#1 楽園
今、烏賀陽霞楓の身に起こっている出来事はまさに非現実的なものだった。
先程までは道路の中心で横たわっていたはずなのに、今は直立している。
夜だったはずの世界は、まるで昼下がりかのような明るさを見せている。
ありえないのだ。
烏賀陽は、自分がここまでどのようにしてたどり着いたのかを思いだそうとしたが、やはり覚えていない。
夢物語を信じておらず、現実を突きつけなければならない教師という職に就いているを烏賀陽だが、導き出されるように非現実的な考えに至った。
この考えに至ることは実に容易であるが、受け入れることができるかはまた別の話だ。
―ここは現実世界ではない。
そう、烏賀陽は異世界転移したのである。
第一章*楽園*
今宵は三月の初め。今年の春こそ安定した気温を、と期待した烏賀陽だが、案の定、不安定だ。先週は初夏のように暖かかったのにも関わらず、今週は真冬の寒さだ。やはり地球温暖化には抗えないな、烏賀陽はつくづく思う。もとより、人間のせいなのだけれど。
そんなことを考えても、結局、烏賀陽は文明の利器である自分の車に乗り込む。朝だったので、車内は芯から冷える寒さだった。エンジンをかけ、暖房をつける。車内が暖まるまで待つ時間などないのでさっさとマンションの駐車場を出発した。
烏賀陽の職業は中学校教員、数学教師である。二十四歳でこの仕事に就き五年が経ったが、なかなかにやりがいがある仕事だと思っている。何より、一回り以上年下の学生と過ごすというのは大変であるものの、楽しいものだ。
いつのまにか快適になった車内でハンドルを握ること二十分。烏賀陽は自身の勤務する市立中学に着いた。時刻は午前七時四十五分、いつも通りだ。
「おはようございます。今日もお早いですね」
職員室の自分の席に座る直前、烏賀陽が挨拶をしたのは、隣のクラスを担任してる佐々木千晴だった。佐々木は五才歳上の国語教師でさっぱりした性格ながら、面白く、生徒からも人気があるのだという。
「あ、おはようございます。烏賀陽先生」
彼女は、年下の烏賀陽にも基本的に敬語を使うという、なんとも礼儀正しい人間なのだ。朝、誰よりも早く出勤し、準備をしている。根が真面目なのだろうか、と烏賀陽はいつも思う。
「今日は特に何もなかったですよね」
本当にそれを聞きたかったわけではない。一応の挨拶として、だ。だが、根が真面目な佐々木はそんな質問にも真摯に対応してくれる。
「はい。間違いないかと」
烏賀陽の勤務する中学校は街の中心部分にあるのだが、どういう訳か全校生徒が百八十人余りしかいない。なので、一学年二クラスしかないという小さな学校だ。その分、生徒との関わりが持ちやすい学校でもある。
烏賀陽が今担当している学年は三年生だ。彼がこの学校に異動してきた年から担任を勤めている学年で、今年が卒業ともあり、烏賀陽なりにあと一ヶ月の中学校生活を充実させようとしているところだ。
自分の席に着き、入試のあれこれをしているといつのまにか時刻は八時十分になっていた。そろそろ教室へ行く時間だ。
職員室の扉を開け、ギリギリに登校してきた生徒と挨拶を交わす。職員室から外は別の世界。生徒に疲れを見せないのが自分の勤めだ、と烏賀陽は思っている。というのも、最近は入試に関することが多く、まともに睡眠を取れていないのである。教師という仕事上仕方がないと烏賀陽は割り切っているのだが。もう少し、働きやすい世の中になれば良いのにとつくづく思う。それでも続けていられるのは、やはり、生徒のおかげだろう。中学生という多感な時期にも関わらず、いつも明るく、楽しそうな毎日を送っている。それを見て、つられてこちらまで楽しくなるのだ。仕事の大変さよりも、生徒との楽しさの方が上回る。これ以上、幸せな仕事はないのではないかとも思う。
一階にある職員室から三階にある三年の教室へ上がる。そこでもまた生徒とすれ違う。当たり前すぎる日常だが、あと一か月もすれば担任しているクラスの子達とは、二度とできなくなると考えれば嬉しくもあり、寂しくもある。
「おはようございます」
