憂鬱の塊
「私と一緒に夜会に行ってくれないだろうか?参加したくない気持ちはわかる。残念ながら、今、セーラの嘘の噂が社交界で、まるで真実のように流布されている」
ライアン様の言葉に、セーラは耳を疑った。
今の私が社交界に行くなんてとんでもない。
「今日のセーラの分析薬を使えば、犯人に近づけるかもしれないんだ。後で分析するのではなく、夜会の途中で分析して欲しいんだ」
「それは……。あの……。できれば参加したくないのです」
夜会には行きたくない。
そんな話を持ちかけられてこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
でも、それはできない。
今日までライアン様は、約束通り、お給料を出してくれている。
しかも、ポーション代も払ってくれている。
そのおかげで、すごく助かっているのだから、逃げ出すなんてできない。
私にできるせめてもの恩返しだと考えて、自分を納得させようとしたが、難しい。
その理由は今、社交界で流れている噂のせいだった。
一ヶ月前、騎士団の捜査が入るまでは、私の過去は誰にも掘り起こされるはずがないと思っていた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
まさか、当時の話が蒸し返された上に、更に悪い噂になっているなんて。
そのせいで、ライアン様の家名を汚した事になる。
私は、まだなんとかなる。
離婚後は平民に戻って、また、人目に触れない生活を送ればいいのだから。
私自身の事は割り切って考える事にしたのだが、貴族として生き続けないといけないライアン様はそんなわけにはいかないだろう。
ぐるぐると色々な考えが頭の中を旋回して、絡まって、どうしたらいいのかわからなくなってきた。
「行きたくないのは当然だ。できれば私が一人で参加するのがベストだろう。でも、これで偽馬の事件について大きく進みそうなんだ。それにはセーラの力が必要だ」
偽馬の事件が解決に向かうのなら……、これも大きな恩返しになるだろう。
たかが数時間我慢すれば夜会は終わるもの。
嫌なものは嫌だけど、これからも貴族界で生きていかないといけないライアン様の家名に泥を塗ってしまったのだから、仕方がない。
しかも、私の不注意で。
ボーンさんの前で魔力の無いフリをしたから、こんな事になっているんだ。
私は覚悟を決めた。
「……わかりました」
「ありがとう」
ライアン様は私の右手を両手で包み込み、笑いかけてくれた。
その笑顔と、包み込まれた右手から伝わるライアン様の体温に、胸が早鐘を打つ。
勘違いしてはダメ。
ライアン様はダナジーンの事が好きなのよ。この目で見たじゃない!
上手く反応できずに固まってしまった。
「ごめん。思わず手を握ってしまって」
ライアン様は優しく手を離してくれた。
「いえ、気にしておりませんわ」
どうすればいいかわからなくて、「おやすみなさい」と小さな声で伝えてから、すぐに部屋に戻り、着替えてからふて寝した。
ライアン様の顔を見ると、「行く」と言った言葉を覆してしまいそうで、なるべく顔を見ないように避けて過ごす事にした。
少しでも暇があると、夜会の事を考えてしまい憂鬱な気持ちに支配されてしまうので、忙しくしていたい。
ドラゴンでも襲来して、夜会が中止にならないかしら?
でも、そんな事になったら王都はパニックで街が麻痺してしまうわね。
それはそれで困るわ。
あれから数日経過したというのに、こんな事ばかり考えてしまう。
後ろ向きな頭の中とは裏腹に、実際の自分は今、沢山のお針子に囲まれてドレスの仮縫いをしている。
鏡越しに目が合うデザイナーさんが、嬉しそうに私を見た。
「奥様はスタイルが良いですから、どんなデザインでもお似合いですわ。ドレスは黒ですと、アクセサリーはゴールドが主流です」
「そうですわね」
あまり公の場に着飾って出たことがないので、正解がわからないから相槌をうつ。
「ですが、それですと埋もれてしまって奥様の美しさが際立ちませんわ。ですから、靴もアクセサリーも全て、プラチナブルーで統一いたしましょう!」
「いえ。わたくしは新婚ですし、ここは社交界の通例通り、新参者は目立たぬように……」
目立ちたくないのです。
できれば存在に気づかれたくないのですよ!!
