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お腹に入っていたものは、全部吐き出してしまった。
何度も何度も繰り返し胃液を吐いて、涙も止まらなかったが、凛はそんな僕の肩を優しく抱きレジから引き離すと、ゆっくり僕の背中をさすってくれた。
日本の人口が1000万人を切ったと、あらかじめ凛がそう話してくれていたというのに、僕はその事実を全く直視できていなかったのだ。
この日本ですでに一億人以上の人々が、何らかの形で命を落としているのだという事実を。
「う……ごめん凛。僕は……」
「ユウ、やはりここで引き返そう。お前には無理だ。ユウの家にいた猫たちのことは、明日改めて私が一人で確認に行く」
凛は厳しい言葉を選んだが、僕の背をさする手からは、こちらを気遣う優しい匂いがする。
僕も、凛がここまであえて口にしないでいてくれていることの可能性についても、考えなかったわけではない。
あの庭に集まっていた、ハチの仲間の猫たち。
クロもシロも、もうすでに命を落としているかもしれない。
バケモノに姿を変え、こちらを襲ってくるかもしれない。
だけどそれを意識すればするほど、吐き気はすっと収まり、体の中が燃えるように熱くなった。
フラウアの香りを急に強く感じた。
〈ハチの仲間のことは、僕が必ず探しだす〉
「ありがとう、凛。だけど、もう大丈夫だよ。……一匹でも生きている猫がいるかもしれないなら、ちゃんと探して助けてあげたい。もし縄張りを荒らすバケモノになっているなら、僕とハチのこの手で始末をつけてあげたい」
僕はバッグを背負いなおして立ち上がる。
落ちていた適当な服で口を拭った。
目があった凛は、驚いたような表情でこちらを見ていた。
「ユウ、お前その瞳……なんか、少しまた猫みたいに……」
僕自身も、また変質した自分の体に気づいていた。
薄暗くなっていく街の景色が、急にはっきりと目に映っている。
ハチが、僕の体の内側から、また力を貸してくれているのだ。
「猫の目は、暗い夜でも周りが見えるようにできてる。この目で、ハチの仲間を探すんだ。……行こう凛。もう家はすぐそこだ」
夜の闇が迫る中、僕たちは家までの道を急ぎ走っていた。
自分でも、明らかに以前までの自分ではありえないほどの速さで動けているのがわかる。
そんな僕のほぼ全力の走りに、容易くついてきている凛にも驚くけど。
「ユウ、もうかなり暗くなってきているからヘッドライトを使いたい。バケモノは明かりに寄ってくるときがあるから注意してくれ」
その言葉に僕は走るスピードを落とし、凛の手を掴んだ。
「いや、僕を信じてついてきて。明かりを使うのはギリギリまで我慢しよう。まだ僕の目なら、昼間みたいに明るく見えてるよ。きっと大丈夫だ」
凛は何も答えなかったが、僕に掴まれた手をしっかりと握りなおしてくれる。
道には少し、何かの瓦礫やフラウアの除去が行き届いていない部分もあるが、僕はそうした部分を大きく迂回しながら凛の手を引く。
道路の脇のフラウアの花の奥からは、またさっきの鳥のバケモノのような音や、嗅いだことがないような獣の匂いがしたが、それもなるべく距離をとるようにして前へ進んだ。
家の塀が見えたときには、すでに日はほとんど落ちきっていた。
僕は走る足をとめて、一旦息を整える。
「電気の無い街が、ここまで暗いとはな。今日は月も出ていないようだし。もう私には足元くらいしかまともには見えていないが……着いたのか?」
凛はあたりをキョロキョロと見渡しているが、その目は鋭く、金属バットを抱えた方の手にも力がこもっている。
「うん。でも……うちの庭からなんか変な匂いがする。知っているようで知らないような、変な匂いだ。僕が先に進むけど、何か出てきたら構わずヘッドライトを使って」
僕は凛の手を握りしめたまま、音をたてないようにゆっくりと庭に入っていく。
何かに、見られている気がした。
危険を感じるような匂いではないが、明らかに、何かがいる。
地震のとき咲いたはずの庭のフラウアは、なぜかほとんどが朽ちており、数もかなり減っている。
自分があの日落とした血の匂いは、もうほとんど消えていた。
視線は、右手の縁側の方から感じる。
一瞬、ピリッと体毛が逆立つような感覚があった。どうしてか、危険な雰囲気はないのだが。
……来る。
縁側から、ダンと床板を蹴ったような音がした。
僕はとっさに凛の手を引き押し倒すと、かばうようにそこに覆い被さった。
何か生き物の匂いが僕の背中のすぐそばを掠めたけれど、なんとかかわすことはできたようだ。
庭に倒れ込んだ僕たちのすぐそばで、何か大きなものが地面に着地した音がした。
顔を起こしてそちらに目をやると、暗闇の中で2つの光が揺れている。
何かの生き物の瞳だ。
体はほとんど闇に紛れていて、ハチの目でもうまくとらえきれない。ただ、人間と同じくらい大型の生き物であることは感覚でわかる。
四足歩行の獣だ。匂いからして、おそらくは猫だが、明らかに巨大化してしまっている。
態勢を立て直すよりも早く、僕はその獣に向けて叫んだ。
自分の喉から、空気を鋭く吐き出すような猫の威嚇音がシャアアと大きく響く。
獣はその音にびくりと動きを止めた。
けんかひとつしたことのない僕に、争いごとなんて無理がある。だけど僕は、猫のけんかのやり方だけは何度も見て知っている。
その瞬間、強い光が獣に当たった。凛がヘッドライトを付け、そいつに向けてかざしたのだ。
ライトで映し出された獣は、黒く短い体毛に覆われた、豹か虎のように巨大な黒猫だった。
面影がある。どこか嗅ぎなれたような匂いも。きっと、これはクロが巨大化したんだ。
この庭を住みかにしていた、このあたりのボス猫。
ハチが特に仲良くしていた大切な仲間でもあった。
クロだった獣は、ライトで目がくらんだのか、僕たちにまた飛びかかろうとした態勢のまま、ふらりとたじろいでいる。
今、いくしかない。覚悟を決めろ。
僕は全身に力を込めて、倒れこんだ体勢からそのまま、巨大な黒猫に飛びかかった。
動きを止めているその獣の頭に向けて、上から全力で自分の手を振り下ろす。
これが猫のケンカでは定番の。
必殺猫パンチだ!
