4-2
翌朝。
部屋には、昨晩の名残の、とんでもない匂いが残っている。
まだ布団にくるまって寝息をたてている奏は、憑き物が落ちたような、いかにもスッキリしました、というような、健やかな寝顔を見せていた。
……僕はいったい、なんてことを。
僕は男だ。こんな体になっても、心はまだ男だったはずだ。
なぜ、なぜさかりの付いた猫みたいに、奏のアレを触りまくってしまったのか。
しかも三回も。
三回って。奏も奏で元気すぎるだろ。
まだ一応、僕の貞操は無事だ。その一線だけはギリギリまだ越していない。
他のラインはかなりぶっちぎってしまったけれども。
でも僕、大丈夫かこれ。
もうすでに男としての心や理性が、この体の女、というかメス猫の部分にかなり侵食されてるんじゃないか。
自分の手には、昨晩の奏のそれの匂いがひどく残っているのに、全然不快感がない。というか、また発情しかけているような、ふわふわした感覚に襲われる。
だめだだめだ。
恐るべし、これが発情期ってことか。
全く理性が働いていない。
口の中にも残っている昨晩の苦味みたいなものも、吐き出したいとは全然思えない。
しかもなんで僕、いまこの汚い手をクンクンしているんだよ。
なんか、いい匂い?
……だめだだめだ。
体が熱い。なんだよこれ。
たぶんこの匂いがだめなんだ。とりあえず換気が必要。
ふらふらしながら病室の窓を開けると、窓から差し込む朝日で、奏がもぞもぞと目覚めてきた。
先に起きてきた僕に気づくなり、昨晩のことを思いだしたのか、顔を赤くして布団を顔までかぶってしまう。
正直、かなりかわいい。
ただ、本来そのリアクションは、僕のポジション側がするべきリアクションなのでは。
「き、昨日は本当に、ありがとうございました。その、最高でした」
奏は下半身むき出しで眠っていたので、そそくさとズボンをはきなおしながら、照れたようにそう言った。
股関だけは完全に男性化してしまっている奏も、まだそのふわふわの胸は健在で、ユルユルの寝間着から覗く胸元がかなりエッチである。
最高、と言われても、僕は男なんだよなあ。
何故か、自分のしっぽがぴんと嬉しそうに上を向いてしまっているけどさ。
「き、今日からは自分で頑張るんだよ? 僕はほら、男なんだから。昨日は特別だから。そう、昨日が特別だっただけだよ、うん」
その言葉に奏は、明らかにがっかりしたような、しょんぼりした表情になる。
「ほら、凛も今日からは一緒にいるだろ? ていうか奏は本当は凛を狙ってるわけじゃん? だからほら、この話はもうこれでおしまいだよ、うん」
予想通り僕たちは、今日からもうこの個室の病室からは追い出されることになり、一階のロビーで生活するように言われてしまっていた。
そりゃあ奏の怪我もすっかり治っていて、避難所だというのに夜はこんなとんでもないことまでしているんだから、個室を追い出されるのも当たり前というものだ。
凛とも昨晩のうちにメッセージのやりとりで相談し、とりあえず今日のお昼過ぎには、一旦僕たちを迎えにここまで帰ってきてもらうことにしている。
凛は今日の午前中に僕の家の周辺を調査する予定で、特に問題が無さそうなら、今日の夜からはとりあえず僕の家に拠点を移すことに決めたのだった。
奏はいまだに残念そう、というか少し元気が無さそうな顔になっていて、ちょっと情緒不安定気味な感じがあるのが心配だ。
「……わたしさあ、男の人がいやらしいことするのとか、昔からすごく苦手だったくせに、自分がこんな体になって、その苦手だった人達と、同じようになっちゃってるのかも。……また、ユウにあれ、して欲しいって思っちゃってるし。凛のことも、これから正直、今までよりずっと、いやらしい目で見ちゃいそうな気がする」
奏は水道で顔を洗い終わると、鏡を見つめながらため息をついた。
思春期の男子みたいな悩みだが、自分の体の変化に振り回され、奏も本当に困惑しているようだ。
急に下半身だけ女性の部分を失い、変なものがついてしまったなんて、実際かなりショッキングだろうということは、似たような状況の僕にだけは理解できる。
「それって別に、そんな悪いことじゃないと思うよ? 奏はちょっと、悪く考えすぎじゃないかな」
僕も綺麗な水で手をごしごし洗いつつ、さりげなくフォローしてみる。
「奏にとっては凛だとか、好きな人をそういう目で見ちゃうのは当たり前だし、悪いことじゃないよ。見境なく色んな人と関係をもったり、無理やりそういうことをするのが良くないってだけで、昨日みたいに、その、同意でああいうことをするのは、何も悪くないし、別にいいんじゃないのかな」
同意、という言葉に、奏の表情が急に明るくなったけど、それはとりあえず見なかったことにした。
これまでに集めてきた物資をまとめて、奏と大きなバックを背負い、非力な二人組みでロビーまでよちよちと歩いていく。
ずっとベッドの下に置いたままにしてしまっていたハチの白骨は、奏が用意してくれた適当な布で風呂敷みたいに包んで、荷物の一番上に大切にまとめておいた。
荷物はなにぶんかなりの重量になったので、ロビーに出るとかなり目立ってしまったが、とりあえず凛が戻るまで、あと数時間の辛抱だ。
僕は猫耳姿を隠すため、フードをかぶって下を向いていないといけないし、ズボンの中に無理やり納めたしっぽも、かなり不快感が強い。