「奥様!前時代的な考え方はお捨てくださいませ。奥様は由緒正しきマクヘイル伯爵家の奥方様なのですよ?」
「確かにマクヘイル伯爵家は由緒正しいですが。私は……」
困った顔をしてみたが、デザイナーの女性は、私が謙遜していると勘違いしたらしい。
鼻息荒く、私のコルセットを締め上げた。
もう、どうにもできない。
本当に夜会には出たくないのに、受け入れるしかできない自分がいるのだ。
夜会での滞在時間は、たかが数時間。
数時間我慢すれば、過ぎ去る。
しかし、たかが数時間が地獄のような辛さなのだが、これまで私に激甘な待遇をしてくれた伯爵様への恩返しなのだ。
1日1日と夜会が近づくにつれて、現実逃避をしたくなった。
暇があると、後ろ向きなことばかり考えてしまう。
そんな時、ライアン様から聞かされていた来客があり、急に忙しくなった。
その来客のおかげだろうか。
忙しすぎて目がまわるような日々が始まった。
寝るためだけに、領主館に戻る毎日。
あれから何日経過したのかさえわからなくなったある日、とうとうドレスが完成したと知らせが入った。
新しく覚えたポーションを作ろうとしてボヤを出しそうになった日だったので、落ち込んだ気持ちに更に追い打ちをかけるような知らせだった。
私の気持ちは誰にも打ち明けられずにいたので、知らせを持ってきたアンナはにっこり笑った。
「良かったですね奥様。ドレスを見たら沈んだ気持ちが、きっと回復しますわ」
「……そうね」
気を遣ってくれるアンナに、そっけない返事しかできない自分が嫌だ。
落ち込む気持ちをなんとか隠して、サロンに向かうと、手触りの良い真っ黒なシルクのドレスが、飾られていた。
そのドレスの斬新なデザインに驚く。
一見、肩の出ていないVネックのドレスだ。
しかし、肩や鎖骨を覆っているのはレース素材なので、肌が透けて見える。
そして、表面はレースだが、胸の位置からは滑らかなシルクの布になっていた。
ギリギリのところからは隠れているが、ハートカットになっており、切り込みは肋骨の中程まで入っている。
おへその少し上までは肌が露出する!
ここもレースで透けて見える程度にしてくれればいいのに、なんで剥き出しなのかしら?
そのレースは、肩から太ももの中程まで続いており、体にピッタリとフィットしているが、そこから下はオーガンジーが幾重にも重ねられており、足は見えないがセクシーなデザインであることには間違いない。
露出が多くて派手だ……。
残念ながら、背中はウエストのあたりまで大きく開いている。
こんなドレスは細いウエストに、丸いヒップと、形の良い胸を持ち合わせていないと似合わない。
もちろん、ドレスに合わせるために、プラチナブルーのクラッチバックと、ハイヒールも置かれている。
このドレス単体で見ると、かなり派手だ。
全員黒いドレスで参加しないといけないというドレスコードなのだから、人に紛れたら目立たないであろうと思いたいが、それは他の参加者がどんなに派手なドレスで参加するかによる。
私サイズのトルソーハンガーに着せられた煌びやかなドレスを眺めて、ため息を吐いた。
そんな私を見た屋敷の使用人達は嬉しそうにこちらを見ている。
このドレスに感嘆していると思っているんだ。
本当は、魂が抜けそうなくらい憂鬱なため息なのに。
これが届いたという事は、夜会は明日だ。
逃げ出したい気持ちを抑えるためには、もう寝よう。
「明日に備えて、もう寝ます」
私の言葉に、アンナがびっくりした顔をする。
「今からランチですよ?」
サロンの時計は12時を指していた。
「ええ。明日に備えて、お肌を整えませんと」
それらしい事を言って、急いでサロンを出る。
自室に駆け込むと、アイテムボックスから小瓶を出す。
この時のために魔法薬屋からよく眠れる魔法薬を買っておいたのだ。
これを飲めば24時間、つまり、明日のお昼までぐっすり眠れる。
主寝室に向かい、魔法薬を飲んで目を閉じた。
なんだか眠たくないわ。
目を開けて時計を見ると、16時だった。
魔法薬屋はよく効くって言っていたのに、4時間しか眠れていない。
そんなに神経が高ぶっているのかしら?
体を起こしてサイドテーブルの時計に手を伸ばして、違和感に気がつく。
あれ?私、畑仕事をするためにマニュキュアは塗らないのに、なぜ、爪がアイスブルーに光っているのかしら?
明日の夜会前にマニュキュアを塗るのかと思っていたけど、アンナったら私が眠った間に塗ったのね。
気が早いわ。
それにオーガンジーの長袖のガウンを羽織って寝たはずなのに、今は腕が見えている。
暑くなって無意識に脱いだのかしら?
とりあえず、水を飲んで落ち着こう。
右手でベッドを押して、上半身を起こそうとしたら、何故か体全体が浮いた。
……体に魔法がかかっている!
どういうことかしら?
「奥様、お目覚めでございますか?」
ドアが開いてアンナが入ってきた。
「どうなっているの?何故私に魔法がかかっているの?」
「奥様は24時間経ってもお目覚めにはならずぐっすりおやすみでしたので、その間に美容魔法で肌をピカピカに磨き髪を結って、ドレスにお着替えを済ませていただきました」
どういうこと?
私はまだ4時間しか眠っていないと思っていたのに、丸一日経っているの?
