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◇◇◇◇◇
私はこの人間のことを愛している。
年老いた人間のメスに拾われたとき、私は人間というものを決して好きではなかった。
人間は、たまに食べものをよこしてくれるやつもいるが、大抵はクズだ。
道路ではいつもでかい鉄の塊をすごい速さで動かしていて、私の仲間も何人かそれで殺された。
私たち猫をしつこく追い回してくる連中もいる。
捕まった兄弟たちは、未だに行方も知れない。
怪我をして弱った私は、そのまま死を覚悟していたが、年老いた人間のメスが私を拾いあげ、食べものや水を与えてくれ、暖かく安全な寝床を得たおかげで、なんとか生き長らえることができた。
この人間は、そんな私のことを、ずっと近くで見ていた。
最初、私はこの人間のことがあまり好きではなかった。
メスのような見た目をしているくせに、匂いや声はオスのものだ。
私の方をいつも少し笑いながら見ていて、何を考えているのかわからない。
年老いた人間のメスは死ぬ直前、私になにかぼそぼそと話していたようだった。
私に人間の言葉はわからない。
だけど、不思議と意味は分かった。
あの人間の、メスみたいな顔のオスと、仲良くすること。
人間のことはよくわからない。
よく私の縄張りまで遊びにくる仲間たちに聞いても、誰もピンとくることは教えてくれない。
あの人間は、私にハチという名前をくれた。
食べものや水を毎日きちんと与えてくれるから、信頼できることは確かだ。
あの人間を見ていると、無性にそばにいたくなる。
あの人間の匂いを嗅ぐと、無性に撫でて欲しくなる。
みっともない赤い首輪を無理やり付けられても、その気持ちが変わることはなかった。
近所の仲間たちのリーダーであるクロが、ある日私に言った。
『それは、愛というものかもしれない。俺たちが子作りの際に感じるような想いを、飼い猫は人間に対しても感じることがあるらしい。相手が大切で、大事にしたいという想いを、人間は愛と呼んでいるそうだ』
その言葉は、すんなりと私の心に入ってきた。
私は、この人間を、愛しているのだ。
クロやシロ、仲間たちのことはすごく大事だ。
だが今は、この人間のことが、私には一番大切で大事だ。
この人間の周りには、よく二匹の人間のメスがやってくる。
ハーレムを形成しているということはこの人間、人間の中ではなかなか優秀なのかもしれない。
私の仲間たちも、こいつには懐くものが多いようだった。
リーダーのクロも、まだ小さなシロも、こいつをいくらか愛しているのかもしれなかった。
嫌な色の花が増えて以来、体調を崩す仲間が多い。
そいつらは、花から妙な匂いがすると言っているが、私にはよくわからない。
この人間も、どうやら同じように具合が悪そうだ。
よくこの家に来る人間のメスのうち一匹も、少し具合が悪そうな匂いがしたが、それを隠して私の縄張りから花を片付けてくれた。
そして今日はそいつが、クロと私におやつもくれている。
この人間も、悪いやつではない。
もう一匹の人間のメスは、私と同じで、全くこの花の匂いを感じていないようだったが。
この花のことは、なんとなくわかる。
体調を崩しているやつらは、自分の何かに満ち足りていない。
自分自身を変えたいと、過ぎた願いをもつ奴らが、私たちの仲間も人間も、花の影響を強く受けて体調を崩している。
クロは、縄張りを維持し、近くの仲間たちを守るため、もっと強くなりたい、と願っている。
シロは、この人間や私ともっと仲良くなるため、もっと美しくなりたいと願っていた。
クロはいつも通り気丈に振る舞っているが、体調が悪いのは明らかだった。シロは自分の住みかに隠れ、少しでも体力を温存していると聞いた。
この人間も、とても具合が悪そうだ。
だけど一体何を望んでいるのだろう。
お前は、今のままのお前で良いのに。
私のように満ち足りていれば、花の匂いに苦しむことはない。
地震が起きることは、数分前には気づいていた。
クロと一緒にこの人間たちに呼び掛けてみたが、通じるはずもない。
クロには、先に逃げて、シロたちのようなまだ小さな仲間を助けるように伝えた。
私には、たとえ地震でこの命を失うとしても、この人間を見捨てて逃げることはできない。
この人間は、崩壊する家の瓦礫から私を守ろうとしていたようだった。
だが結果的に、私は瓦礫の落下により、足と胸に強い衝撃を受けた。強い痛みはほんの短い時間で、すぐに痛みの感覚すら失った。
人間程度には、できないことも多い。仕方がないことだ。
私は、もう死ぬだろう。
だけど、ただこの人間のことが気がかりだった。
この人間からも、濃い血の匂いが、命が離れていく匂いがする。
胸のあたりを痛めた私は、それを見てももう鳴き声を上げることすらできなかった。
自分もひどい怪我をしているはずなのに、この人間は、他の人間のメスを抱えたまま、私のことも担ぎ上げ、どこかへ歩いていく。
血の匂いは、濃くなっている。
私に構う必要はない。自分の心配をするべきだ。
そう考える一方で、自分の死に場所がこの人間の腕の中であることを、幸せに感じてもいた。
