2-1
夕暮れどき。
食事の配給で人の目が減るタイミングを見計らい、僕と凛は病院を抜け出した。
怪我のせいで居残りになる奏は、僕たちが寝ていると嘘をついて、医者たちをごまかす任務を遂行してくれている。
自衛隊が守っている正規の出入口は避け、病院の敷地の隅の金網を乗り越えると、思ったより簡単に脱出は成功した。
凛は剥き出しの金属バットを握りしめたまま、ほとんど片手でするすると金網を登りきったが、まあこの超人なら特におかしなことではない。
僕に至っては、先ほど習得したばかりの猫ジャンプで、わずか数秒で金網を突破できた。
想像以上の自分のパワーに、思わず調子にのりそうになる。しっぽがピンと上を向くのがわかった。
「お、おいユウ。その、なんだ、け、ケツがでているぞ」
凛に指摘され、はっとして自分の下半身をみると、膝のあたりまで入院着がずり下がってしまっていた。
ケツどころか、大事な部分まで丸見えだ。
調子に乗った罰だろうか。
あわてて着なおす。
「ふふ、まあどこかに寄って、着るものくらいは集めたほうがいいだろうな。ユウは靴すら履いてないんだ。さすがにこれで活動するのは厳しいだろう」
僕は病院にたどり着いたとき、丸裸の状態だったらしく、与えられた入院着以外なにも着るものがない。
スリッパはあったが、動きの邪魔になりそうだったのであきらめ、素足に破いたシーツを巻き付けただけで外に出てきている。
唯一、ハチの形見の赤い首輪を左手に巻いているが、身を守る上では何の役にも立つはずがない。
あと、恥を忍んで言えば、とにかく下着が欲しい。
下半身がスースーして落ち着かないのもあるが、何より少し大きすぎる胸がばるんばるんと揺れてちょっと痛いのだ。
「僕の家までの道の途中に、作業着売ってるお店があったよ。奏にも靴とか替えの服が必要だし、悪いけどまずそこに寄っていこう」
凛は僕の言葉に頷くと、小走りに進みだした。
道路上のフラウアは撤去されたのか、車一台が通れるくらいのスペースが続いている。
「ユウ、フラウアの匂いは大丈夫か? このあたりの道路は自衛隊が片付けていたが、それでも歩道だったあたりは花だらけだぞ」
言われてみると、不思議とフラウアの匂いはしなかった。
あたりはまだ、フラウアのオレンジと赤黒い花びらに囲まれているが、匂いは感じない。
「大丈夫だよ。フラウアのことはハチのおかげでだいたいわかってる」
急に匂いを感じなくなった理由は、もうなんとなくわかる。夢の中でハチが勘づいていた通りだ。
「自分の願いにフラウアが反応して、体が変化しかかっているときに、元の体が抵抗するみたいに、不快な匂いを感じているんだ。……今の僕の体は半分ハチにもらったものだから、僕には今こんなでも、自分の体に何の不満もない。だから匂いは感じないよ」
言いながら一瞬、失った股間の愛棒のことを思い出してしまい、かすかにフラウアの臭気を感じてしまったが、それはすぐに頭から消した。
凛は、わかってくれたのかどうなのか、微妙な表情だ。
凛の運動神経は神がかっているが、頭脳まで超人的というわけではない。
我が家が、病院に続く広い道路からアクセスしやすい位置にあるのは幸運なことだった。
先を見ても、道路上はかなりフラウアが取り除かれていて、すんなり先を急ぐことができる。
自衛隊が車両の移動ルートを確保するため、各所の避難所などを繋ぐ主要な道を、最低限だが片付けてくれているのだ。
目的としていた作業着の店まであと少し、というところで、ブワ、ブワと、鳥の羽音のような音が聞こえ始めた。
何か左の方から、嫌な匂い……というか、雰囲気を感じる。
自分の体の毛が逆立つような感覚があった。
「凛、ちょっと待って。何かおかしい。なにかそっちに……」
