量しか入れない。入れても何も変わらなかった。
鍋の中の雪が音を立てて溶け、やがて湯気が立ち上った。ヴァルクはそれを少し冷まし、欠けた木の椀に注ぐ。
「粥と、……スープは?」
低い声がヴァルクの背中に飛んだ。
「まだ、用意してません」
「まだ、だと?」
椅子が軋んで、義父が立ち上がる。
ヴァルクは無言のまま、黒ずんだ鍋に火をかける。昨日の残りを煮直すしかない。スープと呼ぶには色も薄く、沈殿した小麦と塩の味しかしないものだ。
火にかけると、じわじわと泡が浮かぶ。湯気が立つ頃には、義母と実子たちも奥から出てきていた。手には木皿がいくつか握られていた。食事の支度は、ほとんど無言のうちに進められる。
家族は全部で七人。だが、同じ量の食事が出されるわけではない。
実子の四人に木皿が先に渡され、義父がそれを目で確認する。パンの欠片と粥、鍋からすくったスープが注がれる。たまに塩が足されることもあるが、それは稀だ。
そのあとに、ヴァルクとリリアの分。器は小さく、スープも少ない。パンがつく日はまれで、今日はその日ではなかった。
それでも、何も言わなかった。言えば、椀ごと取り上げられることがある。
義父がテーブルに腰を下ろす。何も言わずに椀を引き寄せ、一口すする。その音を合図に、他の者たちもそれぞれ椀を取る。
実子たちは静かに、けれど確かに食事をしていた。目が合えば互いに笑い合うこともある。義母は黙って椀を持ち、時折実子の誰かに微笑みかける。そこには、家族のぬくもりと呼べるものがわずかに存在していた。
その光景の端で、ヴァルクとリリアは黙って器を持っていた。
ヴァルクとリリアは黙っていた。椀の中の粥はすぐに冷め、固まりかけていた。焦げた小麦が沈んでいた。
それでもリリアは、震える手で椀を支え、口元に粥を運んだ。唇が触れた瞬間、少しだけ顔が和らいだ。
そのわずかな変化が、ヴァルクには救いに思えた。
昼が近くなると、家の中の空気は少しだけ動き出す。
義母は洗濯物を持って外に出る。干すためではなく、裏の小川で濯ぐため。水は冷たく、手がかじかむ。だが、洗うのを手伝えとは言われない。彼女は、自分たちが家族が、血のつながっていない養子たちに干渉されることを僅かでも嫌っていた。
義父は薪割りに向かう。納屋の隣で、黙々と斧を振る。近寄る者はほとんどいない。
実子たちは時折、村の子供たちと遊ぶ。雪合戦をしたり、森の外れまで駆けていったり。彼らは親から遠ざかるほどに、表情を変えることが多かった。
ヴァルクは、掃除を終えると家に戻った。リリアの様子が気がかりだった。
彼女は、体調の悪化から今日の家事の一部を免除されている。
彼女は昼過ぎに、少しだけ起き上がった。
「……外、明るいね」
「そうだな。今日は雲が薄い」
「風もあんまり、ない」
「……窓を開けるか?」
彼女はかすかに首を横に振った。
「寒いの、やだ。でも……外は好きだよ」
「……そうか」
そのまま、彼は戸棚の方を見た。乾物の棚。干し肉や小麦粉、干した根菜が置かれていたが、鍵がかかっていた。義母が管理している。彼らが手を出すことは許されていなかった。
棚の上には、欠片が落ちていた。干し肉の端の、乾きすぎて黒くなった一片。
リリアの目が、それをちらりと見た。けれど、彼女はすぐに目を逸らした。
ヴァルクは黙って、窓の外に目をやった。村の空は青白く、雪解け水が小さな音を立てて流れていた。寒く厳しい冬から、暖かく優しい春にようやく移ろうとしている。
午後の光は、淡く部屋に射し込んでいた。
藁の間に埃が浮き、床に落ちた釘の頭が鈍く反射している。静けさは重く、時折響く斧の音だけが、遠くで世界を動かしているようだった。
リリアは布にくるまり、横になっている。目は閉じているが、眠っているわけではない。咳が少し収まったとはいえ、身体に力が入っていないのが見て取れた。
