2-4
『……やめろ。もういい、やめるんだ。これ以上は無駄に音をたてるな』
クロの声で景色が戻った。視界が、赤い。
もうフラウアの匂いはしない。
強く血液の匂いがした。僕や猫のものではない。
自分の口からも、濃い血の味がした。
これも自分の血の味ではない。
『ハチは確かにケンカは強かったが……それにしてもお前、凄まじい力だな。一噛みで、人間の首を骨ごと食いちぎり、爪の一払いで腕を真っ二つとは』
クロの言葉に、数秒前の記憶が戻る。
飛びかかる僕に、驚愕した人間の表情。
口元に残る、肉と骨を引きちぎった感触。
絶命する人間の、死の匂い。
僕が、これをやったのか。この首と片腕のない、新鮮な人間の死体は。
『これは……良かった、似てはいるが、シロではないな。おそらく、シロの弟だ』
良かった? 良かったって何が。
「クロ……何を言って……」
口元の血の味が気持ち悪い。
邪悪な、イカれた人間の血の味。
『落ち着け。……シロの弟や母親は、元々俺の仲間ではなかった。別のグループの猫だったからな。シロだけが、なぜかあの家に集まっていたから、シロさえ見つかれば、他のグループの猫のことは、まあ、やむを得ないと考えている。……もちろん、このお前が殺した人間は、お前がやらないなら俺が殺していたが』
僕が、殺した人間。
そいつは、シロの弟と思われる猫を、どうやら餌で誘き寄せ、こんなふうになぶり殺したようだ。
死んだばかりの猫の亡骸のそばに、わずかなペットフードが血に染まって転がっている。
あと一歩、僕とクロが来るのが早ければ、こんなことには。
自分の愚かさが悔やまれる。
なぜこうなる前に、先に明かりが見えた時点で、早々にこのクズを殺しておかなかったのか。
そう考えて、その自分の考えの異常さにも、ぞくりとした。
人を殺したのに、罪悪感がない。
猫を守れなかったことへの、強い怒りと後悔を感じ、人間の血液の匂いを不快に感じるだけ。
『なんだ、その顔は。そこの人間を殺したのがそんなにショックか。俺たち猫を殺した人間だぞ。腹を空かせたところを餌で釣り、快楽のために殺したか。こんな人間、バケモノ以下だ。生かしておく理由がない。……まあ人間の肉は、食料にするには、少々匂いが良くないがな』
「いや、そうじゃない。……ごめん、僕のことはもういい。それよりシロは? クロ、鳴き声で呼びかけてみてくれないかな?」
自分の中の混乱は、シロのことを想うことで、なるべく頭の奥へ押し込んでおく。
クロが小さく鳴くと、トラックの下から、何かが動く音がした。
『……いたぞ! シロ、俺だ。助けに来たぞ。今は周りに敵はいない。そこから出てくるんだ』
トラックの下から、弱々しいか細い鳴き声がかえってくる。
『……クロ様? ……ハチ様? そこにいるんですか……?』
這い出てきた子供の白猫は、確かにハチの仲間のシロだ。
だけど明らかに弱々しく、痩せ細っている。
美しかった白い毛並みも、土や他の何かで薄汚れていた。
「シロ……。ごめんよ、兄弟猫のことは守ってあげられなかった……。こんなに痩せちゃうまで、助けに来られなくてごめんな……」
その軽すぎる体を慎重に抱えあげた僕の言葉に、シロは特に意味を込めず、ニャアと鳴いてこたえた。
僕たちはその後、スーパーにまだいるはずの他の人間に気付かれないよう、赤黒く繁殖したフラウアに覆われたままの裏道を経由してから、クロに先導されるように、充分離れたところで大通りへ戻った。
あの人間が使っていたランタンと、窓ガラスが割れたトラックに残されていた誰かのスマホは回収し、背中のバックパックに収めてきている。
シロは僕の腕の中で丸まっており、こんな危険な世界の中でも、どこか安心したような匂いをさせている。
きっと弟猫と二人で、おなかを空かせ、心細い想いをしていたことだろう。
僕がもう少し早く目覚めていれば。
いや、もう今は考えるのはやめよう。今はとにかく、早くシロを連れかえって何か食べ物をあげたい。
濃い橙色の花びらが目立つあたりから、バケモノの唸り声がして、僕の体は一瞬硬直したが、クロが威嚇するとすぐにその気配は去っていった。
『……行くぞ。縄張りまではもうすぐだ』