私は、愛という言葉の意味を、より深く理解できたように思った。
最近は少し気に入ってきていた赤い首輪が、この人間の血で汚れていくことも、どこか嬉しく感じてしまうほどだ。
少し歩いてから、花びらが舞う中で、この人間は急に倒れ、動かなくなってしまった。
弱々しい、死の匂いがする。
私と共に死ぬことは、こいつにとって幸せなことだろうか。
私は充分に幸せだ。
だが私には、この人間がそれを望んでいるとは思えなかった。
この人間は、倒れてもなお、私を守ろうとしている。
私と後ろに背負った人間を、どうにか助けようとしている。
自分の命に代えてでも。
馬鹿な人間だ。生き物なら誰しも、自分が助かることを一番に考えるはずなのに。
その瞬間、急に花の匂いが忌々しく感じだした。
むせかえるような匂いで肺が犯される。
なるほど、みんなが体調を崩しているのは、この匂いのせいか。
私もきっと、一緒にいるうちに、この人間の馬鹿がうつってしまったのだろう。
最期に、一つだけ願いができてしまった。
だから急に、こんな花の悪臭を感じてしまったのだ。
だけどもういい。どうせすぐに、私は呼吸もできなくなる。
〈花よ、この人間を生かしてくれ。私のこの体も、残り少ない命も、全て捧げるから。〉
この人間は、倒れて動かなくなった今も、私の体を離そうとはしない。
私は幸せだった。
私は、この人間を、心の底から愛している。
◇◇◇◇◇
……今のは、何だろう。
夢を見ていた。
夢の中で僕は、ハチになっていた。
願望が見せた夢だろうか。
ハチがそれくらい、僕のことを愛してくれていたら、と。
だけど、ハチが死ぬところは、ちょっと縁起が悪すぎる夢だな。
「32番の患者さん、意識が戻ったみたいです!」
夢から覚めると、看護婦が僕を見て叫んでいた。
駆け寄って来た人は医者のようだ。
ペンライトを僕の目にかざしてきて、すごくまぶしい。
瞬間、目覚める前の出来事が頭に戻ってくる。
地震。 フラウア。 血の赤色。 赤黒い花びら。
「ハチは!? 奏は!? ハチワレの猫と、金髪の女の子です、無事ですか!?」
怪我のせいか、自分の声がだいぶおかしいように聞こえた。
高い、ハチが鳴くときのような綺麗すぎる声だった。
起き上がると、自分が医者だけでなく、銃を持った男性二人にも囲まれているのが見えた。
男性たちからはなにか、嫌な感じの匂いがする。
……一体、なんだこれは。
「落ち着いて下さい。あなたが言う方々に、心あたりはあります。ですがまず、あなたのお名前を教えてください」
男性たちはなぜか僕に、映画でしか見たことが無いような大きな銃を向け続けていた。
まるで犯罪者か、危険な獣でも見ているかのような、どこか怯えた目で。
「僕は、林田ユウです。ペットのハチワレ猫と、金髪の女の子を抱えて、市立病院を目指していたはずです」
自分の声は、違和感のある高い声のままだった。
医者は、僕の顔や体をしげしげと眺めたあと、手元のボードに何やら書き込んで、そして銃を持った二人の男性に言った。
「……やはり、この方は検査の通り人間です。急性フラウアアレルギーと診断します。……もう、警戒をといて頂いて結構。退室して下さい」
銃を持った男性たちは、厳しい目をしたまま部屋を出ていく。
一体、何だっていうんだ。
「……林田ユウさん。あなたが言う、奏さんという名前の女性は、となりの病室にいます。止血が適切で、早期にこの病院に来ることができたので命に別状はなく、二日前には意識が戻り、ご友人と一緒にあなたを探していました。……あなたが、ここまで彼女を運んで下さったおかげです」
良かった。
最後の方はもう何も覚えていないけど、僕は、なんとかやり遂げたらしい。
友人とはおそらく凛のことだろう。あいつもやっぱり来てくれたんだ。
「猫にも、心あたりはあります。……いいですか、落ちついて、この鏡を見て下さい」
鏡?
そんな場合じゃない。
医者のもったいぶった言い方に苛立ちが募る。
ハチは無事なのか? ちゃんと、治療はしてもらえたのか?
「すいませんが、まずハチに会わせて下さい。鏡なんて……」
心臓が、止まるかと思った。
こちらに向けられた鏡には、猫耳の美少女が写っていた。
黒髪に、色白な肌の美少女。
まるで、ハチワレの猫を人間にした姿だった。
その頭の上で、ファンタジーみたいな黒いふわふわの猫耳が、ピクピクと動いている。
いつの間にやら着せられていた入院着の胸には、その体が明らかに女性のものであることを示す、たわわな膨らみが主張していた。
鏡を見つめる瞳は、あのハチと同じように、ビー玉みたいに好き通っている。
僕?
この猫耳の女の子が、僕だっていうのか?
いや、そもそもどうして、どうして僕はまだ生きている? あの脇腹の傷がなぜ無くなっている?
「あなたがこの病院に来た際に、左手で抱えていらっしゃったのがこちらです。……どうか、お気を落とさずに」
医者がベッドの下から取り出した段ボールには、ハチが着けていたはずの赤い首輪が入っていた。
そして、不自然なほどに綺麗すぎる、猫の白骨が入っていたのだった。