9-3
「……また、明日来ます。こんな話、本当にすいません。俺たちは、吉岡遥を一度拘束して、事情を確認するよう、上から指示されています」
しばらく、呆然としている僕たちを見て、自衛隊の青年は立ち上がった。
でも、何が、何だって?
遥が、何を?
何も動けないでいる僕の前に青年はかがんで、僕にしっかりと目をあわせ、ゆっくりとした声で話してくれる。
「気をつけてください。もし今の兎原ピョンちゃんの正体が、本当に吉岡遥なのだとしたら……一体、何が目的であの姿を乗っ取り、あのラジオ放送をやってるのか、自分たちにもさっぱりわからないんです」
〈やっほーみんな! 今日も元気にサバイバルしてる? 兎原ピョンだよ! 今日もこれから一時間ちょっと、明るく楽しく放送していくぴょん! 暇なやつは、ちゃんと最後まで聞いていけよなぁ!〉
自衛隊が帰り、夜のラジオ放送が始まるまで、僕たちは何一つ会話をしなかった。
食事も、今日は食べる気がしない。
ただ、祈るように三人で、遥の放送を待ち続けていた。
〈それでさあ、あたし、一つリスナーのみんなに協力してもらって、やりたい企画があるんだぴょん!〉
死んだはずの兎原ピョンが、明るい声で、いつも通りに。
〈ネットでも色々言われてるとおり、フラウアってさあ、きったねぇ色してるけどさあ、うひゃひゃ! でも人の願いを叶えるってのはさあ、ほんとっぽいじゃない?〉
吉岡遥が、偽りの兎原ピョンとして、今日も楽しい放送を。
〈だからさあ、明日の18時ジャスト! いい? 18時ジャストだよ? この放送で呼び掛けるからさ、みんなであたしの号令に従って、気持ちを一つにしてみようよ!〉
何もわからない。
彼女の心は、いつも僕の嗅覚では読み取れなかった。
それはたぶん、ウサギだから、ではなかったのだ。
彼女の複雑すぎる心が、僕には理解できていないだけだったんだ。
〈あたしがやりたいお願いごとはさ……フラウア、無くなれ! ただ、これだけだよ……ぴょん〉
遥はいつも寂しそうな表情をするとき、語尾にぴょんは付け忘れていた。
本来の遥を、僕はどうしてもっと知ろうとしてあげなかったんだろう。
裸で一緒に眠る彼女の寝顔が、自分の家に戻るときの少し寂しそうな瞳が、頭をよぎる。
こんなに遥を愛しく感じているのに、僕たちは彼女のことを何も知らない。
知ろうともしていなかった。
〈全部は無理でもさあ、このラジオが繋がる日本の、人が住んでるような場所だけでいいからさあ、フラウアにいなくなってほしいんだよね〉
今、遥はどんな表情をしているのだろう。
こんな終末の世界で、ただ一人、誰の反応も聞こえない放送を、ただ一人で、毎日、毎日、ずっと彼女は。
〈みんなも色々思うところはあるかも知れないけどさ、ちょっと明日、あたしに協力してみてよ! ね、アンタたちのこと、期待して待ってるぴょん!〉
目をつむっても、全然眠くならない。
発情期の衝動も、すっかり忘れてしまうくらいだ。
考えても考えても、何もわからない。
遥の声が、偽物の兎原ピョンの声が、ただ続く。
〈あたしはさ、フラウア、嫌いなんだ。もう、見たくないから。……だからお願い。みんな、私を、助けて〉
「さあ、おねーさんたち。昨日の放送も聞きましたよね? ……あまり猶予はないっす。今の兎原ピョンちゃん、いや吉岡遥に、俺たちを会わせて下さい」
翌日、自衛隊の青年が夕方にやってくるまで、僕たちは何の結論も出すことができなかった。
遥には、自衛隊がまた今日も来る、とだけメッセージで伝えておいた。
他に何を言えばいいのか、何も、わからない。
ただ、遥のことは、ネットで簡単に調べはついた。
元Vtuber、猫田ニャン子。
それが自衛隊からもらったリストにあった、吉岡遥の本来の登録名だ。
兎原ピョンと同じ事務所の、ほぼ同時期に加入したメンバー。
だが、配信されてきた動画の中では、兎原ピョンとの深い交流はあまり多くなかったようだ。
悪く言えばありきたりな、今の僕に似た猫耳姿のビジュアル、そしてあまり特徴のない声やキャラクターで、ファンの数は、同じ事務所のメンバーの中でも最下位。
当時最も人気があったとされる、兎原ピョンの半分にも満たない。
無理なスケジュールや、過激すぎた内容での配信活動がたたり、体調を崩して引退。
実質的に、事務所をクビになったのだという噂すら見つかった。
こんな田舎町に住んでいたのも、引退後に本籍地、つまり実家へ帰ったからだとすれば納得がいく。
Vtuberとなる前も、同じ動画サイトで、ハルカキャンプ、というチャンネルで活動していたことが特定されていた。
女性的な魅力を全面に押し出し、キャンプ関係の動画配信を行っていたらしいが、こちらもあまり多くのファンの支持は受けていない。
たぶんこの頃の影響で、僕たちに提供してくれたポータブルのアウトドア用ソーラーパネルを保有していたのだろう。
