11-3
足をぶった切りにされたバケモノは、バランスを崩し前のめりに倒れていく。
ただしそれは、建物みたいに大きなバケモノだ。
人間がこけるのとは、訳が違った。
バケモノはそのまま全身をアスファルトに叩きつけられる。
轟音と衝撃と共に、バケモノの体を構成している人間の死体から、大量の腐汁が撒き散らされた。
僕は下敷きにならないよう、必死に距離をとったところまでは良かったが、見事にその赤黒い汁を全身に浴びてしまう。
最悪の気分で周りに目をやると、舞い上がったフラウアの花びらの影で、クロが何やらにゃあにゃあと叫んでいた。
『人間! よけろ!』
え。
気づいたときには、目の前にバケモノの太すぎる腕があった。
倒れ、もがくその腕が振り回された結果、間抜けにも近くにいた僕に、その腕が迫っていた。
全く反応できないまま、全身に強い衝撃をうける。
体がバラバラにされるような痛みの中で、ぐらりと意識が遠のいた。
『!! ユウ! ユウ! 起きて!!』
何かに体が叩きつけられ、上も下もわからない。
インカムからの遥の悲鳴のような声だけが、聞こえる。
体が砕けちったみたいに、全身に強い痛みがある。
だけどすぐ僕のそばに、嗅ぎ慣れた優しい匂いが広がった。
霞む目を無理やり開くとそこには、大量のフラウアの花で僕の周りにバリケードを作り、身をていして守るように立ちふさがる、奏の姿があった。
「ユウ! 起きて! 死なないで!」
赤黒い花に囲まれて揺れるその金色の髪を見ただけで、体の痛みは全く感じなくなる。
へし折れた足が、腕が、音をたてて再生していく。
凛にボコボコにされたときと同じだ。
傷はすぐに癒える。立ち上がることができる。戦うことができる。何度でも。
大切なみんなと一緒に、この終末を生きていくためならば。
大切な人を失って、寂しさがつのれば、宗教に溺れることだって理解できる。
自分の信仰する宗教がこき下ろされれば、腹が立つのも理解はできる。
僕はずっと、恵まれていただけだ。
この終末の世界で、つらいこともたくさんあったけど、一度だって寂しい夜を過ごすことはなかった。
いつも僕のそばには、奏と凛がいてくれた。
たくさんの猫たちに囲まれていた。
そして今は、遥もその中に加わっている。
僕には大した主義も主張もないし、バケモノがいればびびりくさる根性なしで、ちっともみんなみたいにカッコいい人間にはなれない。
だけどみんながいてくれたから、こんな僕でも一つだけ、誇れることがある。
僕は一度だって、この終末の世界に、絶望したりはしなかった。
「遥ちゃん! 凛! ユウが起きた! 生きてたよぅ!」
立ち上がった僕を見て、奏が涙目で微笑む。
愛されて生きている、そのことの幸せをただ感じた。
『奏! あんたは無理しないで! 早くどこかに隠れなさい!』
カメラは今どこにあるのだろう。
映っているとするならば、こんな僕だからこそ、この世界の人達へ希望を示してあげたい。
この終末の世界で一番の幸せものは、きっとこの僕なんだから。
爪に力を込める。
フラウアのバリケードごと爪でなぞると、群がっていたフラウア人間たちは、僕の五本の指が通ったとおりに、バラバラの輪切りになった。
「ありがとう、奏。もう大丈夫だよ」
言葉と同時に、四足歩行で飛び出す。
強い風の抵抗を感じ、景色が後ろへ急スピードで流れていく。
僕の体に力を与えてくれるのは、もう単なる自分の願いではない。
決意、意思、愛。そのどれでもない。
名状しがたい僕の心の全部が今、僕の全身に力を与えてくれている。
『ユウ! バケモノの背中に飛びのりなさい! みんなに、あんたのカッコいいとこも見せてあげて!』
倒れたままもがく巨大バケモノとの距離は、一瞬でつめることができた。
その腕を、体を、凛とクロが必死に破壊し続けている。
遥に言われたとおり、僕は高くジャンプし二人を飛び越え、バケモノの巨体の背中に飛びのる。
大量の人間の死体で構成されたそれを踏みつけ、ひたすらに爪を振るった。