僕の手がその獣の頭にとどいた次の瞬間には、重く鈍い音がして、獣の頭は地面に叩きつけられていた。
想像をはるかに越える威力に、叩いた自分が一番驚いている。
『ま、待て。お前たちに怪我をさせるつもりはない。一旦押さえつけようとしただけだ』
ふらついた獣の唸るような声。だが、僕には不思議とその声の意味がわかった。
知性を感じる言葉を受け、すでに金属バットを振りかぶっていた凛にあわててストップをかける。
『……やはりこの匂い、その声、お前はハチなのか?……いや、この家にいた人間の匂いもする。後ろにいるメスの人間のことも覚えているぞ』
「やっぱりクロか。叩いてごめん、凶暴化して襲ってきたのかと。……無事で良かった、本当に。僕はこの家にいた人間だよ。だけどこの体と命の半分はハチからもらったものだ」
巨大化したクロは、僕の言葉をなんとなく理解してか、警戒した素振りをなくすと、遠慮がちに僕の足元へ近づき、自分の体を擦り付けてきた。
巨大化しているため、そのふれあいでもかなりの重量を足に感じる。
こちらがその頭を軽く撫でてやると、少し気持ちよさそうに目を細めてくれた。
「ハチがこのあたりの猫のことを心配していたんだ。クロ、とりあえず何か困っていることはないかい?」
『……シロの安否がわからない。シロの住みかのあたりを通ってここまできた仲間の話では、母猫が死んでいたのは見たらしいが、シロとシロの弟の姿がなかったと』
「……おい、おいユウ! お前、さっきからもしかして、その黒いやつと話してるのか? そいつ、もしかしてここにいたクロさんなのか?」
金属バットを構えたままの凛が、何が何やら、といった感じで割って入る。
一旦、落ち着いて状況を整理した方が良さそうだ。
あの日僕と奏が負傷した畳張りの居間は、思ったよりもひどい状態にはなっていなかった。
屋根は半分崩落していたが、半分はまだ残っており、瓦礫を押し退ければ座れるスペースくらいは充分確保できた。
暗闇に手こずっている凛のため、仏壇から拝借したろうそくで頼りない明かりを確保し、キッチンからはペットボトルの飲料水を見つけ、一息つく。
畳の上でクロから聞いた話としては、こうだ。
地震のあと、クロは近所の仲間の猫たちに呼びかけ、この家の庭に集合するように指示して回った。
だがその日のうちに集まれた猫は自分を入れて4匹だけ。
近所を捜索しようにも、バケモノに襲われて逃げ回るのが精一杯。
途方にくれてこの庭に戻った際、体を休めようと少し寝て起きたら、この巨大化した体になっていたそうだ。
それ以降は、まず庭の安全確保を第一に行動しており、縄張りを荒らすバケモノも巨大化したおかげで撃退できるようになったものの、遅れて集まってきた猫たちが合計9匹に増え、これらを守るのと食糧確保で手一杯。
他の猫の捜索は断念せざるを得ない、と考えていたところだったようだ。
『だがそのメスの人間が来たなら話は別だ。そいつなら当然、バケモノどもに遅れはとらんだろう。お前たちに一旦仲間を任せて、俺はシロを探しに行くことができる』
なぜかクロも、凛の超人ぶりをなんとなく察しているようだが、当の本人はクロの言葉を理解できないので、すっかりこちらを無視し、何やらスマホをいじっているようだ。
「よし。……ユウ、良いニュースだ。ネットの回線が復旧している。電話回線は相変わらずダメみたいだが、とりあえず奏とメッセージがやりとりできた。まず奏に現状を伝えておくよ。……あと、全国的に水道が復旧してきているらしい。さすが日本だな」
ろうそくの火とスマホの明かりで、凛の影が揺らめく。
ぼんやりと見えるその顔は、相変わらず見事なまでに美しい。