ヴァルクは、戸棚の方に再び目をやった。干し肉の破片はまだ落ちていた。放っておけば、どうせ掃除の際に捨てられる。だが、リリアのような子にとって、それは一食に近い価値がある。
「……リリア」
声をかけると、彼女はわずかに顔をこちらに向けた。
「あれ……食べるか?」
彼女は、ためらうように目を伏せた。
「……怒られない?」
「わからない。……でも、怒るほどの量じゃないだろ」
彼女は、もう一度黙った。それから小さく、こくんと頷いた。
ヴァルクは立ち上がり、足音を忍ばせて棚に近づいた。欠片を拾い上げる。指先ほどの大きさだった。乾ききっていて、香りはほとんどしない。味も残っているかどうか怪しい。
それでも、彼女はそれを両手で受け取り、布の中で少しずつ口に運んだ。
静かな時間が流れた。
そのまま、何も起こらなければよかった。
扉が開いたのは、それから十数分後だった。
義母だった。洗濯を終えたのか、手には濡れた布がかかっていた。彼女は部屋に一歩入ったところで、すぐに立ち止まった。
戸棚の前に、ヴァルクの影が残っていたことに気づいたのだろう。彼女の目が、棚と床とを素早く往復した。
落ちていた干し肉の欠片が、もうそこにない。
リリアの唇の端に、わずかな赤黒い筋が残っていた。
何も言わず、義母は顔をゆがめ、室内を見渡し、すぐに叫び声をあげた。
「おい! あんたたち……また勝手に!」
声はすぐに義父を呼び寄せた。斧を手に、怒気を纏って戻ってくる音がした。
「なんだ騒がしい。……何だ?」
「棚の干し肉がなくなってる。こいつら、食べたのよ。絶対」
義父の目がヴァルクに向いた。だが、彼は動かなかった。何も言わず、ただ立っていた。
義父は、次にリリアに目を移した。
少女は布をかぶっていたが、震えていた。顔の色は薄く、声は出なかった。
「盗み食いなんざ、生まれたことを恥じて死ね!」
怒鳴り声は、暴力の合図だった。
斧は置かれ、代わりに手のひらが振るわれる。音が部屋に響く。細い身体が跳ねた。
すべてが、いつものように流れていく。誰も止めないし、止まらない。
「何度言えばわかる!」
怒鳴り声が重ねられ、さらに一発。顔を背けたリリアに、乾いた音が響く。
「てめえらは、家のもんじゃねえんだよ!」
ヴァルクの口が震えた。
義父は布をはがし、リリアの肩をつかみ、拳を握りしめ、振り上げた。リリアは声も出さずに身を縮める。
「やめろ!」
その声は、義父の手を止めるには十分だった。
ヴァルクは、義父の手をつかんだ。その手は震えている。しかし、目を逸らさず、動かぬまま、じっと見た。
「……俺が、拾いました。リリアじゃない。」
義父はしばらく、言葉を失ったように固まっていた。だが、すぐに口元が吊り上がった。
「お前が、庇うってのか」
「はい」
手は掴んだままだった。
義父の手は冷たく、節くれだっていた。握った瞬間、その力に、ヴァルクは恐怖を覚えた。
「いいだろう」
義父はそう言って、手を引いた。
そして、ヴァルクの頬を殴った。
視界が傾く。頭の奥が一瞬、白くなった。だが、倒れはしなかった。
義父は二発目を放った。ヴァルクは受け止めようとしたが、押し負けた。頭が地面に叩きつけられ、轟音が家に響く。その衝撃で、家が僅かに揺れるほど。
三発目は腹、四発目は顔面。五発目は――
彼は黙って殴られ、蹴られ続けた。
視界は白く、何も見えず、何も考えられない。
「もう二度と……勝手な真似すんなよ。殺すぞ」
その言葉を最後に、義父は部屋を出ていった。
義母は何も言わず、扉を閉めた。
口の中に広がった鉄の味にようやく気付く。不規則な呼吸で、息をうまく吸えない。痛みが時間差で全身に回る。
部屋に残されたのは、炎の揺らぎと、血の匂い、そしてリリアのかすかな嗚咽だけだった。
ヴァルクは震える体で立ち上がり、リリアの頬に手を当てる。
彼女の体は熱を帯びていた。明らかに、さっきより悪い。皮膚は冷たく汗ばんでおり、呼吸は浅く不規則だった。瞼の裏は赤く、唇は乾ききっていた。
