1-4
◇◇◇◇◇
また、夢の中だ。
死んだはずのハチが僕の横にぴったりと寄り添い、こちらを見つめている。
「ハチ、ごめん。ごめんな、助けられなくて、ごめん」
ハチはゴロゴロと喉を鳴らしながら、僕の足に自分の額をこすりつける。
「ハチ、寂しいよ。もう一緒にあの家で暮らせないなんて。本当にごめんな。僕がもっと、しっかりしていれば。本当にごめん。ごめんよ。ごめん」
ハチは首の下に生えた、マフラーみたいにふわふわした白い毛を、繰り返しペロペロと毛繕いしている。
「ハチ、ごめんよ。僕なんかのために。本当にごめん」
ハチは急にこちらをふり返り、一度身を低く構えると、ぴょんと高く、僕に向かって飛びかかってきた。
ぶつかった、と思ったけれど、その感触はない。
あわてて自分の手を見る。
猫のように鋭い爪。腕から手の甲まで生えた白と黒の毛並み。
ハチと自分の体が混ざって、猫のような人間が生まれた。
高い鳴き声が聞こえる。
ハチの声。
『仲間を頼む』
ハチの言葉にならない声が聞こえた気がした。
この新しい体を通じて、ハチの願いが伝わってくる気がした。
◇◇◇◇◇
目を覚ます。ハチの鳴き声は、もう聞こえない。
「良かった。気がついたみたいだな」
暗い部屋の中で、親友の凛が真上から僕を見つめていた。美しい黒髪が、僕の顔をくすぐる。近距離にその整った顔があって、少しどきりとする。
僕が体を起こそうとすると、あわてて凛はそれを抑えつけた。
「待つんだ。お前は全部で一週間以上眠っていたんだ。急に起き上がったら、またさっきみたいに倒れるぞ」
凛はいつも通り男みたいな言葉遣いで、だけど優しく小さな声で、僕の耳元で注意を促した。
声を抑えているのは、夜のようだから、周りの誰かに気を使っているのだろう。
「凛、やっぱり来てくれたんだね。無事みたいでよかった。心配かけてごめんな。そっちは怪我は無かった?」
僕の声はやっぱり、夢の中のハチの声と同じ、猫の鳴き声か女の子のような声になってしまっていた。
夢の中と同じように自分の手に目をやると、やはり猫みたいに鋭い爪と、白と黒の毛に覆われた腕が見えた。
「地震のとき、私は広いグラウンドにいたからな。何かの下敷きになったりはしなかったよ。出入口が崩れてしまっていて、少し手こずってしまったが、怪我はない」
凛は僕のベッドの端に腰掛けて、病室の奥を見ながらそう答えた。
凛の視線の先には、簡易ベッドで眠る奏の姿があった。頭には、痛々しく包帯が巻かれているのが見える。
夜の闇の中でも、僕の目は不思議なくらい、周りを見通すことができるようだった。
「ごめんな凛。奏にはひどい怪我をさせちゃった」
凛はベッドに横になった僕の顔を見て、その整った顔を崩してクスクスと笑った。
「奏は頭と足を何針か縫った。特に足の傷は深かったようだが、誰かさんがすぐに止血してここまで連れてきてくれたのが幸いしたらしい。輸血は必要だったが、後遺症が残ることもないそうだ。まだ歩くのは無理みたいだが、今日はもうピンピンして暇そうにしていたぞ」
「そっか……良かった。僕のド根性が、今回は役にたったみたいだね」
根性の問題ではなく、おそらくあの赤い花、フラウアの力が良い方向に作用しただけだが。
それでも、奏が無事ならなんだっていい。
少しずつ、ゆっくりゆっくり体を起こしていく。凛がすぐに気づいて、体を支えてくれた。
「地震とあの花の影響で、あの日救急車は全く病院から出られなかったらしい。私も、病院までたどり着くのに、丸一日以上かかったんだ。……お前が奏を運んでくれなかったら、たぶん今頃、奏はここにいなかっただろう。」
凛の手を借りて、僕はようやく上体を起こすことができた。
凛はこちらをしばらく見つめて、一度目を伏せて、そして力強く僕の体を抱きしめてくる。
柔らかい、優しい匂いがした。
「一応聞くが、お前はユウなんだよな? 声も見た目も、半分ハチちゃんみたいになってるのに、自分の体のことなんてまるで聞かないで、私と奏のことばかり気にして。こんな奴、ユウ以外にいないだろう?」
僕を抱きしめたまま、凛の声は震えていた。もしかしたら、少し泣いてくれているのかもしれない。
その凛からは、ずっと僕を気遣うような、優しく暖かい匂いがする。
「いつも心配かけてごめんな、凛。僕はもちろんユウで間違いないよ。でも、僕はハチでもあるのかもしれない。……夢の中で、ハチが言ってた。僕も本当は、怪我で死ぬはずだったから、ハチが僕と混ざってくれて、二人分の命で、ここまで歩いてこられたんだと思う」
凛の手が、そのまま僕の頭を撫でる。指が猫耳に当たり、少しくすぐったい。
背中に回された凛のもう片方の手が、僕のしっぽに触れてゾクリとした。
……しっぽ? 僕、しっぽまで生えてるのか。
「……ユウはもっと、自分を大事にしろ。フラウアが庭に咲いたときもそうだ。具合が悪いなら、さっさと私たちに助けを求めればいいんだ。弱っちいくせに、いつも無理ばっかりだお前は」
僕も、鋭い爪をなるべくたてないように、手のひらを凛の黒髪のうえにポンと置いた。
しばらくしてから、凛はなにやらボードに書き込みながら、僕にいくつか質問をしていった。
地震のあと避難してきた人たちは、こうして個人情報などの記録を付けているらしい。