「……つまり、フラウアはまさに、この地球の意思、神のご意志を具現化した存在と言えます。例えば地球の温暖化。フラウアによって世界が変質したことで、間違いなく我々人類の営みによる悪影響は小さくなっているはずです」
ロビーの真ん中では、いくらか人が集まって、何やら不審な話をしていた。
わざわざ気持ちの悪い話をしているのは、避難所生活中だというのにどうしてか少し身綺麗な、4、50代の男性だ。
「フラウアに寄生されてしまった者は、残念ながら、その神による選別に耐えられなかった者たちと言えます。一方でフラウアの力により新しい自分に目覚めた方々は、まさにその神に選ばれしものと言えるでしょう」
何かこいつ、臭い。
怪しい宗教の勧誘作業だろうか。鼻につく、虫酸が走るような匂いがする。
宗教絡みで刑務所送りになった両親のトラウマもあって、こういうカルト的な話が大嫌いな奏の横顔を見ると、案の定、今にも殴りかからん、といった形相になっていた。
「なんなのあいつ。人がいっぱい亡くなって、みんな悲しい想いをしてるってのにさ。何が選ばれしものだよ。頭おかしいよ」
気持ちはよくわかるが、騒ぎにはなりたくなかったので、とにかく奏の肩を必死におさえておいた。
その怪しいおじさんの周りには、なんだかんだ興味をもってしまったような人達がいくらか集まってしまっている。
人が弱っているところにつけこんでいるみたいなやり方、本当に気に入らない。
「俺は気に入らないっすね、ああいうの。あ、おはようございますお姉さんがた。もしかしたらあの部屋追い出されちゃったんですかね?」
こちらの頭の中を読みとったかのようにやってきたのは、昨日部屋まで荷物を運んでくれた、自衛隊の好青年だ。
休憩時間なのか、銃も持たずに僕たちの横に座りこんだ。
「あいつら、他の避難所でもおんなじように勧誘やってるらしいっすよ。どこから沸いてきてんのか、ムカつきますけど、とりあえず見て見ぬふりしとけって、上から言われてんすよね。なんか宗教の自由だかなんだかって」
青年は悔しそうに、でも明るく爽やかな笑顔のまま背伸びをしている。
「あ、そういえば昨日、ラジオのこと教えて下さってありがとうございました。僕らも聞きましたけど、本当に感動っていうか、楽しかったっていうか」
僕がそう言うと青年は、いかにも嬉しそうに笑って、自分のスマホを見せてくる。
画面には、CGみたいにかわいすぎる、ウサ耳の美少女が映っていた。
「ね、すごいっしょ、俺らのアイドル、ピョンちゃんは! これ、今のその実物の写真らしいっす! Vtuberのときとほんとそのまんまみたいで、マジかわいいでしょ? これこそ神に選ばれしもの、って感じっすよね!」
奇しくも、ロビーに陣取っている怪しい宗教家にそっくりな発言だったが、あまりにも屈託のないその笑顔に、男嫌いなはずの奏まで、クスクスと笑ってしまっていた。
「あっそうだ。お姉さんたち、このロビーで過ごすの、夜とか大丈夫そうっすか? 正直、二人とも結構美人さんだし、危ない気がするんすけど。実は別の避難所に移動したい人を、明日から順次移送していく予定なんです。ほら、ここってそもそも本来避難所じゃないから、生活環境が整わないでしょ」
青年は奏と僕を交互に見て、本当に裏表がない、気づかうような匂いをさせている。
本当にこの人、いいやつなんだな。僕がまだ男の体だったなら、ぜひ友達になってみたかった。
「ふふ、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。実は今日のうちに、この避難所を出るつもりなんです。近所に僕の家があるので、とりあえずしばらくは仲間とそこで暮らそうかと。あ、でもこの病院にはちょくちょく物資を持って顔を出しますよ」
そう言うと自衛隊の青年は、うんうんとうなずいてくれた。
「ちゃんと集団で行動するなら、案外それが一番良さそうっすよね。定期的に顔を出してもらえるならこっちも安心できます。もちろん安全の確保は楽じゃないでしょうけどね。……そういえばお姉さんたちの仲間って、あの背の高い、金属バット持った美人さんでしょ?」
お、凛のこともちゃんと把握してくれてたのか。ついに金属バットが彼女のトレードマークみたいに言われてしまってるようだけど。
「あの人、俺らの中でも有名なんすよ。この病院にあの人が来たとき、俺らの目と鼻の先でバケモノをタコ殴りにしてましたからね。俺らは銃があってもビビりまくってたのにさ。あれ見たおかげで、俺らも落ち着いてバケモノに対処できるようになったんすよね。まあ、あの人が一緒なら、外で暮らすのも大丈夫じゃないっすか」
その後も自衛隊の青年と雑談をしつつ、メッセージアプリの連絡先も交換しておいた。
今後何か避難者への連絡事項なんかがあったら、メッセージで知らせてくれる、とのこと。
よく考えてみれば新手のナンパ的なものだったのかもしれないが、まあこの好青年となら、連絡先交換くらいは望むところだ。
「……へー。ユウはもう、男の人が好きになっちゃったのかなー。だから昨日もわたしのアレを……なるほどねー」
奏はそれをジト目で見つつ、小声で嫌なことを言ってきたが、さすがにそれはない。一生ない。
男といちゃラブなんて、さすがに考えるだけで寒気がするんだけど。