8-3
『……一人でここまで来るのは、怖かったでしょう? ここに座ってゆっくりなさって下さいね』
凛のインカムから入ってくる知らないおばさんの声や物音を聞く限り、とりあえず建物への潜入には成功したことは伺えた。
「ねーねー凛ちゃーん?」
息を潜めるようにして僕たちが隠れているなかで、奏がニタニタしつつ、インカム越しにいたずらをはじめる。
「凛は、今日はどんなパンツ履いてるのかなあ? ほら、神様の前でエッチな凛ちゃんを見せてみて?」
『……んっ!? んん! ん!』
凛の咳払いでの抵抗に、思わずこちらまで笑ってしまった。
「アンタたち、真面目にやるぴょん! バレたらアイツが何されるかわかんないんだよ?」
遥はウサ耳をピクピクさせながら怒って言うが、奏はクスクス笑うばかりだった。
『では皆さま、お待たせいたしました。本日も神父からの講演をはじめさせて頂きます』
何やらマイクまで使ったしっかりめなスピーチが始まるようだ。
『ん。皆さん、こんにちは。おや、本日も新しい方の顔がありますね。良いことです。……ではせっかくですので、今日は改めて、最近の世界の状況についてお話したいと思います』
中の雰囲気は分からないが、少なくとも周りから無駄話は聞こえてこない。
静かな部屋のなかに、誰かのスピーチが続いている。
『今我々の世界は、この日本だけでなく、各国で崩壊が続いています。すでに多くの方々が命を落としました。これは非常に悲しいことです』
「……やっぱ宗教の話ってつまんないぴょん。スピーチのつかみ下手くそすぎだし。声も眠くなりそう。あたしたちVtuberの爪の垢でも無理やり飲ませてやろうか」
遥は本当につまらなそうにあくびをして、隠れている居酒屋入口の階段に座りこんだ。
『ですが一方でこうして、今生きている私たちが協力しあい、一日一日を暮らしていくことができている。これもまた、神が我々に与えた試練であり、そして我々がそれを乗り越えていくことができるという、証そのものであります』
「ばかじゃん? 神様なんか絶対いないしぃ? 試練とかいらないしぃ?」
奏はふざけた言い方でバッサリと切り捨てながら、すでに話に興味をなくして、こっそり僕の太ももをなで始めた。
嫌ではないが、さすがに緊張感がなさすぎる。
『この世界に生き残り、神に選ばれた我々は、その意味をしっかりと理解しなければなりません。今誰もが抱える悲しみの中でも、それに打ち勝つ必要があります』
何やらずっとスピーチは続くが、さっぱり何を言いたいやら分からないし、興味もわかない。
春の陽気はなんだか眠気を誘ってくるし。
そうなると、とりあえずの僕の心配ごとは一つだけだ。
「凛、聞こえてるかな? あの、つまんないけど、眠っちゃダメだよ? 帰ったらいっぱい良いことしてあげるから、頑張って!」
凛からの返事はないが、起きてるよ、とばかりに、インカムをコツコツと爪で弾く音がかえってくる。
頑張れ凛。大学の講義でもよく居眠りしていたのは知っているけど、今はダメだよ!
「あんたら、緊張感ってものがないぴょん? 心配するところがおかしいからね?」
遥が呆れたように言ってくるが、奏はクスクス笑って返し、遥の横にぴったりと座りこんだ。
「大丈夫大丈夫。凛がそこらの男に力技でどうこうされるなんてあり得ないし。あんなにかわいいけど、わたしたちの王子さまみたいな人なんだから。とりあえず信じてのんびり待とう?」
奏にウサ耳をさわさわされて、遥はちょっと嫌そうに眉をひそめている。
『……ところで、皆さまに少し良いお話と悪いお話があります。先日から何度かお話しているとおり、ウサギハラピョン、という名前をご存知の方は多いのではないでしょうか。最近毎日、夜にインターネットのラジオ放送を行っていらっしゃる方の名前です』
おや!?