すぐに三階に着き、挨拶をしながら「三年一組」と書かれた教室に入る。ここが烏賀陽のクラスだ。入った途端、暗い顔をして歩いてきたのは女子生徒の北島咲だった。
「おはようございます。すみません、楽譜忘れました」
何かと思ったらそんなことか、と烏賀陽は思う。明日は卒業式のため、今日最終練習をするのである。北島は普段、忘れ物などしない真面目な生徒なので、楽譜を忘れたくらいでは烏賀陽も咎めない。
「わかった。でも珍しいな」
「すみません」
何かあったのかと少し心配したが、ただ忘れただけのようだ。それにしても本当に反省している。宿題くらいでそこまで落ち込まなくても、とも思うが彼女は登校するや否や焦ったのだろう。重い足取りで友人の元へ戻っていった。
それからはいつもと変わらぬ日常だった。各学年で数学の授業を行い、給食を食べ、昼休みを過ごし、午後は職員室で過ごし、帰りの会を行った。今日は部活動休養日だったので、仕事に集中できそうだ。
結局、全てが終わり学校を出たのは午後六時半だった。
いつもなことなので焦ることなどないが、もう少し早く終わりたいというのが本心だ。
重くなった体を車のシーツに落とす。朝とは違い、車内は芯から冷える寒さではなかった。このまま一眠りしたかったが、それは帰ってからの楽しみにしよう、と烏賀陽は思った。エンジンをかけ帰宅ラッシュを過ぎかけている道路を安全運転で進む。地方テレビ番組の天気予報が流れる車内。疲れもあり、とても重い空気に感じられた。明日は雨らしい。ますます気が滅入る。
信号が青になりだんだんと前の車が進み始めた、彼は右折をした。
そこまではよかったのだ。そこまでは。
次の瞬間、体に衝撃が走った、と共に視界が歪んだ。何が起こった。烏賀陽は考えを巡らせた。左から追突されたのか。見る信号を誤ったか、いや、しっかり見たし合っていたはずだ。間違いなく青だった。じゃあ、相手か。いや、そんなことは後回しだ。今はそれよりも車内から脱出しなければ。運が悪ければ車が炎上し、まるこげになってしまう。
運良く、ドアは開いた。足を怪我しているのか、感覚がなかったが馬鹿力でなんとか抜け出した。だが、すぐに倒れ込んでしまった。意識も遠のきかけている。頭を触った手には血がついていた。手から出ている血なのか、頭から出ている血なのかは判別がつかなかったが、おそらくどちらも怪我している。
自分は死ぬのだと、烏賀陽霞楓は悟った。
死ぬ間際であろう瞬間に彼が想うのは、やはりあの子たちのことだった。
卒業式が明日だというのに。参加できないかもしれないと思うと悔しくて仕方がなかった。今日、こんなことになるとわかっていれば、もっと充実させた。大変な仕事も喜んでした。いや、そんなのは命乞いにすぎないか。あの子たちは悲しむだろうな、と烏賀陽はひたすら脳を回転させる。
意識が飛びそうだ。せめておめでとうの一言だけでもかけてやりたかった。新しい門出を祝ってやりたかった。もう少し、一日でいい。あの子たちを見送らせて欲しい。それさえできれば、死んでもいい。後悔はない。
そう天に願って、烏賀陽は意識をなくした。
次に目を覚ますと目の前には見慣れない景色が広がっていた。そこは病院ではない。左右に等間隔に並んだ灯籠。整備された石畳。目の前に構えているのは、朱色の立派な鳥居。まるでアニメの世界だった。
烏賀陽は思考を巡らせる。なぜこんなところにいる。どうやってここまで来た。さっき事故に遭って…いや、なぜ立てている。さっきは足の感覚すらなくて、全身血だらけで。
「お待ちしておりました。烏賀陽霞楓様」
目の前に音もなく現れたのは、上を薄い緑で、下を白で合わせた行燈袴の幼女だった。顔立ちのせいもあるのだろうが、袴を着ているのにも関わらず、まるで、ドレスでも身につけているかのようだった。髪を肩のところで揃え、色白であった。
幼女は似つかわしくない言葉遣いで、深々とお辞儀をした。
「ようこそ。生死の狭間にある世界―楽園へ―」
「…は?」
烏賀陽霞楓に訪れる奇跡は、この時からすでに決まっていたのかもしれない。