9-6
車両が横転してしまった以上、もはや自衛隊は足手まといでしかない。
仕方がない、と頭ではわかっていても、猫を殺したような人間と、一緒に仲良く行動することにも抵抗があった。
僕たちは青年たち二人の自衛隊を置き去りにして、今度は奏の車に乗り込んだ。
ミケの血液が助手席のシートに染みていくが、誰もそれに文句は言わない。
「猫のおねーさん!」
もう聞きたくもない青年の声が、助手席の窓の外から聞こえた。
「ピョンちゃん……吉岡遥が怪我をしていたら、そのまま病院へ向かって下さい! 優先して治療が受けられるよう、無線で連絡しておきます!」
猫を殺した人間が、何かさわいでいる。
だけど、次の言葉だけは少し、心に響いた。
「……偽物だとしても! やっぱりあの人は、この世界でただ一人のアイドルなんです! 俺は、自衛隊の意見なんか、本当は糞食らえだと思ってます! お願いします、オレたちのピョンちゃんを、助けてやって下さい!」
「ユウ、もう泣かないで? 今は、遥ちゃんのことだけ考えよう?」
運転席から、奏が僕を気遣う声がした。
いつの間にか僕は、涙がこぼれて止まらなくなってしまっていた。
奏も凛も、優しく、苦しく、悲しい匂いをさせている。
僕の周りの人達は、本当に優しい。
奏も凛も。そして遥も。
僕の腕の中で体温が消えていくミケも。それを殺した自衛隊の青年も。
揺れる車内で、涙がおさえられない。
誰もが優しくて、だからこそ、この世界はあまりにも悲しい。
今このときにも、またたくさんの命が失われている。
だけど遥だけはせめて無事であって欲しいと、ただひたすらに祈り続けた。
何度か送り迎えのときにだけ見ていた、ソーラーパネル付きの遥の家の前で、奏の車が止まる。
「……よく考えれば、一度も遥の家に入ったことはなかったんだな。迎えのときも、送るときも、いつもこの家の前だった」
飛び出すように車を降りた凛が、懐中電灯のスイッチを入れながら、二階建てのその家をぼんやり見つめて言った。
玄関の扉には当然鍵がかかっていたが、凛が強引に鍵を破壊し、扉ごと外して簡単に中に入ることができた。
懐中電灯の光で、一階の奥には埃がかぶっているのが見える。
フラウアの花びらがいくらか床に散っていた。
もう誰も使っていなかった家みたいに、そこには人の生活感が感じられなかった。
遥の匂いは、二階から感じられる。
併せて鼻に届いた血の匂いは、腕の中のミケのものだけであって欲しかったが、そうではないことも、僕にははっきりとわかってしまった。
初めて入る遥の家の暗闇からは、僕たちの足音と息遣い以外に、何の物音も聞こえない。
僕の嗅覚を頼りに、遥を探して薄暗い階段を登っていく。
足音だけが響いて、誰も口を開かない。
二階の奥の部屋の扉の隙間からは、うっすらと照明の明かりが漏れだしていた。
遥の匂いも同じくそこから強く感じられる。
その明かりが見えたとたんに、奏が走り出し、ドアを開けた。
血の匂い。
崩れた家具。割れた窓ガラス。
倒れ、血に濡れた偽物のアイドル。
目にうつる光景に息をのんだ。
その部屋は、壁中や天井中に、本来のウサ耳のアイドル、兎原ピョンのポスターが張られていた。
部屋の中には、あらゆるところに、ウサ耳の美少女の、フィギュアや、グッズが並んでいる。
そして床には、見苦しいほどに、たくさんのゴミが散らばっていた。
空になったペットボトル。
のど飴の袋。
そして足の踏み場もないほどに、大量の紙が散らばっていた。
びっしりと文字が書き込まれた紙が。
◇◇◇◇◇
ここで一秒あける。
『じゃ、今日はネットでリクエスト貰った曲から歌っていくぴょん!』
ここから声のトーンをあげる。
『アンタたちいっぱいリクエストありがとね! 元気そうな奴らも多いみたいで、あたしも嬉しくなったぴょん!』
ここで手を叩く音を。
◇◇◇◇◇
散らばったその紙は全て、原稿だった。
一字一句、間のとり方まで、遥の行ってきたラジオ放送のその全ては、事前に文字で書き起こされていたのだと気づいた。
「……遥! 私だ、凛だ! 頼む返事をしてくれ! 遥!」
明かりが付いたままのパソコンの近くで倒れた遥は、頭から血を流したまま動かない。
天井や壁に張られたポスターの華やかな笑顔とは違い、疲れきり、そして負傷して意識を失ったウサギハラの姿。
いったいどれだけの想いで、彼女は放送を続けてきたのだろう。
あの兎原ピョンが生きている。
リスナーにその偽りの姿を信じさせるため、兎原ピョンになりきるための原稿を、毎日、ひたすらに作り続け、きっと何度も練習を重ねて、放送を繰り返してきた。
荒れ果てた部屋の中、偽りの兎原ピョンとして、全てを捧げて戦ってきたその結果が、今僕たちの前で傷つき、倒れている。
「嫌……遥ちゃん! 起きて! 嫌だよ、お願い、起きて!」
奏の悲鳴のような呼び掛けにも反応がない遥からは、命が離れていく、終わりの匂いがした。
ちょうど僕の腕の中にいる血まみれのミケからも、ほとんど同じ匂いがしている。
『……ありがとよ、ハチ』
腕の中から、ミケの最期の鳴き声がした。
まだ息があったことだけでも奇跡だと思えるくらい、すでにミケの体は冷たくなっている。
『もう何も見えねえが、遥の匂いがする……。ずっと、ここに帰りたかったんだ』
僕はミケの血まみれの体を抱いたまま、目を開かない遥の顔のそばに、ゆっくりと近づけた。
もう動かないけれど、ミケがそれに喜んでいることは、匂いではっきりとわかった。
せめて遥が、目覚めてくれれば。
ミケの想いが、報われてくれれば。
だけど遥もミケも、もう動かない。どちらも、呼吸の音さえ聞こえない。
僕たちはほとんどそのとき、あきらめてしまっていたのだと思う。
だけどその血まみれの猫だけは違った。
遥への想いと、純粋な願いの力だけで、この瞬間まで、命を繋いできたミケは。
〈クソみたいな花よお、これが最期の願いだ。……オレの全てを捧げる。オレの下僕を、遥を、助けてくれ〉
僕の腕の中で、ミケの体が急激に熱くなる。
割れた窓から、風もないのに、フラウアの赤黒い花びらが吹き込んだ。
腕に感じる三毛猫の重さが、どんどん減っていった。
ミケの三色の毛が、肉が、残りわずかな血液が、全て消えていく。
数秒後、僕の腕の中に残ったのは、あまりにも白く美しい、猫の白骨だけだった。
それは、かつて僕にその命を捧げてくれた、ハチの亡骸と全く同じ状態だった。
ふと気づいたときには、もう遥からは、死の匂いは消えていた。
耳を澄ませば、ゆっくりとした息遣いの音が感じられる。
ただしその彼女に、さっきまでの兎耳はもうない。
そこにいるのは、三色に分かれた毛色の、猫耳姿に生まれかわった美女。
静かに寝息をたてるその美しい姿と、再び灯りなおした、命の鼓動が。
9章は以上です。
次章からこのお話最後のサバイバルが始まります。
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