その日は雪が降った。昼を過ぎると気温はさらに下がり、屋根から落ちる氷片の音だけが遠くで響いていた。
リリアは寝床に横たえられたまま、目を閉じている。
水を口に運んでも飲み込まず、呼びかけにも反応はなくなった。
義母は様子を見に来たが、「寝かせておけ」と一言だけ言い残して去っていった。
ヴァルクは焦っていた。だが、焦ることしかできなかった。
何もできないまま、日が落ちた。夜がきた。
夜が来ても、家の中には暖かさはなかった。火はまだ燃えていたが、薪が細くなっていた。
義父母は早くに寝ていた。実子たちも布をかぶって、それぞれの寝床に潜り込んでいた。うっすらとした寝息が壁越しに聞こえる。彼らの部屋だけは暖炉に近く、厚く積まれた藁に、丈夫な布が敷かれている。
ヴァルクとリリアは、暖炉から一番遠い場所で横になっていた。床には敷き布すらなく、藁の山が少しあるだけ。彼はその上に座り、布を彼女にかけた。
リリアは、さっきよりもひどくなっていた。
呼吸が浅く、身体が小刻みに震えていた。皮膚は冷たいのに、額だけが熱を持っていた。唇は色を失い、目も閉じたまま開かない。
「……リリア」
何度か名前を呼んでも、彼女は薄くうなずくだけだった。
もう、声も出せなくなっていた。
何かできることはないかと考えた。湯をもう一度沸かそうか。薬草を探してきた方がいいか。だが、この時間に外へ出れば、義父に気づかれる。火を焚けば、薪が尽きる。
ヴァルクはリリアの手を握った。手は小さく、骨ばっていた。以前よりもずっと細く、頼りなくなっている。
その手が、力なく彼の指に触れた。彼女の唇が、少しだけ動いた。
何かを言おうとしたのだろう。でも、音にはならなかった。
彼は布をかぶせ、耳元に顔を寄せた。
「……なんだ」
リリアの唇が、わずかに動いた。
「あり……が……と」
言葉はそこで終わった。喉が詰まったような音がして、呼吸が止まった。彼女の口から血が混じった泡が少し溢れた後、静かになった。
ヴァルクは、しばらくのあいだ、手を握ったまま動かなかった。冷たくなるのが、あまりに早くて、信じられなかった。
指先をもう一度温めようとしても、彼女はもう何も返さなかった。
炎の揺らぎだけが、彼の瞳に映っていた。
義父は朝の粥を食べながら、言った。
「一つ減ったな。馬鹿な真似を。」
その言葉に誰も反応しなかった。実子たちは無言で食事を続け、義母も顔色を変えなかった。
ヴァルクは静かに立ち上がった。
もう動かない、リリアのそばに腰を下ろす。
彼はリリアの身体を抱き上げた。布を巻き、布の端を丁寧に結んだ。
その日、雪は深く積もっていた。
彼は納屋から古い鍬を引っ張り出し、外れかけの扉を開けて森の縁へ向かった。村の墓地は使えなかった。あそこに眠れるのは“家族”だけだった。
雪を掘り返すと、凍った地面が抵抗する。鍬の刃は何度も跳ね、手の皮が裂けた。
それでも掘った。黙々と。誰の手も借りず、誰の声も聞かず。
妹を包んだ布をそっと抱え、そこへ横たえた。何も飾りはない。ただ、祈るように土をかぶせていった。
埋葬が終わったのは、日が暮れる直前だった。
ヴァルクは火の消えかけた暖炉の前に座っていた。手に力はなかった。唇は乾き、何を考えることもできなかった。ただ、布の下で眠っているはずだったリリアの姿だけが、記憶の奥に残っていた。
扉の向こうで、誰かが笑った。
実子の誰かが声をあげたのかもしれない。義父の低い咳払いも聞こえた。壁の向こうでは、日常が続いていた。
ヴァルクは、再び火を見つめた。
義父が言った「一つ減ったな。」という言葉が、耳の奥で繰り返されていた。あれが彼の全てだったのだ。リリアが死んでも、何も変わらない。怒りも、悲しみも、そこにはなかった。
変わらないのは世界の方だった。