僕は凛から渡してもらった水を、体に慣らすようにちびちびと飲みながら、住所やら連絡先やらを答えていく。
ただし連絡先といっても、持っていたはずのスマホは衣服と一緒に失ってしまったのだけれど。
「よし、これで全部書けたぞ。一応性別は男性にしておいた。まあ、もうその体では、女性と扱われるのはどうしようもないだろうが。……しかしあれだな、身内の欄に誰も書く相手がいないというのは、なかなか寂しいだろう。どうだ、配偶者の欄に、私か奏の名前でも書いておいてやろうか」
朝日で少しずつ明るくなり始めた病室で、凛は一人でクスクス笑っている。
一応、僕も奏も命には別状が無かったためか、凛は少し機嫌が良さそうに見えた。
凛は普段、あまり周りの人に気を許さないし、冷たい印象を与えていることが多いのだが、僕と奏のことだけは、どうしてか大切に思ってくれているらしい。
理由は聞いても、いつもはぐらかされるけれど。
のんびりとしている凛に、しかし僕は、伝えなければいけないことがあった。
「ねえ凛。奏が起きたら、僕は一度家に帰るよ」
凛は少し動きを止める。
急に険しい表情になって、こちらに目を合わせようとしなくなる。
そのとき、外から何かが弾けるような、鋭い音が響いた。
自分の猫耳が、音に反応してピクピク動いているのが自分でもよくわかる。
凛の反応がないのでしばらく黙っていると、その破裂音はまた何回か続いた。
「ユウ、残念だが諦めてくれ。まだ説明していなかったが、外は危険なんだ」
断続的に破裂音は続く。
「……さっきから聞こえているこの音は、自衛隊の銃声だ。この病院は、自衛隊が守ってくれているから今のところ安全なようだが。……お前が寝ていた間にラジオで言っていた。今この日本で、生き残っている人間はもう1000万人を切っているらしい。地震の被害だけじゃない。外は、凶暴化した生き物が暴れまわっているんだよ」
銃声はまた何度か続いて、そして聞こえなくなった。
「ねえ凛。僕はそれでも、一度家に帰りたい。ハチが夢で言っていたんだ。仲間の猫たちを頼むって。……それがハチの願いなら、叶えてあげたい」
僕の体と命の半分がハチのものであるならば。ハチが僕の大切な家族であったのならば。絶対にその願いは叶えてあげたい。
フラウアの花は、生き物の願いを叶える。
例えば僕とハチが願ったように、命をふり絞るような強い願いを。
だけどこの世にいないハチの願いを、フラウアはもう追加では叶えてくれないだろう。
だから、その願いは僕が叶えなければならない。
ましていかがわしいフラウアの花なんかに、大切なハチの仲間の命を託すわけにもいかなかった。
凛は立ち上がると、奏が眠る簡易ベッドのそばに行き、その奏の頬を撫でた。その表情は、こちらからでは見えないけれど、緊張したような、少しピリピリした匂いがした。
「……人間が飼っていたペットや、野生の鳥。猫もそう。そういうのが巨大化、凶暴化している。私もこの病院に着くまでにいくらか襲われた。……それだけじゃない。人間もなんだ。たぶん、元は人間だった何かが、フラウアと一体化して、そこらを徘徊している。私もこの目で見た。……外は危険なんだ。しばらく様子を見るべきだ」
バケモノが蠢く世界。にわかには信じられない話だが、凛はこんなときにつまらない嘘をつくような奴じゃない。
ベッドの脇にある窓から外を見ても、いつもの街並みを覆い隠すように、フラウアのオレンジ色と赤黒い色が混じった花びらが、そこらじゅうに見えるだけだった。
気味が悪い風景なのは間違いないが、頭の理解は追い付いていかない。
猫人間になった自分の体といい、バケモノの話といい、急にゲームやアニメの世界に来てしまったような気分だ。
「見ろ。これがそのバケモノだ」
凛は取り出したスマホを操作して、こちらに写真をみせてくる。
よくできたCGとしか思えないような、醜悪な形をした怪物の潰れたような死体が、そこにはいくつも写っていた。
正直、寒気がした。
外は地震の直後より、よほどひどい状態になっているみたいだ。
自分のしっぽの毛が、恐怖にぶわっと膨らんでいるのが感じられる。
でも僕は、それでも。
「もしその話が本当なら、なおさら行かなきゃならないんだよ。猫たちみんな、きっとお腹を空かせているだろうから」
僕がバカみたいなことを真剣に言うと、凛はしばらく黙ったあと、どっかりと奏のベッドに座り込んだ。
振動に、奏が眠ったまま身じろぎしている。
「本当なら、力ずくでも止めるべきなんだろうけどな」
凛はようやくこちらに目を合わせて笑った。
「猫のために命をかけるというのも、まあ、ユウらしいか。……仕方ない、私も同行するよ」
凛は奏のベッドのそばに置かれていた大きなバッグから、たぶんソフトボールの大会からそのまま持って来たのであろう金属バットを取り出し、高く掲げた。
「まあ、私がついていればなんとかなるだろう。……なにせ私は、バケモノどもよりだいぶ強いみたいだからな」
凛の金属バットには、緑やら赤やら、ぎょっとするような色のシミがいくつも付いていた。
さっき凛がこちらに見せてきたバケモノの死体の写真。
その死体はどれも、銃や刃物ではなく、鈍器で殴り潰されたようになっていた。
例えば、この金属バットで滅多打ちされたような姿に。