月のない夜の闇の中で、フラウアの醜悪な花を背景に、クロのしなやかな体が先を進む。
「ユウ! よく戻った。思ったより早かったな……っておい、その血は……」
瓦礫の残る縁側に、金属バットを抱えて腰を下ろしていた凛は、返り血に汚れた僕の姿に気づくなり顔をしかめた。
「ただいま、凛。大丈夫、怪我はないよ。……ごめん、説明は後で。まずはシロに水と食べ物を……」
「それなら私が餌と水は用意しておいた。ちゃんと食べてくれればいいが……」
凛の横にはすでに猫の餌と水が出されていて、シロをそのそばに下ろすと、すぐにそれに口をつけてくれた。
猫餌の匂いが妙に美味しそうに感じたが、まだそれについては自分の変化を認めたくない。
『シロ、ゆっくり少しずつにしろ。急にたくさん食うと吐くぞ。……ハチ、いや人間。協力に感謝する。俺と仲間が夜も交代で番をしているから、お前たち人間はとりあえずもう休め』
クロは一度僕の足に額を押し付けると、するりと離れて庭の自分の寝床の方へ帰っていく。
シロが餌を齧る音と、凛の息遣いの音だけが残った。
「大変だったみたいだな。一体何が……いや、今はいい。まずは休め。あれから居間を少し片付けて、一枚だが布団を敷いておいた」
凛が差し出してくれたペットボトルの水を一口飲み込む。
自分の顔がずっとこわばっていたことも、それでやっと気づいた。
「……凛。あのさ、スーパーに生きてる人間がいた」
一枚の布団で凛と身を寄せあい、かつて天井があったはずの夜空を眺める。
まだ今日は雲が厚くかかっていて、ほとんど星も見えない。
「そうか」
布団の中で感じる凛の体温と匂いに、すごく自分の心が落ち着いていくのを感じた。
「シロの弟の猫が、人間に殺されるところを見た。……ストレス解消みたいな感じかな。わざわざ餌で誘き寄せてたみたいで……それで、それで僕が、そいつを殺した」
今はもう、そいつが男だったのか女だったのか、年をとっていたのか子供だったのか、そういうことも全く思いだせない。
何も、無機物みたいに、印象が無かった。
凛は何も言わずこちらを向き、掛け布団を寄せるように、自分の胸元へ僕の頭を引き寄せた。
凛の柔らかい胸の感触と甘い匂いに、なんだか涙がこぼれてくる。
「……僕は人間を簡単に殺してしまった。なのに、あんまり罪悪感も感じなかったんだ。……自分が怖いよ。猫の姿になって、猫みたいな力を手に入れただけじゃなく、心まで人間じゃなくなっていくみたいだ」
凛の手が僕の頭を撫で、猫耳に触れる感触に、すごく安らぎを感じる。
「ユウ、お前は優しすぎる。こんな世界だ、仕方ないことさ。……お前はきちんと人間だよ。猫はこんなふうに涙を流さないだろう。……まあ、撫でられてゴロゴロ喉を鳴らすところは、少し猫っぽすぎるかも知れないけどな」
言われて自分の喉がゴロゴロと甘えた音を出しているのに気づいたが、どうにも自分では止められそうにない。
「言ってなかったがな。私もお前たちと合流する前に、フラウアに寄生された人間を3人ほど殺したよ。……向こうは近づいてきただけで、敵意があったのかどうかもよくわからないが。だが殺した。いち早く、負傷せずにお前たちに合流することが、そいつらの命よりずっと大事だったからな」
凛は同じ態勢のまま、強く僕の体を抱きしめてくる。
柔らかくて、暖かくて、とてもいい匂いだ。
「なあユウ。私はお前や奏がこんなふうに、泣いたり怪我をしたりするのを見たくないんだよ。……危ないことはもう私に任せておくといい。私がお前たちをきっと守ってみせるさ」
「凛、ありがとう。……だけど僕たちは凛のことも心配なんだよ。ちょっと頼りないだろうけど、僕もきっと凛のことを守ってみせるよ」
僕が抱きしめ返しても、凛はそのまま何も言わなかった。
むき出しの天井がない部屋の中に、ひんやりした風が通り抜ける。
布団の中で凛の体温に包まれて、それを堪らなく愛おしく感じていると、すぐに眠気がやってきた。
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第2章はここまで。まだまだ続きますので、どうか引き続き応援をよろしくお願いいたします。