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怪しい宗教勧誘のおじさんは、何人かの避難者の前で、いまだに何やら不愉快な話を続けている。
奏はちょっとおかしな距離感で、僕に肩をくっつけながらおとなしく座っていた。
先日、奏が病室で本を読んであげていた子供たちが廊下で遊んでいたようで、それを見ながら少し優しい匂いをさせている。
僕たちと話していた自衛隊の青年が、ちょうど休憩を終えて持ち場に戻ろうとしたとき、病院の外から急に激しく銃声が響いた。
珍しく、銃声は長く何度も続いている。
宗教のおじさんも含め、ロビーにいた全員が急に口をつぐみ、いつまでも続く破裂音だけが避難所に広がった。
何事か、と自衛隊の青年があわてたように病院入口のドアに駆け寄ったとき、僕もそのドアのガラス越しに外が見えてしまった。
バケモノが、何匹も近づいてくる。
自衛隊の青年はすぐにこちらを振り向き、声を張り上げた。
「……みなさん! 聞いて下さい! 慌てずに近くの病室に入ってドアを閉めて下さい! バケモノが来ています! 慌てずに、病室に入って、ドアを閉めて!」
やっぱりか。
なんでこんな、僕たちがロビーに追い出されてきたタイミングで。
宗教勧誘のおじさんも、その周りに集まっていた人達も、我先にと慌てふためいて廊下の奥へ走っていく。
急な危機に固まっている奏の肩を掴み、立ち上がらせようとしたが、彼女は逆にその僕をはね飛ばすような勢いで立ち上がると、血相を変えて廊下へ走り出した。
その目が見ているのは、逃げ込むべき病室の扉ではない。
ボールかなにかを持ったまま固まっている、小さな二人の子供たちだ。
一瞬、自分もバケモノに応戦することは頭によぎった。
だけど廊下にはまだ何人も他の避難者がいる。僕の猫の姿や力を見られるのは避けたい。
自衛隊もいるんだ。おそらくうまくやってくれるはずだ。
「奏! 早く病室に……!」
とにかく奏に続いて走りだし、声をかけたその瞬間、病院の入口のドアがけたたましい音を立て、ガラスが床に散らばる、絶望的な音が聞こえた。
ドアで遮断されていたはずの、バケモノたちの匂いがすぐに強く鼻についた。
何かが激しく着地したような音と、唸り声のような音が聞こえるが、振り返って確認している余裕はない。
奏は子供たちを抱くようにして歩かせ、近くの病室のドアを開けようとした。
が、内側からロックされているのか、扉は開かない。
ガチャガチャと扉が揺れる音だけがする。
きっと、わずか数秒前に駆け込んだ避難者が、もう扉に鍵までかけてしまったのだ。
僕たちだけでなく、まだ廊下には何人も残っているというのに。
「開けて下さい! 子供たちがいるんです! 開けて!」
奏が叫ぶ。だけどドアの内側からは何の返事もない。
まじかよ、と青ざめながら入口の方を振り返った。
同時に、また単発の発砲音が聞こえた。自衛隊が戦ってくれている。さっきまで話していた青年かもしれない。
同じ建物の中で聞くと、銃声はすごい大きさだ。
耳が痛くなるくらいだけど、でもその音は病院のほんの入口あたりから響いているようだった。
こちらの廊下に入るところには、一匹、四足歩行のバケモノが見える。
唸り声と獣の匂い。こちらを狩ろうとする、敵意を感じる視線。
犬だ。犬が集団でこの病院を襲ってきたということか。
廊下の奥から、誰かの悲鳴が響く。
土か何かで薄汚く汚れた犬のバケモノが、ゆるりとこちらへ歩み出す。
また何度も銃声が続いた。でもそれは、この僕たちの目の前のバケモノに向けられたものではないようだった。
「開けて! 誰か! 開けて!」
扉は開かない。繰り返す奏の悲痛な叫びは、扉の内側の避難者には響いていない。
犬のバケモノが一瞬身を低くかがめ、そしてこちらに走り出した。
しかもその後ろには、またもう一匹、追加のバケモノの姿まで見えてしまっている。
廊下にはまだ逃げられていない人達がかなりいるようで、まさにパニック状態だ。叫ぶような悲鳴が奥からたくさん響いてくる。
だけどこんな状態にも関わらず、横目に映った奏を見て、僕はほとんど泣きそうなくらい、感極まっていた。
さっきまでの慌て方が嘘のように、奏は二人の子供たちを庇うように抱きしめて、二人に優しく、暖かく笑いかけながら、何かを話しているみたいだった。
とたんに、バケモノの走る姿が、僕の目にはスローモーションのようにゆっくりと映った。
奏からは、強い恐怖の感情が匂いではっきりと伝わってくる。
だけどその作られた笑顔は、二人の、ほとんど見ず知らずに近いくらいの子供たちを身を呈して守り、少しでも落ち着かせてあげようという、強い覚悟で固められていた。
バケモノの荒い息遣い。廊下を駆ける足音。
二匹目のバケモノが、こちらを見つめる悪意の視線。
病院の中には、あのフラウアの赤黒い花は見えない。だけどどこからか、その匂いが強く漂っているように感じた。
〈戦え。ためらうな。奏を守るぞ。〉
覚悟を決めた瞬間には、犬のバケモノは僕たちのすぐ前に迫っていた。
