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脇腹に、激痛が走った。
凄まじい地震の揺れに、耐震機能なんて何一つない古びた僕の家の天井は崩れ、瓦礫が僕たちに襲いかかった。
揺れが収まるまで、脇腹の焼けるような痛みのこと以外、何も考えられなかった。
長い長い揺れが止まり、辺りを見回す。
フラウアの変異した赤黒い花びらが、崩壊した瓦礫の上に広がっている。
その中で、奏のそばに真っ赤な液体が広がっていた。
嘘だ、嘘だろう? こんなの。
僕は奏の方に駆け寄ろうとして、自分の脇腹に走る激痛でそのまま瓦礫の中に倒れこんだ。
口の中に血の味が溢れる。
そのまま、大量の血を瓦礫の中に吐いた。
激しい目眩がしたが、止まるわけにはいかなかった。
目の前に、金髪の頭と細い足から血を流す、奏の姿があったから。
顔を寄せると、まだ息をしているのが分かった。
……だけど、意識がない。
僕は自分の着ていたシャツを脱ぎ、比較的出血のひどい奏の太ももに巻き付け、強く縛った。
シャツは奏に触れる前から、僕の血で真っ赤に染まっていたようだった。
おしゃれな奏が、首にストールを巻いていたのは幸運だった。
僕はそれを外し、出血している奏の頭に巻き付けた。
きちんとした止血のやり方なんて知らない。
ただ、強く縛るしかない。
そこでようやく、救急車を呼ぶべきだと気づいた。
ポケットからスマホを取り出す。
自分の体からたくさんの血が流れているのが見えた。奏の出血量よりも、それは明らかに多かった。
また、吐血した。体から力が抜けていくのがはっきりわかる。
時間がない。
たぶん、僕はかなりまずい状態だ。だけど。
〈耐えろ。まだ、倒れるな。〉
震える手で、119を押した。
電話は、繋がらなかった。
たぶん、たくさんの人が、同じように119をコールしているのだ。
もう一度かけても、もう一度かけても、繋がらなかった。
口の中には、また血の味が溢れていた。
振り返ると、ハチが弱々しい瞳でこちらを見つめていた。
しなやかで美しかったはずの後ろ足が、両足とも潰れている。
血はでていないけれど、明らかに他にもどこか痛めているようだった。
こちらを見つめて、口を少し動かしているけれど、鳴き声すら出ていない。
ハチ。
呼ぼうとしたけれど、僕もほとんど声がでなかった。
もう一度119をコールする。繋がらなかった。
もう、自分の体の痛みはほとんど感じなくなっていた。
スマホから、メッセージが届く音がした。
『二人とも無事か? 私は大丈夫だ』
どこかの運動場からの、凛のメッセージだった。
良かった。
メッセージは届くんだ。
『奏が怪我 意識ない 119ダメ 市立病院向かう』
文字をうつたび、スマホの画面が自分の血に染まっていく。
送信できたはずだが、既読になったかは確認している暇はなかった。
あえて、自分の怪我のことには触れなかった。
だけどこれできっと、凛は理解してくれるはずだ。
きっと凛なら、119をコールしながら、近所の市立病院から僕の家までの間を全力で探してくれるはず。
僕は、感覚が薄れた自分の体を無理やり動かし、まだ意識のない奏の腕を掴むと、背中にその力のない体を背負った。
奏の十字架のネックレスが僕の肩に当たる。
また、口の中に血が溢れたけれど、不思議と脇腹の傷は痛まなくなっていた。
畳に散らばっている、変質したフラウアの花びらの朱色が、僕の血で鮮やかな赤に塗りつぶされていく。
僕は奏を背負ったまま左手で、ぐったり横たわるハチを拾いあげた。
せめて、庭まで出なければ。
この古い家は、地震の影響でいつ崩壊してもおかしくない。
〈なんとしても、奏とハチを運び出すんだ。〉
普段自分のことを、女の子みたいに非力だと嘆いていたが、踏ん張ると意外とそのまま歩くことができた。
縁側から庭を見て、がく然とした。