剥ぎ取るように、その巨体を構成する死体を、一人分ずつ引きちぎり、撥ね飛ばしていく。
高いところに、奏が伸ばしたフラウアに縛られたライブカメラで、こちらが映されているのがちらりと見えた。
『私の仲間は、絶対にあんなバケモノに、フラウアに、誰かの悪意なんかには負けないよ!』
不思議と、新しく集まってくるフラウア人間の数は、だんだん減ってきているように思えた。
都会でもなかったから、元々死体の数自体も少なかったのかもしれない。
だけどきっと、それだけじゃない。
人の悪意が集まって、このバケモノが生まれたのならば、このバケモノを地に返すのも、また人の意思であるはずだ。
『だからみんなも負けないで。こんな世界でも、きっと希望はある』
遥はこの配信で一度もリスナーに対して、バケモノを消し去るように願えとは指示しなかった。
遥がその姿を偽ってまで、人に示そうとし続けてきていた想いは、ずっと変わらず、ただ一つ。
『世界に絶望しないで! 幸せな明日を願い続けて!』
大量の死体を縛りつけていたフラウアの巨大な茎は、なんだか少しずつ細く、拘束がどんどん緩くなってきているように感じた。
宗教団体の動画を、今はどれくらいの数の人達が見ているのだろう。
たくさんの悪意は、まだ続いているのだろうか。
だけどその何万人というその視聴者のうち、いったいどれくらいの人が、いまだに心からこの世界に絶望しているのだろうか。
世界が平和だったころ、人は世界の破滅を願ってしまった。
では世界が破滅した今、人は何を願うのか。
遥の配信を見てくれている人は、きっともうわかっている。
遥の言葉に、僕たちの姿に、きっと何かを感じてくれている。
緩みきった、バケモノにまとわりつくフラウアの茎を、全力で引きちぎった。
たくさんの死体がほぐれたように、地面へはがれ落ちていく。
爪を振るうたびに、フラウアの力はどんどん弱々しくなっているように感じた。
僕たちは今、人の希望を束ねている。
もうじきこのバケモノは、人の悪意は、フラウアの茎と同じように、ほどけるように消えていくだろう。
僕たちの姿で、遥の言葉で、明日への希望を、この終末の世界に。
「ユウ! ちょっとそこ、どいてえぇ!!」
バケモノの背中の上で聞こえた、大きな奏の声に後ろを振り返る。
しっぽの毛が逆立つくらい、危険が迫っている感覚があった。
空中に浮かぶ大きな車が見えたとき、僕は猫ゆずりの反射神経をフル活用し、全力でバケモノの背中から飛び降りた。
空には巨大な金属の塊。
赤黒いフラウアの花が、絡み合うように編まれ、そこらに放置されていた車が、高く、空に持ち上げられていた。
奏、なんて過激なことを!
「わたしだって! むかつくやつに左の頬をぶたれたら! 思いっきりやりかえしてやるんだからね!」
ゆっくりと、車を持ち上げていたフラウアがほどける。
宙に浮いた大きな車が、バケモノの背中めがけて、重力に引かれ吸い込まれるように落ちていく。
「祈っているだけじゃ、誰も何も与えてくれないよ! 幸せな明日は、それを願って頑張った人のところにしか来ない!」
馬鹿げた質量での攻撃に、轟音が響く。
バケモノの首はもげ、体には車と同じ大きさの穴が開く。
強い衝撃とともに、バケモノの体を貫通した車がアスファルトに叩きつけられ、散ったフラウアの花が舞い上がる。
『もう! 無理しないでって言ってるのに! ……みんな、あれが奏ちゃんだよ。みんなも見たでしょ? 躊躇わずに誰かを守れる、世界一優しい女の子なんだよ!』
インカムから聞こえる遥の声にニマニマしながら、奏はすうっと息を吸い、マイクを口元に当てた。
「みんな、人の不幸や悲しみを願わないで! 誰かの幸せと、自分の幸せを願って生きていくんだよ! どんなつらい世界だって、きっとそれができるのが、わたしたち人間なんだから!」
崩れ落ちていくバケモノの体と、舞い上がったフラウアの花びらの中で、奏の美しい金色の髪が揺れる。