頭が追いつかずに混乱していると、アンナは寝室用のお盆を私の前においた。
お盆の上には、あたたかいポタージュ、こんがり焼き上がったパンと熱々のオムレツ、そしてカットフルーツの盛り合わせが乗っている。
「さあ、奥様、お召し上がりくださいませ」
「こんなに食べられないわ」
「ここから体力勝負でございますよ?」
真剣なアンナの眼差しに、私は色々と覚悟を決めねばいけないと感じた。
「わかりました。沢山いただきますわ」
「では、お食事の後のメイク直しの準備をして参ります」
アンナはキビキビと部屋を出て行ってしまった。
その後ろ姿を見送った後、何を食べようか迷う。
冷めないうちにスープから。
あー。温かいスープが胃に染みるのがわかる。
そっか。丸一日食事をしていないんだもの。
急激にお腹が空いてきた。
勢いよくお腹に詰め込んでいく。
誰も見ていない事をいいことに、マナーなんて気にしない。
大きくパンちぎって頬張る。
外はカリッと、中はもちっとして美味しい!
次は、大きな口でかじりついたが、いきなり、ライアン様が主寝室に入ってきた。
黒い詰め襟のロングジャケットを羽織ったライアン様は、まるでセクシーな暗殺者のようでドキドキする。
「そろそろ出かけられるかな?」
返事をしたいが、口いっぱいに入れたパンのせいでモゴモゴしかできない。
焦ってスープで流し込もうとすると、ライアン様は肩を震わせて笑っていた。
「一緒に食事をする時は、いつも澄ました顔で食べているのに、誰もいないとリスみたいに口いっぱいに食べるんだね」
リス!
私が動物のリスみたい??
勢いよく食べる様子から、厩舎で飼っている豚を連想されない分だけマシかしら?
「ククク。その驚いた顔も、ドングリを口に入れているところを見つかったリスそっくりだ」
笑いを堪えているライアン様を見て、急に恥ずかしくなった。
お食事を残すのはよくないけど、もう出かける事にしよう。
ナプキンで口元を拭いて、残りのお皿を見たが、気がついたら完食していた。
実はお腹が空いていたんだ。
これからの事を考えて落ち込んで食事も喉を通らないかと思ったけど、案外平気かもしれない。
「メイクを直したらもう出かけられますわ」
咳払いをしてから、澄ました顔を作った。
「じゃあ、そのクラッチバックはアイテムボックスカバーだから」
テーブルの上に置かれているアイスブルーのクラッチバックが目に入る。
これがアイテムボックスカバーなの?
存在は知っていたけど、今まで実物を見たことが無かったので、クラッチバックをまじまじと眺めた。
これはアイテムボックスの見た目をTPOに合わせて変化させるアイテムだ。
中身を入れ替えるのは大変だもの。
でも……ライアン様はあのアイテムボックスにポーション用簡易釜や、薬草などを入れていることをご存知だ。
という事は、ポーションが必要になる場面も出てくるのかしら?
「アイテムボックスには、ポーションや、あの分析薬も入れて持って来て欲しい」
「わかりました」
人前で分析薬を使うことはできないが、メイクルームは個室だから、あそこなら可能かしら?
そんな事を考えながらアンナにメイクを直してもらい、出来上がりを鏡で見た。
「奥様は、どんどんお美しくなられますね」
今日のメイクも、私じゃないみたいに完璧だ。長いまつ毛に、二重をくっきりと見せるアイメイク。そしてチェリー色の口紅だ。
夜会用のメイクをすると、記憶の中のお母様にだんだんと似ている自分に気がついた。
リバートンホテルで清掃員をしながら、ラウンジで働いている時よりも、今の自分の方が洗練されて見える。
あの時の方が、都会に住んで、都会の生活を送っていたのに冴えない自分だった。
今住んでいるマクヘイル伯爵領は、都会から離れており、そこで畑をしてポーションを作っているだけのはずなのに。
だけど、自分の行動を振り返ると、週に2回、王都に行く時、バザールでお買い物をした後、マクヘイル伯爵家のお仕着せに着替えて、高級店が並ぶ通りを見て歩いているのだ。
この様な事をする自分に対しての大義名分としては、もうすぐお誕生日であるライアン様へのプレゼントを探すためと、自分に言い聞かせている。
でも、本心では、やはり流行の着こなしを観察するという目的もあった。
私をエスコートしてくれるライアン様の顔にこれ以上泥を塗らないように、せめて格好だけでも整えたい。
「美しいなんて褒めてくれてありがとう。こうしていると、最近、亡くなった母に似てきた気がするわ」
「セーラ様はお母様似なのですか!では、お母様はさぞ美しい方なのでしょうね?」
「いえ。母か亡くなって随分と経つわ」
お墓は、ビフラ伯爵家の墓地に埋葬されているから、人気のない早朝しかお墓参りには行けないので、長い間行っていない。
「早くにお亡くなりになられたのですね。奥様はきっと寂しい思いをされなのでしょう。お母様が今のお姿をご覧になったら、きっとお喜びになられますよ」
アンナの言葉に嬉しくて微笑む。