僕が注意したその瞬間、ちょうど指差していたその方向から、ブン、ブンと音が大きくなる。
歩道のフラウアの花を派手に散らして、何かがこちらに向かってすごい早さで飛んできた。
赤黒い花びらが広く舞う中心を突き破るように、灰色に光る、鳥くらいの大きさの何かが飛んでくる。
バケモノ。
これが凛の言っていたバケモノか。
尋常ではない勢いで近づいてくる怪物は、しかし次の瞬間、凄まじい打撃音と共にその生涯を終えた。
赤黒い液体が、フラウアの赤黒い花びらに混じって道路に広がる。
「よし、どうだ。ナイスバッティングだっただろう」
飛んできたバケモノを叩き落としていたのは、金属バットを振り切った状態でポーズを決めた凛だった。
バケモノは、そのスイング一撃でほとんど爆散し、かけらと体液が散らばっていた。舞っていたフラウアの赤い花びらが、その体液でまた醜く染まる。
静まりかえった街の中で、自分の心臓が痛いくらい激しく音を立てているのがわかった。
「な、なんだよ今の……。これが凛の言ってたバケモノ? 僕たちを攻撃してきてたのか?」
衝撃的な遭遇に、僕はおしっこを漏らしかけるほど動揺していたが、凛は何でもないことみたいにバットをもう一振りして、付着した汚れを飛ばしている。
「たぶんさっきのは、ハトか何かが変異したものだろう。なんとなくハトっぽかったぞ、うん。私が病院に向かっているときにもいくらか同じようなバケモノに襲われた。しかしまあ、所詮はあの程度のスピードだからな。頭を潰せば簡単に倒せる」
……いや、普通は無理でしょ。
凛が素早く対応していなければ、たぶん僕は今頃、あの鳥?のバケモノにむしゃむしゃと齧られていたことだろう。
想像すると寒気がして、ちょっと泣きそうになる。
「おいユウ、この程度で弱気になるな。お前が外に行くと言い出したんだろうが。……早く行くぞ。止まっていたら、バケモノが集まってくるかも知れない」
凛に促されるまま、作業着を販売していた店に侵入する。
幸い、地震の影響かウインドウのガラスが割れていて、そこから中に入り込むことができた。
靴を履いていない僕は、ガラスの破片を踏まないように、そろりそろりと一歩ずつ進む。
店の中からは、何かが腐ったような不快な匂いがした。だが、さっきのバケモノのような気配は特にない。
店内は地震の影響でかなり散らかっていたが、フラウアの花は店の中にまでは侵食していないようだった。
「……よし、店の中には何もいないようだ。私は大きめのバッグやら、役に立ちそうなものを集めてくる。ユウはまず、適当に服を着ておけ。一応、バケモノがいないか注意するんだぞ」
凛はそう言うと、金属バットを抱えたまま店の奥に進んでいった。
僕は凛がこちらから見えなくなったのを確認し、まず自分が身にまとっていた入院着を脱ぎ捨てる。
近くにあった鏡に、裸の僕自身が写りこんだ。
よく考えれば、猫化したあとの自分の全身をこうして見たのは始めてだ。
顔立ちはほとんど元の通り、女の子っぽい、いや女の子っぽすぎると言われ続けてきた僕のままだが、やはり黒い猫耳と、ふわふわの長いしっぽと、色々なところに生えている白黒の体毛の違和感がすごい。
そこに胸や股間、人間の女の子としての特徴もきっちりと現れていて、人間の肌色の比率も決して少なくない。
軽めなケモナーの方にはたいそうモテてしまいそうな身体である。
でもこれじゃあ、普通の恋愛なんてもう一生できないと覚悟を決めておくべきだろう。どうせ股間の愛棒はもう跡形もないのだし。
しかしそうは言っても、地震で脇腹に負っていた深い傷が跡形もなく消え去っているのだから、それだけで充分。
ハチに分けてもらったこの体、きちんと大切にしていきたい。