焚き火が妙に上手だったのも、説明がつく。
これが、ネット上に散らばっていた、吉岡遥の情報だ。
調べれば調べるほど、あまりにも、今の遥から受ける印象と、かつての遥の姿が、かけはなれているように感じた。
明るく、華やかに輝く兎原ピョン。
冴えない、憐れな吉岡遥。
彼女は今、どんな気持ちで、兎原ピョンとして生きているのだろう。
「ユウ、奏……私はこの件、自衛隊に任せるべきだと、そう思う」
凛が縁側で靴を履きながら切り出す。
彼女もきっと、そんなことを言いたくはないのだろう。
揺れる長い黒髪から、苦しくて、悲しくて、泣き出しそうな匂いがする。
「……なんで? わたしは嫌。あの子は私たちの大切な仲間じゃないの? 本名とか正体とか、どうだっていいよ。わたしは遥を信じたい」
奏はもう、ずっと泣き続けている。
彼女がそう言うだろうということは、聞かなくてもわかっていた。
「私だって、信じているさ。……だが、だからこそ、第三者の目で確認してもらうべきだ。私たちはもう、遥の身内になりすぎている」
凛は僕たちから目をそらし、自衛隊の車の方に進もうとしたが、奏がびっくりするくらいの剣幕で立ちふさがり、凛の肩を掴む。
「それで!? 遥が自衛隊の人達に何もされない保証はあるの!? ラジオだって、無理やり自衛隊に命令された内容しかしゃべれなくなるかも知れない。わたしたちだって、もう会わせてもらえないかも知れないんだよ!?」
僕は、何も言えなかった。
いまだに、遥のラジオの声が、頭の中をぐるぐるまわっているみたいだった。
凛が思い詰めたような表情で、ため息をつく。
「私は……。私の最優先は、ユウ、奏。お前たち二人だ。お前たちは、私にとって家族以上の大切な存在で、誰より信頼できる、自分の命より大切な二人なんだ」
凛の心は、強い意思で固められている。
凛も遥のことが大好きなのは、僕たちもわかっている。
だけど彼女は、自分の気持ちをおし殺すように、拳を強く握りしめていた。
「今は遥のことが、私には理解できない。私は、お前たち二人を守る。あいつが危険だと、そういう可能性があるのなら……もう、お前たち二人を、あいつに会わせるわけにはいかない」
凛は片手で奏を突き飛ばした。
もちろんそれは、優しく加減されたものだったが、動揺した奏は尻餅をついて、わーわーと声を上げて泣き出した。
奏も、迷っている。
遥のことを信じたいけれど、凛の言うことの正しさもわかる。
遥の現在の行動を一言で表すなら、狂気、という言葉が最もしっくりくる気がした。
彼女は今、何を考え、何を願っているのだろう。
「今日のピョンちゃん……いや、吉岡遥の放送は、特に危険です。リスナーの思想を統一させて、フラウアを消す。確かに面白い考えっすけど、何が起こるかわかりません。考えていることは、ほとんど危ない宗教と同じっす。……まず、俺たち自衛隊に、彼女を確保させて下さい」
自衛隊の青年が、しびれを切らして言った。
宗教と同じ?
それは違う。
自分の心が、ようやく動きだした気がした。
こんな終末の世界でただ一人。
この世界に絶望してはならないと、そう彼女は言うのだから。
それでようやく、僕も覚悟が決まった。
「どうだっていいよ」
遥は僕にはじめて会った日、なぜ僕に、本当の名前、吉岡遥を名乗ったのか。
田中なんとかだと、兎原ピョンの中の人の名前を言えば良かったはずだ。
もっと適当な名前でも、なんでも良かったはずだ。
なのに、なぜ。
「遥は僕たちの仲間だ。恋人だ。尊敬する人だ」
僕は庭を歩き、自衛隊が停めた車を通りすぎ、庭の入口に立って、みんなの方を振り返った。
きっと遥は、僕たちに助けを求めていたんだ。
本当の自分自身を、誰かにわかってほしいと、悲しさや寂しさに気づいて欲しいと、ずっと願っていた。
もしかしたら、本当は全然違うかもな。
でも、もういい。
遥は仲間だ。僕たちの大切な。
僕の縄張りの仲間が、ずっと僕に助けを求めていたのかも知れない。
違うのかもしれないけど、そうかもしれない。
だったら、僕と、この体に眠るハチの願いは一つだ。
「世界がどうなろうが、遥が何を考えていようが、そんなのどうだっていい」
爪を伸ばす。
自分の心を、願いを、身体中に伝える。
道路のフラウアが変色を始め、花びらが低く舞う。
ハチの魂が、フラウアの力を触媒にして、僕に力を貸してくれる。
「ユウ、理解してくれ。……お前と殴りあいなんて、させないでくれ」
凛が僕を見つめ、そしてゆっくりと身構えた。
ただ、悲しみの匂いがする。
こんなことはしたくないと、そうお互いに願っているはずなのに、こんなときに限ってフラウアは応えてくれなかった。
「……遥は自衛隊に会いたくないってさ」
願いを、力に。
ただ自分が願うままに。
終末の花が、自分自身の願いが、僕の体をまた作りかえていく。
「僕にはそれだけで充分だ。……僕は絶対、遥を誰にも渡さない」