だけどそのバケモノはこちらに飛びかかる前に、一瞬で距離を詰めた僕の鋭い爪で、バラバラに引き裂かれ、ほとんど細切れになって廊下の壁に叩きつけられていた。
右手五本の指、爪の全てに、昨日までよりさらに強い力を感じる。また、自分の強い決意が、フラウアの力を触媒にして僕の肉体を強くしていく。
また廊下からは悲鳴が続いた。
もう一匹のバケモノがこちらに走りだしたせいなのか、僕が作り上げたスプラッタな光景のせいなのかはわからない。
銃声は続くが、やはりこちらに向かってくるバケモノには対処できていない。
それでも変わらずに、優しく子供たちに微笑み続ける奏の表情は、どこまでも尊いものに見えた。
間近に迫る死の気配の最中、奏はただひたすらに、目の前の子供たちを抱き締めるようにしてかばいながら、自分の恐怖をおし殺し美しい笑みを浮かべている。
胸元では、大事にされている銀の十字架のネックレスが光っていた。
まったく、昨日の夜は性欲のおばけみたいになってたくせに、こういうところが本当にかっこいいんだよなあ。
それこそ怪しい宗教みたいだけど、昔に世界で聖人とか言われていた人達は、こんな感じの人だったんだろうな、なんて少し場違いなことを思ってしまう。
その奏を守る。
そう決意するだけで、眼前に迫るバケモノに対してこれっぽっちも恐怖は感じない。
自分の体を通じて、猫の、ハチの力が爪にこもる。
五感は研ぎ澄まされて、二匹目の犬のバケモノがこちらに飛びかかる姿は、あまりにも遅く、弱々しく感じるほどに軟弱に見えた。
空中の相手の前足の軌道を、体を傾けて滑らかにかわす。
すれ違うようにバケモノの首から尾までを撫でると、その体は見事なまでに真っ二つに割け、それが廊下の床に重力で叩きつけられた後、遅れて赤い鮮血が広がった。
ちょうど二匹目のバケモノの絶命を間違いなく確認したあたりで、入口のあたりから聞こえていた銃声も止まった。
廊下はしんと静まりかえり、床に広がったバケモノの血液と、あたりの避難者たちの消えない恐怖の匂いが残った。
「みなさん! 無事ですか! ……って、猫のおねえさん! こいつら、あなたが相手してくれてたんすね」
駆け寄ってきたのは、片手に拳銃を握りしめた、先ほどの自衛隊の青年だった。
彼の背中のあたりからは、深刻なほど多くはないが、血の匂いがする。
子供たちを抱きしめたままだった奏も、その彼の怪我にすぐに気付き、男嫌いのくせに立ち上がって駆け寄ってきた。
「ひどい怪我!……とにかくこっちに座ってください。誰か! お医者さんを呼んできて下さい! 誰か早く!」
奏は叫びながら、自衛隊の青年が装備していた頑丈そうな上着を脱がしていく。
そして驚いたことに自分の上着も脱ぎ捨て、さらに下に着ていた柔らかい生地の肌着まで脱ぐと、それを自衛隊の青年の体に巻き付けて止血を始めた。
奏の艶かしい背中が廊下にさらけだされる。
胸を眼前に向けられた青年は、痛みに顔を歪めながらも、その胸を直視しないように顔を背けてくれていた。
僅かほどにもためらわずに、怪我人のために自分の衣服を脱ぎ捨てることができる女性が、この子以外にいるだろうか。
どれだけ訓練された医療関係者でも、神様を信仰した宗教家でも、きっとこんなに美しい行動ができるはずがない。
僕は裸の奏を、落ちていたその上着で隠すようにして覆ったけれど、邪魔するな、とでもいうかのように彼女は、青年の体を自分の肌着で強く縛り続けた。
しばらくすると、お医者さんが来て、自衛隊の青年の対応を代わってくれた。
奏はようやく上着を羽織り、今さら照れたようにこちらににっこりと笑顔を見せた。
「……猫のおねえさん。俺たちの不手際で、迷惑かけました。みんなを守ってくれて、本当にありがとうございました」
自衛隊の彼もまた、自分の怪我のことよりも、僕や他の避難者のことを優先に考えてくれている。
「お友達の金髪のおねえさんも。俺なんかのためにここまでしてくれるなんて。俺、ピョンちゃんよりもかっこいいと思った女の人って、あなたが初めてかもしれないっす。……本当に、ありがとうございます」
奏は上着の前のジッパーを閉めて、その裸を隠しながら、何も言わずにっこりと微笑んだ。
どうやらバケモノの襲撃も、もうかたがついているようだ。
他の自衛隊員が銃を下ろしたまま、ロビーのあたりからこちらを見て、トランシーバーで何やら話をしているのが見える。
お医者さんたちが手際よく、怪我をした青年を運び出す準備を進めていて、少し僕としては安心したような気持ちになっていたが、そのあたりからだんだんと、周りで嫌な匂いがしはじめた。
不安、恐怖、疑い。
ハチのくれた嗅覚が、周りの人達の心を匂いとしてとらえている。
ハチのくれた聴覚は、ざわざわと廊下に顔をだし始めた他の避難者たちのコソコソとした声を、正確にとらえていた。
避難者たちの視線は、裸をさらけだしていた奏ではなく、怪我をした自衛隊員やバケモノの死体でもなく、フードが外れた僕の猫耳と、血で染まった長く鋭い爪に向けられていたのだった。