いきなり出てきた名前に、僕たちは顔をあわせ、ようやくしっかり音声に集中し始めた。
『実は私も何度かその配信を聞かせていただきました。……彼女は、素晴らしい。今を生きるこの我々に、希望や、生きる活力を与えるかのような放送を行っています。……まるでかつての救世主様のよう振る舞いだと、私は感動いたしました』
「な、なにコイツ急に。あたしのファンなわけ? ちょっと嬉しいよりも、キモいぴょん……」
遥は微妙な表情のまま、インカムからの音声に聞き入っている。
よく見るとウサ耳なので、骨伝導のイヤホンを使用しているようだ。
引っ掛かりになるはずの通常の耳もないので、手でうまくイヤホンを押さえながら使っている。
『彼女の放送に感銘を受け、我々の本部からも連絡がありました。なんと、明日の正午より毎日、我々の教義をとく放送を、同じくインターネットのラジオ放送にて開始いたします。後ほど皆さまには資料をお渡ししますので、ぜひ周囲の方々にもおすすめしてみて下さい』
「えっ!? 絶対つまんないやつじゃんそれ! やっぱりこいつら頭おかしいよ!」
残酷すぎる奏のリアクションに、僕も遥も少し笑ってしまう。
だけど遥はすぐにウサ耳を少し垂れ下がらせて、眉間にシワを寄せた。
「でもちょっとまずいぴょん。今は避難所にいる人たち、娯楽がないからね。みんな簡単に、アイツらの思想に染められちゃうかも……」
『そしてその本部から正式に、もう一つ通達がありました。ウサギハラピョンへの誹謗中傷、ましてや殺害予告、神の名を騙ったこうした行為の一切を禁じる、というものです』
え?
本題だった遥の件の話が聞けたのは本当にラッキーだったが、ちょっと思っていたのと違う。
遥の方に目をやると、いや知らない知らない、とばかりにあわてて手を振ってきた。
『その方の放送の中では、我々のような団体の活動を非難するような発言、神を否定するような言葉が多く繰返されています。この点は非常に悲しいことですが、神のご意志に触れることができていない者の発言であると考えれば、やむを得ないところです』
なんだろう。何か腹の立つ言い方。
遥もイライラした感じの表情で黙っている。
奏も気を使ったのか、その遥の頭を撫でようとしていたが、すぐに手を払われてしまった。
『特にその方は、肉体も怪物の姿に変異してしまっているとのこと。神に愛されなかった者が、我々の活動に対し否定的になることは、残念ですが理解もできましょう。我々は今こそ、そうした者たちへ寛容にならなければなりません』
僕も病院を出るときに言われてしまったように、こいつらの中では、僕や遥のようにケモケモしてしまった人間は、バケモノ扱いされているみたいだ。
まあ、別にいいけどさ。
奏や凛のようなパターンはどう思われてしまうのだろう。
どちらも見た目はさておき、僕よりよっぽど不思議なパワーを持っているわけだが。
まあそれも、こいつらからどう思われていようが、別にいいけど。
『しかしそれでも、神の名をかたり、争いごとをはじめることは、許されざる振る舞いです。今回は一部の信者が独断で行ったことではありますが、皆さまも肝に命じて下さい。神のご意志は、フラウアの力を介して世に現れます。神のご意志とは、決して我々が推し量れるようなものではありません』
しばらくその後もつまらない講演が続き、それが終わるころにはすっかりトイレに行きたくなってしまっていた。
先日100円ショップで見つけていた携帯トイレをポーチに忍ばせていたので、これ幸いと使用してみたが、おしっこの音は普通に響いてしまうし、その後の袋の処理にも困るし、散々な結果だ。
僕のそんな姿を奏はこそこそ見ていたらしく、戻ってくるなりニヤニヤ笑いで迎えられてしまった。
僕がごそごそやっているうちに、凛も同じく催したのか、トイレを借りたらしい。
扉が閉まり、鍵をかけるような音に続いて、深いため息がインカムから聞こえた。
『……なあ、もう私、帰っていいよな? 何もしてないのに情報は手に入ってしまったし、心底眠かったぞ……』
凛のスパイ活動のおかげで欲しい情報は手に入ったわけだが、期待していたようなワクワクイベントもなく、凛はすっかり意気消沈しているようだった。