ヴァルクが立ち上がったのは、それから間もなくだった。扉を開けて、納屋に向かう。手には鍬があった。折れかけた柄が、手にしっくりと馴染んでいた。
義父は台所の椅子に座っていた。煙草の火が、薄く赤く光っていた。鍋の蓋が少し開き、粥の匂いが残っていた。
目が合った。
義父は煙を吐いた。
ヴァルクはゆっくりと歩いた。まるで靄の中を進むように、頭の中は白く、音も匂いも遠くにあった。
鍬はまだ手に握っていた。雪で濡れ、血で濡れたその柄を、指は離そうとしなかった。
義父が振り返った。
「また火を――」
その言葉が終わるよりも早く、ヴァルクの中で何かが弾けた。
鍬を握る手に力がこもり、体が勝手に動いた。考えるより先に、意識の外側で決まっていたかのように。
刃は横薙ぎに振るわれた。思いのほか軽かった。自分の力が、こんなにも強かったのかと、刹那、異物のような感覚が脳裏をかすめた。
骨の砕ける音がした。椅子が倒れる。煙草が床に転がった。義父が苦痛で呻く。
鍬は再び振り下ろされた。腕が跳ね、足が痙攣した。酒瓶が床に転がる音がやけに遠くに聞こえた。
返り血は思ったよりも温かくなかった。
義父の呻き声も止み、倒れたまま動かなくなった。
それでもヴァルクは、もう一度振りかぶっていた。鍬の柄が乾いた骨を砕き、肉の裂ける音が響いた。
三度、四度。怒りというより、確認するかのように。ただ、もう動かないと確信できるまで。
火の明かりが義父の背を照らしていた。影が、床に大きく広がっていた。
ヴァルクはその場に立ち尽くしていた。
腕が震えていた。呼吸が荒く、足元が覚束なかった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
ただ一つの感情が、静かに、しかし確かに胸の奥に広がっていた。
――これで、終わった。
何が終わったのか、自分でも分からなかった。けれど、何かが確かに切れたのだと、体の奥深くで理解していた。
そのまま立ち尽くしていた彼に、家の奥から声がかかった。
「……な、何やってんの、ヴァルク…!」
それは義母の声だった。声に驚いた実子たちの姿も見えた。誰かが叫んだ。誰かが外へ走った。
ヴァルクは目を伏せ、鍬を手から離した。
倒れた義父の体を一瞥する。
もう、どこにも帰る場所はないのだと、そのとき理解した。
だからヴァルクは、動いた。
物音を聞きつけて集まってきた村人たちの気配を背に、家を出た。風が強く、雪が横殴りに顔を打った。
声が飛んだ。
「殺したぞ!」
「あの子がやった。」
「化け物だ。」
ヴァルクは走った。雪に足を取られながら、それでも止まらなかった。
義父母が村で担っていたのは、開拓移民団の名残で与えられた元冒険者の地位だった。村人たちもまた、あの家族の暴力や冷酷さを知らなかったわけではない。
だが、見て見ぬふりをするのがこの村のやり方だった。
自分の家に子どもを匿う者などいなかった。
納屋へ走る。鍵がかかっていたが、扉は木製で黒く変色している。扉を蹴り飛ばした。そこには古い剣があった。かつて義父が使っていたものだ。刃は欠け、柄も黒ずんでいるが、まだ使えた。鞘ごと腰にくくりつける。
物音が村に広がり始めていた。扉が開く音。怒鳴り声。誰かが火を灯す。名前を呼ぶ声が響く。
ヴァルクは、物陰を使いながら村の外れへ向かった。
途中、裏手の家の窓を割り、干し肉と火打ち石を奪った。抵抗する声が上がる前に逃げた。その家の少年は、かつてヴァルクを嘲笑していた。
背中に冷たい風が当たる。追われていることはわかっていた。
村の外れ。木立の向こうに、闇が広がっていた。そこから先は、誰も近づかない魔の森だった。
魔物が出る。道はない。霧と瘴気が満ちていると、誰もが言った。
けれど、そこしかなかった。
ヴァルクは走った。木々の間を抜け、枝に顔を切られ、足を取られながら、それでも止まらなかった。
叫び声が、遠くなっていく。