庭には、撤去したはずのフラウアがまた異様な速度で繁殖し、変異した赤黒い花びらで、地面を埋め尽くしていた。
そのフラウアはこれまでより明らかに背が高く、ここで倒れたら、凛か救急車が助けにきてくれたとき、奏とハチを見落とす恐れすらあった。
視界が歪んだ。
血を失い過ぎたからかもしれないし、フラウアの強烈な臭気にやられたからかもしれない。
『友達は大事にすること。だって大好きな友達だから』
さっきの奏の言葉が頭に浮かんだ。
背中の奏からは、まだ息をする音がする。
左手で抱き抱えたハチの体は、まだ暖かかった。
黒猫のクロの姿は見えない。
無事でいることを、信じるしかなかった。
〈奏とハチは、絶対に助けてみせる。〉
〈歩け。歩け。〉
病院まで進むんだ。少しでも開けた場所へ進むんだ。
自分でも驚くほど、体が言うことを聞いてくれる。
一歩ずつ、ずん、ずんと前に進む。
憎らしいフラウアの花を踏みつけ、一歩ずつ、前に進む。
家の前の道路も、フラウアの醜悪な赤色だらけだった。
腰より高いくらいに伸びたフラウアからは、甘いような腐ったような、気持ちの悪い匂いがする。
一瞬ふらりと意識が遠退いたけれど、まだ、まだ倒れるわけにはいかない。
家の前の道は、左に進めば市立病院が近い。
ハチを治療するための動物病院は逆方向だったし、そもそも距離がありすぎる。
大地震の直後で、営業しているとも到底思えない。
市立病院で何かしら手当てしてくれると信じて、ハチも一緒に連れていくしかなかった。
一歩ずつ、前に進む。
ごめん、ごめんなハチ。
きちんと守ってあげられなくて、怪我させてごめん。
すぐ、動物病院に連れていけなくてごめん。
一歩ずつ、前に進む。
せめて、なんとしても市立病院までたどり着かなければ。
道路がフラウアに埋めつくされて、ほとんど前が見えなかった。
フラウアの茎が邪魔で、歩くたびに抵抗を受け、赤黒い花びらが舞う。
〈邪魔だ、どけ。このクソ花、どけ!〉
一歩ずつ、前に進む。
急に、視界が開けた。
獣道みたいに、なぜかフラウアがさらに赤黒さを増して左右に分かれており、僕の進む道が開けている。
生物の願いを叶える花、フラウア。
最初、ニュースで見たアメリカの発表は、手品としか思えなかった。
餌とネズミを、大量のフラウアで遮り、ネズミは餌を取れない状態にする。
1日たち、ネズミが餓えると、急にフラウアが赤黒く染まって左右に別れるように広がり、道ができる。
ネズミが餌に貪りつく姿を見せ、アメリカの研究者は、このフラウアを世界の希望だと言った。
今、僕の前の道は開けた。
僕が強く願う通りに。
餌を目指す飢えたネズミが願ったように。
脇腹から大量に血を流しながらも、どういうわけか、僕は奏とハチを抱えたまま、歩き続けることができていた。
だけど本来なら、人間にこんなことができるとは思えない。何かが僕に、ありえないはずの力を与えている。
生物の願いを叶える花、フラウア。
ふざけるな。
だったら、だったらはじめから、地震がおきないようにしてくれよ。
こうなってから、今さら願いを叶えられたって、遅いんだよ。
意識したとたん、体から急に力が抜けた。
前のめりに倒れながら、小さなハチの体を潰さないようにするので精一杯だった。
道路に強く体を打ち付けてしまった。
衝撃でフラウアの赤黒い花びらが舞う。
奏の長い金髪がふわりと僕の顔に乗った。ハチの赤い首輪が、僕の血で湿っていた。
もう、指一本として、動かない。
フラウア、僕はお前らの匂いが大嫌いだ。
この花びらの色合いも最悪だ。
地震が起きたのも、よくわからないけど絶対お前らのせいだ。
だけど、今だけ、心の底から願う。
〈僕はどうなってもいい。だからどうか、奏とハチを、病院まで連れていかせてくれ。〉
視界がフラウアの花びらで埋まった。
意識は薄れ、もう抵抗もできなかった。