序章
「じゃあ香澄。美也ちゃんの言うこと訊いてお利口さんにしててね」
母はそう言うと私の頭を忙しなく撫でた。そして叔母に「じゃあ私行くから香澄のことよろしく」と言って仕事に出掛けていった。母はいつもこうなのだ。本当に多忙を絵に描いたような人だと思う。
「じゃあ香澄ちゃん。今日はよろしくね」
母が行ってしまうと叔母はそう言って私の頭を優しく撫でてくれた。穏やかな手つきだ。さっきの母のやっつけ仕事とは大違い。そんなことを思った。母と叔母は顔こそ似ているけれど性格はまるで違うのだ。
「よろしく……。お願いします」
「フフッ。よろしくね。じゃあ今日は何して遊ぼうか」
叔母はそう言うと口元に手を当てて微笑んだ。大好きな叔母さんの優しい笑顔。それを見ているだけで私はとても幸せな気持ちになれた。彼女は私にとって実の母以上に母親なのだ。まぁ……。私がこう思っているなんて母は知らないのだけれど。
思えば母は……。あまり穏やかな人ではなかった。情熱的で行動的。良くも悪くもそんな人だった。仕事への情熱だけで生きている。少なくとも当時の私の目にはそう映っていた。おそらく仕事以外の全てのことは母にとって二の次なのだ。一人娘である私のことも。そして父でさえもおそらくそうだったのだと思う。
だから私も叔母もそんな母によく振り回されていたのだ。まぁ……。とは言っても叔母は嫌な顔一つせず私の面倒を見てくれたのだけれど――。
私の四歳の誕生日のことだ。いつも通り叔母の家に預けられていると叔母の彼氏がやってきた。
「へぇ。それがいつも話してる姪っ子ちゃんか」
彼はそう言うと身を屈めて私の正面に座り込んだ。そして「初めまして。俺は蔵田丈治ってんだ。お嬢ちゃんは?」と自己紹介した。酷くぶっきらぼうな言い方だ。でも不思議と嫌な感じはしない。
「鹿島……。香澄です」
「香澄ちゃんね。これからよろしく! いやぁ美也ちゃんの言ってた通り賢そうな子だ」
彼はそう言うと私の頭をわしゃわしゃと撫でた。雑に撫でられたせいで私の髪がくしゃくしゃになる。
「ジョージくん。あんまりぐいぐい行かないであげて。女の子なんだから」
「ん? ああ、そうだね……。ごめんよ香澄ちゃん」
叔母に窘められて彼は手をソッと引っ込めた。そしてポケットから櫛を取り出すと私の髪を丁寧にとかしてくれた。その手つきは……。まるで本物の美容師のようだ。
「……香澄ちゃん。悪いんだけど私ちょっと出てくるね。ケーキ取って来なきゃだから」
叔母はそう言うとスッと立ち上がった。そして「ジョージくんと遊んでてね」と言ってすぐに出掛けていった。今日は私の誕生日。そのためのバースデーケーキを取ってきてくれるらしい。
「よし……。こんなもんだろ。香澄ちゃん。ちょっと見てみな」
髪をとかし終えると彼はそう言って私に手鏡を差し出した。差し出された手鏡には綺麗に整えられたお下げ髪の女の子が映っている。
「ありがとう……。えーと」
私は彼にお礼を言い掛けて言葉に詰まった。彼のことを何て呼べばいいか分からない。そう思ったのだ。
すると彼は私の考えを察したのか「フッ」と笑った。そして「叔父さんって呼んでくれれば良いよ。もうすぐ美也ちゃんと結婚するし」と言った――。
その夜。彼らは私の誕生会を開いてくれた。生まれて初めての誕生会。ローストチキンやシーフードグラタンやバースデーケーキ。そんな子供の夢を詰め込んだような料理がテーブルいっぱいに広がっていた。ケーキ以外は叔母の手作り。そう考えると叔母の料理スキルはかなりのものだと思う。
「うーん。やっぱ美也ちゃんの手料理は最高だねぇ」
叔父はそう言うと切り分けたローストチキンを頬張った。そして白ワインを口に流し込むと赤ら顔で親指を立てた。そのジェスチャーは……。最高にダサい。幼いながらそう感じる。
「……言っとくけどこれジョージくんのための会じゃないからね」
「分かってるよぉ。いやぁ、香澄ちゃんおめでとう。ご相伴にあずかれて俺も嬉しいよ」
「もう! そんなんだからデザイナー仲間に小馬鹿にされるんだよ? まったく」
叔母は呆れ気味に言うと「ふぅ」と軽いため息を吐いた。その様子はまるで長年連れ添った夫婦のように見える。
「しかし……。香澄ちゃんは賢いね。今日は裁縫手伝ってくれたんだよ」
不意に叔父がそんなことを言った。そして私に「な?」と話を振る。
「ちょっと! まさかジョージくんこの子に縫い針持たせたの!?」
「あ……。いや、まぁ……。そう……。だね」
叔母に詰め寄られて叔父はしどろもどろに目を泳がせた。まぁ怒られて当然だ。子供に縫い物をさせるのは普通に考えて危ないことだと思う。
「はぁ……。今日はこの子の誕生日だからこれ以上言わないどいてあげるけど。でも危ないことさせないで! この子はお姉ちゃんの大事な一人娘なんだから」
叔母はそう言うと私を抱き寄せた。そして「香澄ちゃんも危ないことしちゃだめよ」と言った――。
思えば……。このとき触った縫い針が私の出発点だったのだと思う。そして結論から言えばその後も私はずっとその針を握り続けることになった。