まず僕は肌着のコーナーを見ていく。女性用の下着なんてものはさすがに売られていなかったようだが、身体にぴったりとフィットするタイプの肌着を着たことで、きゅうくつではあるが、邪魔な胸の感覚はずいぶん楽になった。
ノーパンではあるが、八分丈のタイツを履けば、股間にはかなり安心感が出る。
が、しっぽが抑えつけられる感覚にどうにも耐えられず、おしりの部分は無理やり破くことになった。
自分の爪で軽くなぞっただけで、おしりの布は見事に切り裂かれており、その自分の爪の鋭さに少々ぞっとする。
作業着は女性用もいくらか売られていたので、身長の縮んだ今の身体に合うものも簡単に見つかった。
雨にも耐えられるように、レインコート寄りな素材のものを選んでおく。
フードもついていたので、猫耳を隠したいときはこれを被ればいいだろう。
もちろん、しっぽの部分にはまた穴を開ける必要があったが。
しっぽの隠し方は、また追々考えよう。
靴下も分厚いものを選び、なるべくガッチリしたブーツをはく。
慣れないせいなのか、猫化の影響か、ブーツはかなり動きにくく感じたが、足周りをしっかりさせておくのはサバイバルの鉄則だろう。たぶん。
「お、だいたい準備できたみたいだな」
店の奥から凛がやってきた。
かなり大きいバッグ2つに色々詰め込んできたみたいだが、ちゃっかり自分も新品の作業着に着替えたようだ。
腰には工具を入れるようなベルトまで通してある。
「あとは奏の分の靴も持っていこう。ユウはこっちのバッグの隙間に、肌着をなるべくたくさん詰め込んでおいてくれ」
凛に渡された巨大なバッグは、すでに薄めの作業着でかなり埋まっていたが、そこに少しでも多く、タイツやシャツを押し込んだ。
近くにウエストポーチが並んでいるのを見つけ、そこにもぎゅうぎゅうに肌着を詰め込んでいく。
肌着の大切さは、ここまでの移動でも充分感じた。
ついでに太ももに取り付けられるポーチも見つけ、装着した。そこには靴下を精一杯押し込んでおく。
すぐに戻ってきた凛は、今度は頭にヘッドライトまで付け、皮手袋まではめていた。
いくらキリッとした顔立ちの美人とはいえ、探検家みたいでちょっと笑ってしまう。
失礼にも笑う僕を見て、凛は少し気を緩めたような、落ち着いた匂い……というか、雰囲気になった。
「ようやくユウも笑ってくれたな。ここまでかなり気を張っていたようだから、少し心配していたんだ。……さあ、行こう。日が暮れる前にユウの家に入っておきたい」
膨らんだリュックを背負って凛はそのまま立ち去ろうとする。
だが僕は、ちょっとそれに抵抗感があった。
「凛、お金持ってきてないよね? 一応、レジのところに書き置きしておこうよ」
僕がレジに向かうと、凛は焦ったようにこちらを向いた。
店に入ったときから少し感じていた、何かが腐ったような匂いをまた感じた。
「おいユウ、レジに近づくな。……サバイバルといえば、物資を持ち出すのは当然だろう。こんな非常時にお金のことなんか気にしても無駄だ」
……果たしてそうだろうか。
世界が大変なときだからこそ、人間としての常識的な倫理観も大切にすべきなのでは。
この作業着だって、誰かが頑張って作り、この店頭に並べられていたからこそ、今僕たちが手に入れることができたのではないか。
凛はちょっと、道徳の授業を受け直したほうがいい。
僕は凛の言葉を無視し、レジに駆けよる。
「おい、ユウ! 駄目だそっちは……!」
腐臭が強くなった。
凛が僕を止めた理由は、道徳心の欠如なんかではない。
僕への純粋な気遣いによるものだった。
僕はまだ、この世界の現実を、何一つわかっていなかったのだ。
レジの奥には、倒れた大きな棚の下敷きになった、元店員の死体が転がっており、ひどい異臭を放っていた。