どこかで、何かが鳴いていた。獣ともつかない、乾いた音だった。
足がもつれる。倒れかける。けれど、体は勝手に前へ進んだ。
やがて、声も、光も、何も聞こえなくなった。
ヴァルクは、森の奥でようやく足を止めた。
吐く息が白い。手足が震えている。血の匂いは、まだ手についていた。
闇が深かった。木の枝が空を覆い、月の光さえ差し込まない。
それでも、彼は振り返らなかった。
――魔の森。
人が踏み入れてはならぬ領域。
それでも、もう選べる道はなかった。
森の中は、昼も夜もあまり変わらなかった。
光は葉の隙間をわずかに漏れ、地面には常に淡い緑と黒の影が揺れていた。風は湿っていて、生暖かい空気が足元から絡みついてくる。どこかで水が流れる音がしていたが、近づくとすぐに遠ざかる。木々のざわめきが、何かを喚いているように聞こえた。
雪が枝に積もり、それが落ちるたび、心臓が跳ねた。誰かがすぐそばで息をしているような錯覚があった。
昼も夜も関係なく雪が降り、靄が視界を奪った。足音すら飲み込むような静けさの中、ヴァルクはひたすらに歩いた。
最初の一日は、恐怖だけだった。
ヴァルクは剣を抜いたまま、森の中を彷徨った。何も食べず、何も考えず、ただ追われる感覚から逃れたくて歩き続けた。
二日目、空腹が襲ってきた。
木の実を探し、根をかじった。野草も試した。昔、リリアと一緒に探して食べたものの記憶を思い出す。水は雨水の溜まった石のくぼみから舐めた。何度か吐いた。腹の奥が痙攣し、手足が痺れた。
三日目には、野ねずみを見つけた。石を投げ、仕留め、火も通さずに食べた。異様に臭く、骨も固く、喉を傷めたが、満たされる感覚があった。
それからの日々は、よく覚えていない。
気がつけば木の洞に身を潜め、朝と夜の区別もなくなっていた。足元には血のついた草、朽ちた骨。何かの足音が近づくたびに身を縮め、息を殺した。
一度、魔物に出会った。
灰色の毛並み、異様に長い脚、目がふたつではなかった。音も立てずに現れ、こちらを見ていた。
剣を握る手が震えた。火を手早く雪で消し、逃げ、身を伏せ、息を止めた。
あの目がどこかへ消えたかと思えば、すぐ近くでまた現れる。それが夢だったのか、現実だったのか、ヴァルクには分からなかった。
翌朝、雪原に残された足跡は、確かにあの間隔で並んでいた。
他の夜には、遠くで吠える声が聞こえた。腹をすかせた何かが縄張りをうろついていた。 獣道には、蹄の跡と血の染みがあった。誰か、あるいは何かが狩られた跡だった。
その痕跡を見ただけで、脚が震えた。
生き延びるには、本能だけが頼りだった。
どれだけの時が過ぎたのか、自分でも分か、ない。
空腹と寒さと、喉の渇き。足取りは日ごとに鈍くなり、視界の端がぼやけてきた。声も出なくなっていた。乾いた木の実を噛み砕いても、すぐに吐いた。唇は切れ、舌が荒れて味を失っていた。
ある日、低木の茂みから鹿のような獣の影を見た。だが石を投げても届かなかった。飢えのあまり、雪を口に含んだ。だがそれは胃を冷やすだけで、空腹を満たしはしなかった。
もう、何日眠っていないか分からなかった。眠ることが死と同義になることを、本能で理解していた。
しかし。
ついに、足がもつれ、倒れた。
木の根元に身を横たえると、雪が頬に落ちた。その冷たささえ、もはや痛くなかった。
体が重い。指が動かない。まぶたが閉じかける。
(ここで死んでも、別にかまわない)
ヴァルクは、思った。
リリアの顔が浮かんだ。ずっと前に死んだ弟の泣き声が耳の奥で反響した。
だが、それも、もう遠い。
目を開けると、灰色の空が遠くにあった。雪が顔に降り積もり、まぶたを凍らせた。
動けない。声も出ない。
彼が目を覚ますことはなかった。
世界は変わらない。誰が死のうが生きようが、世界はずっと、続いていく。
いずれ連載したいと思っている長編作品の序章を短編用に改変したものです。